オレンジジュースとテニスラケット
「あら、もうこんな時間」
私は社長室に掛けられている時計を見上げて呟いた。千晶はとっくの昔に帰っており、秘書室には誰も残ってはいない。時間は二十時。会社の定時から三時間は仕事に没頭していたことになる。今日は七歳になる息子、誠を連れて那瑠の店に向かうことになっていたので、私は急いでパソコンで作業していたプログラムを閉じていき、足早に会社を出た。もう璃音と誠は那瑠の店にいるだろう。会社と那瑠の店が近くて助かった。
「いらっしゃいませ~」
カランカランという鈴の音を聞いて、私は那瑠の店、ユーモレスクに入る。今日はクラシックが流れていて、私が好きだと知って流してくれているのかな、なんて想像した。
「お待たせしました」
「お母様、遅かったね」
「ごめんね誠、仕事が忙しいなんて言っちゃだめよね、気を付けるわ」
「ううん、大丈夫」
「璃音もすみません」
「良いんだ、那瑠が誠の相手をしてくれていた」
「あら、こんなに賑わっていますのに」
周りは飲み客でいっぱいで、こんな中相手をしてくれるなんて忙しくはなかったのだろうか。後で那瑠にも謝らなければ。
「お、来たね」
那瑠が私が座ったタイミングでやってきた。手には何やら図形が書いてある紙を持っている。
「誠のためにと思って、印刷してきたんだ。この四角の中で丸やら三角やらあるだろう?これを線を交差させないようなルートを使って結ぶってやつ」
「楽しそうですね」
「楽しそう!」
「これあげるよ」
「ありがとう那瑠ちゃん」
「那瑠、遅くなってしまいすみません」
「良いんだ、最近はバイトの子が仕事をだいぶ覚えてくれて、私が料理をするのは手の込んだものばかりさ。今日のコース料理は私が作らせてもらったけど」
「あら、そうなんですね。それは嬉しい事です」
「これから運ばせてくるから、ちょっと待ってて」
「はい、よろしくお願いします」
那瑠はそう言って厨房の方に行ってしまった。三人で暫く会話する。今日学校ではどんな事があったのか、どんな宿題が出たのか等、誠中心で会話は弾んだ。
「お待たせしました、鶏ささみと玉ねぎの冷製スープです」
そんな中バイトの子が料理を運んできてくれる。私たちは膝に手を置いて、それらが置かれるのを待った。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
私たちは早速冷製スープを口に運ぶ。コンソメの効いたさっぱりとしたスープだ。とても美味しい。
「美味しいね」
誠がにっこりと笑ってそう言った。その切れ長の目は璃音似だ。大きくなったなあと感慨深く思っていると、璃音と目が合った。
「何か考えているな?」
「ええ、誠の目は璃音に似てくれてとても素敵だなと思いまして」
「ふふ、僕素敵?」
「もちろん、素敵ですよ」
「ありがとう」
誠ははにかんで口元をきゅっと結ぶ。その癖は私譲りか、と思った。
スープがなくなったタイミングで次の料理が運ばれてきた。前菜、サーモンとズッキーニのカルパッチだ。みんなで口に含む。
「誠、酸っぱくないか?大丈夫か?」
「うん、大丈夫、美味しい」
璃音はそれなら良かった、と言ってまたカルパッチョを口に運んだ。私は子供の頃酸っぱいのが苦手だったので、誠は好き嫌いもなく育ってくれて良かった。カルパッチョはよく那瑠が作る料理の一つである。彼女自身が好きなのだろう。大学時代から、彼女は酒の肴にカルパッチョを作ってくれていた。
「この野菜は何?」
誠がフォークでズッキーニを丁寧に持ち上げて訊いてくる。
「それはズッキーニよ」
「ズッキーニ?不思議な味がするけど、美味しい気がする」
「口に合わなかったら残しても良いですよ」
「ううん、出してもらった料理は残さず食べなさいって言われてるし、不味いわけでもないから食べるよ」
「偉いな、子供の頃の桜とは大違いだ」
「璃音ったら」
「お母様は残してたの?」
誠の無垢な瞳に見つめられて、私は照れながら答えた。
「私は好き嫌いが激しかったので、よく残してましたよ」
「そうなんだ」
誠はちょっと誇らしげにカルパッチョを完食した。
「美味しかった!」
「それなら良かったです」
「次は何かな」
「ラムランプのワイン煮込みですね」
「ラムランプは何?」
「子羊のお肉ですよ」
「へぇ、食べた事ない」
誠はそう言ってまだかな?とそわそわし始める。程なくして料理は運ばれてきた。
「わあ、美味しそうな匂い」
「ラムは煮込むと美味いからな、誠の口に合うといいんだが」
「お父様もお母様も心配しすぎ」
誠はちょっと眉を寄せてそう言う。二人でごめんねと謝った。誠は早速ラムランプにナイフを入れる。スッと切れたので余程柔らかく煮込んでくれたのだろう。私と璃音は誠が一口食べるのを見守った。
「お、美味しい……」
誠が感嘆の声を漏らす。ホッとした私たちも一口食べた。
「あら、美味しい」
「でしょ?温かいうちに食べなきゃ」
誠はそう言ってまた一口、もう一口、と食べていく。
「そんなに急いで食べなくても逃げませんよ」
「確かに」
誠は少しペースを落として食べた。私たちも誠を見守りながら食事を進める。
それにしても美味しい。家でもこれが食べられたらなと思うが、やはりここで食べるからこそ美味しいのだろう。私はそう割り切ったが、誠はちょっと不服そうだ。
「家でもこういうの食べられない?」
「コース料理ですか?」
「うん」
「食べられないことはないですが、それだとここで食べる料理が特別ではなくなってしまいますよ」
「それは困る」
「でしょ?たまに食べるから美味しいのです」
「うん、そうだね」
気を取り直したのか誠はにっこりと笑い、次は何かな~とメニューの紙を眺める。私もつられてメニューを見た。次はキノコたっぷりのリゾットだ。
「お待たせしました、キノコのリゾットです」
今度は那瑠が自ら運んできてくれる。そして食後の飲み物はどうなさいますか?と訊いてきた。
「では私にはアイスアメリカンを」
「僕にはバニラ・ラテを」
「僕にはオレンジジュースをください」
承知しました、と言って那瑠は去っていく。私たちはそれを見送ってから料理に手を付けた。
「あちち」
「ゆっくり食べてくださいね」
「うん」
冷ましながらゆっくり味わえば、キノコの風味が口いっぱいに広がる。三人で美味しいね、と口を揃えて言って微笑んだ。
リゾットを完食してしまうと、あとはデザートだ。今日のメニューを見ると、イチゴのムースケーキと書いてある。きっと那瑠の手作りだ。そう考えるとわくわくする。
そうして暫く待っていると、デザートと共に飲み物が運ばれてきた。誠は喜んでオレンジジュースに手を伸ばす。私もストローでミルクを掻き混ぜてからアイスアメリカンを一口飲んだ。いつ飲んでも美味しい。その後イチゴのムースケーキを食べながらのんびりとした時間を楽しんだ。
「美味しかったかい」
那瑠が個室の暖簾をくぐってやってきた。私たちは大きく頷いて、美味しかったですと答える。しかし、那瑠は何か隠しているようで、後ろ手に何か持っている。
「誠、誕生日おめでとう!」
大きな包みを出してきた那瑠はそう言って誠にそれを手渡した。誠はそれを受け取って、何が入ってるの?とわくわくした顔で那瑠に訊ねる。
「まあ、開けてみな」
「良いの?」
「良いよ」
誠はやった、と呟いて早速包みを開いていった。
「わあ!テニスラケット!」
「桜は子供の頃からテニスしてたって聞いたからさ、誠もするかと思って」
「ずっとやってみたかったんだ!ありがとう那瑠ちゃん!」
「どういたしまして」
「良いんですか那瑠、こんな安くはない物を」
「ああ、良いよ。いつも桜たちにはお世話になってるし。誠もかわいがってやりたいしな」
「本当にありがとうございます」
「良かったな、誠」
璃音にポンと頭を撫でられて、誠は本当に嬉しそうだ。
「これでお母様が休みの日は家でテニスが出来るね!」
「そうですね、腕が鈍っていないと良いのですが」
「僕と一緒に練習しよう」
「それも良いですね」
那瑠は微笑んで私たちを見ていた。それが妙に懐かしい。いつも那瑠の部屋で飲んでいた時の目だ。那瑠は母親のような目つきをしている。
「私の顔に何かついてるかい?」
「いいえ、そういう訳じゃないのです、その目つきが凄く懐かしくて、つい見てしまいました」
「そうか」
那瑠はクスリと笑って、じゃあまた後で、と行ってしまった。少々寂しくなりながらも、私たちはそろそろ帰ろうと言って席を立つ。忘れ物がないかチェックして、私たちは那瑠にお会計をしてもらって外に出た。
「また来てよ」
「ええ、必ず」
「那瑠ちゃんバイバイ」
「またな、誠」
「那瑠、今日の料理も美味しかった」
「ありがとう璃音、それじゃあ。またのご来店をお待ちしております」
私たちは手を振って彼女と別れて、帰路に就く。那瑠は私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。
誠を真ん中にして手を繋いで歩く道は、夏の香りがしてとても心地良い風が吹いている。車通りの少ない道を選んで歩き、鷹之宮邸に着く頃には、誠は疲れて璃音の背中で寝てしまっていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様、旦那様、お坊ちゃま」
「ただいま帰りました。誠、着きましたよ」
「ん、んん」
寝ぼけ眼でぼんやりと私の顔を見る誠。私は早くお風呂に入ってベッドに行きなさいな、と言って自室へと入った。まだやりたい仕事が残っていたのだ。社用のノートパソコンを開き手早くパスワードを入れて、USBを取り付ける。一気に仕事モードに入った私は、今度の財閥総会の資料に目をやり、挨拶の言葉を考え始めた。ワードでずらずらと書いては消しを繰り返して、物の数分で仕上げる。それを印刷してファイルに入れて、次の仕事に取り掛かる。それを何度か繰り返して、深夜の一時を過ぎた頃、じいやがコンコンと部屋のドアをノックして入ってきた。
「お嬢様、そろそろお風呂に」
「ええ、そうしましょう」
私はじいやにお礼を言って立ち上がる。着替えを持って風呂場に行くと、ちょうど璃音が髪を乾かしていた所だった。
「あら、璃音も夜更かしですか?」
「ああ、ちょっと明日の授業の資料をな」
「なるほど、湯加減いかがでした?」
「ちょっと熱かったな」
「ふふ、そうだと思いました。璃音の顔赤いですよ」
「仕方ない。誠は熱い風呂が好きらしい」
「そうですよね、いつも誠の後に入ると熱いですから」
私たちはそんな会話をして、璃音が脱衣所から出ていくのを見届けてから服を脱ぐ。鏡の前で一回りして、体型が崩れていないかをチェックしてから風呂に入った。
次の休日まで、私は夜通し働いた。秘書の千晶からは働きすぎですとお小言をもらってしまったが、後悔はしていない。第二秘書、玲奈からは社長が働きたいなら良いんじゃないですか?と緩く言われたので、私は結構気を楽にして仕事をしたのだった。
「お母様、今日はお仕事には行くの?」
朝食をみんなでとっている時、誠が寂しそうな顔で私にそう訊いてきた。土曜日だった。私はにこりと笑って首を横に振った。
「今日は土曜勤務の方に全てお任せしてきましたので、今日は誠のお相手をしてあげられますよ」
「やった!じゃあ裏のコートでテニスをしよう!」
「ええ、もちろん」
「お父様もどう?」
「僕はテニスはやった事がなくてな……やってみるべきか」
璃音がふむ、と悩んでしまったので、私は口を開いた。
「テニスラケットなら余分にありますよ」
「ほう、それならご一緒しよう」
「やった!」
「どうせならコーチを呼びましょう」
私は良い事を思いついたと思ってそう言う。誠はきょとんとしてしまった。
「蓮か」
「ええ、彼なら詳しいでしょうし、手加減もしてくれそうですし、ピッタリだと思いませんか?」
「そうだな」
「蓮って、那瑠ちゃんの旦那さんの蓮さんの事?」
「ええ、そうですよ」
「来てくれるかな……」
誠は期待と不安の混じった顔で呟く。まずは連絡を取ってみましょう、と言ってスマホを取り出した。今日はいつもより遅い時間、八時に朝食をとっていたので、彼もきっと起きているだろう。数コールした後に蓮は電話に出てくれた。
「もしもし、桜です」
「よう、おはようさん。どうした?」
「今日これから私の家に来られませんか?誠にテニスを教えてあげたいのです」
「おー、良いよ。今那瑠と一緒に朝飯食ってるから、その後行くよ」
「ありがとうございます。では家のコートでお待ちしてますね」
「りょうかーい。そんじゃまた後で」
「はい、よろしくお願いします」
私は満面の笑みでピースサインを送った。誠はぱあっと顔を輝かせて喜ぶ。
「蓮さん、怖くないと良いな」
そわそわとした様子で誠がそんな事を言った。私と璃音は、顔を見合わせてふっと吹き出してしまった。蓮が怒った所なんて見たことがなかったからだ。
「全然怖くないですよ」
「ああ、むしろ優しい」
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
私と璃音はそう言って誠を安心させる。誠はそれを聞いて安心したのか、そわそわし始めた。早く来ないかな、とテニスラケットを持ってきてぎゅっと抱き締める。
「私も着替えてきますね」
「ああ、そうしよう」
私と璃音は一度自室に入って着替えを済ませ、テニスラケットとボールを用意して誠と共にコートへと向かった。
コートは使われなくなって何年も経ったというのにきちんと整備されていた。もしかしたらお父様がテニス仲間と使ったのかもしれない。コートにネットを張って蓮を待つ。蓮は十数分後にテニス道具を背負って歩いてやってきた。よう、と手を挙げてコートに入ってくる。
「久しいな」
「お久しぶりです」
「蓮さん、おはようございます」
「よう、誠、元気だったか?」
「はい、お陰様で!」
「そりゃ何よりだ。璃音も、久しぶり」
「ああ、久しぶり」
口々に挨拶を交わして、早速蓮のレクチャーが始まった。
「テニスラケットはこう持つんだ。んで、基本の振り方ははこう」
蓮は実際にテニスラケットを持って誠に教えてくれる。
「こう、ですか?」
「そうそう。これがフォアハンドストロークって言うんだ。手首の角度でボールの飛ぶ方向が決まるから、初めのうちは真っ直ぐグリップを握った方が良い」
「分かりました」
誠の横で私と璃音もレクチャーを受けて、私は久々のテニスの感触を楽しんだ。
「次はバックストロークも教えとくか、それともサーブか」
「サーブが良いです!」
誠はサーブをかっこいいと思っているようで、しきりにサーブの打ち方を教えてくれるように頼む。
「じゃあサーブ打ってみるか。まず、見てて」
蓮はそう言って一本サーブを打って球をコートラインギリギリを攻めて落とした。
「凄い!」
「ここから打つ時は対角線にある四角の枠の中に入れるんだ。じゃないと相手の点になる」
「そうなんですね。じゃあ難しそう……」
「止めるか?」
「止めません!」
「その意気だ。じゃあ一本打ってみよう。まずは球を真上に投げる所からだな」
「軽く下から打つ方ではないのですか?」
サーブの種類は大まかに二種類あって、私は下から打つ方を先に教えるとばかり思っていたので蓮に問いかけた。
「いや誠がかっこいい方っていうからこっちかなと」
「なるほど、では続けてください」
「おう。じゃあ誠、真上に投げてみよう」
「はいっ!」
誠には難しいのか、真上に投げたつもりでも、後ろに曲がってしまったり前に投げてしまったりと中々上手くいかない。蓮はそれでも根気よく教えてくれた。一時間ほど投げ方を教わって、サーブを打つ練習をして誠は休憩を挟む。
「本当は那瑠も来たがってたんだが店があるからな」
蓮はそう言って私とコートに入った。私はコート越しに、手加減よろしくお願いしますね、と声を出した。
「分かってるよー。んじゃ、行くぞー」
「はい」
「誠、見てろよ、蓮は高校時代に那瑠の双子の弟と全国大会まで行ったペアだからな」
「そうなんだ!ちゃんと見るよ!」
「そこー、プレッシャー掛けんなー」
と言いながら私と蓮の打ち合いが始まった。蓮は相当手加減をしてくれているのか、女性の私でも打ち返せる球しか打ってこなかった。暫く打ち合いに没頭し、蓮がそろそろ誠もやりたいっしょ?という言葉で、蓮が誠の相手をしてくれる事になった。
「よろしくお願いします!」
「ああ、ちゃんと打ち返せる場所に返すから、しっかりボール見ててな」
「はい!」
誠と蓮は楽しく球を打ち合った。誠は真剣な顔をしているが楽しそうな雰囲気を醸し出している。私は璃音に、蓮に来てもらって良かったですね、と耳打ちをして二人の打ち合いを眺めるのだった。
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