5★.幼馴染のキス

 三号棟の108号室に戻ると、暁音はまだ寮部屋に戻ってきていなかった。


(あ、そう言えば水泳部の練習があるんだっけ……)


 あんな状態で練習に身が入るのかよ……と思いつつ、雪葉はライラック色の制服から私服へと着替えた。

 黒のタートルネックにチェックのジャンパースカート、そして黒のニーソックスという格好になり、ベッドに腰を下ろしながら暁音の帰りを待ち構える。


 キノコアザラシのぬいぐるみを抱き、ニーソックスに包まれた脚をしばらくばたつかせていると、やがて暁音が部屋に戻ってきた。泳いでサッパリしたとは思えない表情だった。


 視線がぶつかった瞬間、すぐに暁音は気まずげに眼を逸らした。

 雪葉はぬいぐるみを脇に置き、ベッドから勢いよく立ち上がる。


「あ、あかね、ちょっと来てくれ」


 雪葉の声は緊張をはらんだ。当然である。これからキスするという時に緊張をおぼえない少女など、217号室の二人組くらいのものであろう。


 幼馴染の真剣な顔つきに、彼女のことを避けていた暁音も「なんなんだよ」と近づく気になったようである。

 そして用件を問いただそうとした瞬間、雪葉は放たれた矢のように飛びかかった。


「うわおッ」


 肩を掴まれ、そのまま二人の姿勢は低くなった。

 暁音は尻もち、雪葉は四つん這いポーズの状態で。


 二人とも、スカートが極めて際どい有様になっていたが、気にかける余裕などあるはずはなかった。


 雪葉が上半身と首を伸ばして至近距離から暁音を見つめる。切なげな鳶色の瞳に暁音の心臓が大きく跳ねた瞬間、唇がかすかなくすぐったさと接触した。


「…………ンうっ⁉︎」


 暁音の黒い瞳が見開かれる。密かに望んでいた幼馴染からのキスがこのタイミングで実現されるなんて、どうして思えるだろうか。

 唇どうしがかすかにこすれ合う感触に、背筋がぞわりと這い上がる。あまりに突然すぎて、喜びの感情など湧く暇もなかった。


 しかもここで、作戦を立てた岬でさえ予想しなかった事態が生じた。


 岬としては愛情のために軽いキスをしてくれれば十分であり、別に舌を交えてのキスまで要求するつもりはなかったのだ。だが、雪葉はカズ嬢との嫌がらせのキスしか知らなかったため、それをそのまま暁音に再現してしまったのである。


「んむぅ! ん、ふうぅッ……!」


 暁音としては悶絶せずにはいられなかった。キスにトラウマを抱えていた幼馴染が突然どうしてディープキスなどという真似をしたのか。

 しかも、口内を扇風機のごとく舌が回転しているものだから、愛情も快楽もあったものではない。


 誰にも見られていないのが幸いだが、それでも恥ずかしさがとっくに閾値を突破していたため、暁音は雪葉の上半身を慌てて押しのけて叫んだ。


「ちょっ……雪葉、落ち着けって!」


 雪葉は唇を離して大人しくなったが、暁音の反応を見て、表情に翳りが生じた。


「どうしたんだ、あかね。ゆきはのぶっちう、やだったか……?」

「あのなあ……雪葉は同じことされたら喜ぶかよ」


 暁音の声は怒りよりも呆れの方が強かった。

 幼馴染の指摘に、雪葉は初めて気がついたようで、三年前の白髪少女との夜を思い起こして猛然と亜麻色の長髪を振り乱した。


 暁音はここでごく自然な疑問を口にしようとした。どうしてこんなことを、と。


 だが、尋ねる前に暁音の中で正解が予想できてしまった。

 雪葉単体でこんな行為を実行できるわけがない。

 狙いはどうあれ、こんな変態的な作戦を思いつけるのは一人しかいないではないか。


 確信を込めた口調で問いただす。


「岬に指示されてやったな? 私にキスすれば少しは気をよくするだろうとか言われて」


 雪葉は顔全体を引きつらせた。


 まさに岬にバレないようにと強く念を押された点であった。愛情でなく社交辞令のキスだと気づかれれば、復縁の機会は完全に逸してしまう。雪葉としては、それだけは何としても避けたい事態であった。


 雪葉はまたしても予想外の行動に出た。再び上半身と唇と舌を乗り出して、失策をごまかそうと本人が愛情と信じるキスを果たそうとしたのだ。


 不意打ちを受けた暁音は仰向けにひっくり返され、狼狽のすえ、幼馴染のキスを許してしまった。


「はぁ、はぁ、あかね……あかねっ……んく」


 雪葉の愛情のキスは相変わらず「これが『愛情』か……」と呼べるシロモノであったが、気持ち悪いかと言えば決してそうではない。

 しかも、このとき暁音はキス以外の要因によって雪葉への再反撃の気概を失ってしまったのである。


 雪葉は暁音に密着した状態で「あいじょうのきす」を行なっており、激しいキスに合わせてジャンパースカートに包まれた腰をくねらせていた。ニーソックスを履いた細脚も制服から伸びた脚どうしとで絡みつかせており、暁音の心臓は総毛立った。それは理性からの警鐘を意味していた。


 本当に一条和佐の真似だけなのかよ……と疑問に感じているところで、酸素を求めて雪葉が顔を上げた。

 がむしゃらなキスのせいで、さすがに呼吸が荒くなっている。


 幼馴染のこれほど甘ったるい吐息を、暁音は聞いたことがなかった。


 性行為に対する知識に疎い暁音でさえ眩暈がおぼえそうになるほどだ。

 加えて、逆光を受けた雪葉の表情もこれまたクラクラしそうになった。

 柔らかな頬を薄桃色に染め、あどけない鳶色の瞳をすうっと細めている。いつもの子供っぽい雪葉の表情ではない。美少女をかたどった小悪魔の顔だ。


 むろん、雪葉がそれを自覚してやっているとは思えない。それでも扇情的な変化を遂げた幼馴染に、暁音は生唾を呑み込まずにはいられなかった。


 幸か不幸か、その唾が器官に詰まったことで暁音は恍惚の世界にとらわれずに済み、盛大に咳こんで、幼馴染の顔を遠ざけることに成功した。


「げほ、ごほっ……わ、わかった! とりあえず話を聞くから落ち着けって、な?」

「お、おう……」


 雪葉もすっかりいつもの表情に戻った。

 暁音は名残惜しさを感じつつも、平静さを取り戻せて心から安堵したものである。


 幼馴染の二人はカーペットの床の上で向き合って座った。雪葉はちょこんと正座し、暁音の方は制服姿に関わらず胡坐をかき、膝の上に手を置いている。


 色っぽい空気が去ると、たちまち二人の間に気まずさが駆け巡り、どうにか話題を……と最初に切り出したのは雪葉の方であった。


「……なんでみさきに言われたってわかった?」

「わからいでか。私が雪葉のキスを望んでると知ってるのはあいつだけなんだ」


 むろん、岬がそのことを吹聴したとなれば話は別だが、その点に関しては暁音は考えていなかった。編入生の口の堅さを、彼女は無自覚に信用していた。


 暁音は膝に置いた手に力を込め、身を乗り出しながら黒々とした瞳をぎらつかせた。


「それにしても、岬にそそのかされたとは言え、よく私にキスなんかしようとする気になれたよな。一条の野郎に謝られて、真似事のキスができるくらい気が許せるようになったってのか?」

「なんでそんなこと言うんだよお!」


 悪意に満ちた短髪少女の発言に、雪葉の鳶色の瞳が前日のように濡れ始めた。


「そうまでして、あかねはゆきはのことを嫌おうってのか⁉」

「当たり前だ!」


 かっと目を見開かせる暁音であった。


「一条の野郎なんかとなれなれしくしやがって! 見捨てられた私がどんな思いをしたかわかってんのか⁉」

「ゆきはは別にあかねを見捨てたりなんかしてないぞ!」

「あいつの罪を許した時点で見捨てたも同然だ!」

「じゃあどうすればいいってんだよ⁉ カズ嬢が謝っても一生許すなってのか⁉」

「そうだ‼」


 あまりに理不尽な発言に、雪葉は鼻白んだ表情で黙りこくってしまった。


 一触即発の静寂を、批判めいた鳶色の視線が貫き、そのまま暁音の心を刺す。

 暁音は耐えられなかった。自分の態度が到底受け入れられるものではないとわかっていても、自分の欲求をどうしても諦めたくはなかった。大事な幼馴染がずっと自分だけのものであってほしいという願望を。


 暁音は怒りから一転、深くうなだれて声と表情を曇らせた。


「いやだ……雪葉が私の嫌いな奴と親しくなろうとするなんて、いやなんだ」

「あかね……」

「一条から離れてくれよ。雪葉のファーストキスをあんな形で潰したあいつをどうして許すんだよ。あいつはひどい目に遭うべきなんだ。そんな奴と仲良くされたら、私は……もう……」

「…………」


 再び沈黙が降り立ち、そこに暁音の嗚咽が静かに沁み込む。気性の荒い少女のものとは思えない、弱々しい声であった。


 最も近くにいる雪葉でさえ、幼馴染の心の迷宮の出口は見いだせそうになかった。岬のような聡明な少女であればまだしも、そうでない雪葉では暁音の望む答えを得るのは困難なことであった。


 どうにかしなければ、と雪葉は感じた。そして同時に、自分の行動で解決しなければ完全に丸く収まらないと彼女は直感していた。


 腕を伸ばし、暁音の短いチョコレート色の髪を撫でながら静かに言う。


「なあ、あかね」

「…………」

「ゆきはにぶっちう……キスのやり方を教えてくれよ」


 暁音は驚いた様子で、泣き腫らした顔を上げた。


「なんだって……?」

「あかねがカズ嬢のことをすごく嫌いなのは知ってるけどさ。ゆきははあかねとこれ以上ケンカしたくないんだよ。あかねを慰めてやりたくても、ゆきは、カズ嬢のぶっちうしか知らないし……」


 暁音は沈黙した。雪葉との喧嘩はむろん暁音も望んではいなかった。

 久々に泣いたことで少しは素直になる気も起きていたが、キスによって夜な夜なキスをしていたことを勘づかれてしまうと思うと、迂闊に頷くこともできない。


 だが。


「……だめか? あかねのキス知りたかったんだけどな」


 すがるように顔を覗き込まれ、暁音はごくりと唾を呑み込んだ。幼馴染の誘うような顔の愛らしさときたら。

 辛うじて理性を保ち、暁音はこれ以上みっともない姿を晒すまいと覚悟を決めた。


 胡座を解いて膝立ちになると、雪葉の暖かな頬に手をやり、指と表情を震わせながら、ゆっくりと唇どうしの距離を埋めていく。


 触れた質感以上のぬくもりが暁音の心に広がった。その温かさは少女の強情を溶かし、その結果が熱い涙となって黒い瞳からしたたり落ちる。


「あかね……」


 雪葉が鳶色の瞳を見開かせているうちに、暁音は顔を離し、幼馴染の少女に対してぽつりと呟いた。


「……ごめん、雪葉」

「いいって」

「そうじゃない。実は、雪葉が寝てる間に……こっそり、キスしてた。キスにトラウマがあるのを知ってたのに……」


 幻滅されるかもしれない秘密が、この時はすんなりと口にできた。

 望んでいた口づけを果たせて、思い残すことはないという心地になったのかもしれない。


 それを聞いた雪葉は幻滅などしなかったが、まったく自覚がなかったために率直に驚きをあらわにしたものだ。


「そんなことしてたのか。全然気付かなかったぞ」

「だって、バレたら大問題だし……」


 応じつつも、暁音は本当にただ雪葉が驚いているだけなのかと、彼女の表情を念入りに確かめた。

 落ち着きなく身じろぎする雪葉に他意がないと実感できると、暁音は安堵でまた泣きそうになった。


 もし嫌われてそのまま離れてしまったらと考えると、とても生きていける気がしない。


 安心すると、欲張りの気持ちが暁音の心の中で膨張した。あの高揚感を一度きりで終わりにしてしまうのはあまりにも切ない。


 乙女の顔にでもなっているだろうかと自問しつつ、暁音は黒い瞳を上目遣いにしておねだりした。


「なあ、雪葉……」

「うん?」

「その……もっと、したい……」

「うん、ゆきはも、もっと知りたい……」


 言い終えると、二人とも湯気が立つ勢いで顔を赤く染めていた。

 このまま向き合っても気恥ずかしいと感じたらしく、続いての口づけは、二人同時に顔を近づけて始まった。


「…………んっ」


 キスが、ただの唇どうしの接触で片付けられない理由はなんだろう。


 その行為の最中でありながら暁音は柄にもないことを考えた。唇を通じて雪葉の唇のかすかな震えが伝わっているのがわかり、自分と同じく緊張しているのかと思うと、愛おしくてたまらなかった。


 最初よりも長い時間の口づけが果たされると、二人は同時に顔を離し、雪葉が熱っぽい顔色のまま感想を漏らした。


「……ぶっちうって言うより『ちう』って感じだけど、すごく……どきどきした」

「そっか」

「ゆきはのちう、よかったか……?」

「ああ、すっごくいい……」


 暁音の目つきは優しかった。


 こそばゆい空気が去りきらぬうちに、素直さを表明できた短髪少女は幼馴染に対する今までの非礼をすべて詫びた。


「ごめんな、雪葉。これからも仲良くしてくれると嬉しい」


 瞬時に雪葉の顔がぱあっと明るくなり、そのまま勢いよく暁音に抱きついた。


「やっとその言葉が聞けたな! おそいぞ、あかね……」


 幼馴染の実直さをまぶしく感じながら、暁音は彼女をしっかりと抱き締める。

 二人の人生の間で最も長引いた諍いは、こうして終わりを迎えたのだった。


 亜麻色の髪を撫でながら、暁音は自分の強情による最初の被害者を思い返した。


「円珠にもきちんと謝っておかなきゃな」

「ああ、えんじゅ、死にそうなくらい心配してたからな。気合を入れて謝んなきゃダメだぞ」

「わかってる。どんな償いでもするつもりだ」


 奇しくも一条和佐が円珠に言ったのと同じ言葉を口にしたが、この時その場にいなかった幼馴染二人がそのことを知る由がなかったのである。


     ◇   ◆   ◇


 そして夕食後、さっそく円珠に『償い』を果たすために暁音は彼女のいる一号棟の410号室まで訪れた。


 あいにく円珠は席を外しており、代わりに彼女のルームメイトが応対し、部屋で待つことを許可してくれた。

 やがて本命の円珠が部屋に戻ってくると、待ち構えていた暁音を見て思わず立ち尽くした。


「円珠、散々迷惑かけて、悪かったな。仲直りしてくれると、嬉しい」

「は、はい。もちろん。あの、先輩、その格好は……?」


 質問に答えたのは暁音の隣にいた雪葉だった。

 円珠のベッドの上でニーソックスに包まれた脚を組みながら実に楽しげな顔で言ってのける。


「気合いを入れて謝れって言ったからな。だからあかねにキノコアザラシの格好をさせた」


 というわけで、暁音はキノコアザラシの着ぐるみという格好で円珠の寮部屋までやってきたのだった。足の部分はご丁寧にヒレまで付けており、フードをかぶっているため、ちょうど暁音の頭部がデカい赤ちゃんアザラシに食われる構図となる。迷惑をかけた自覚は多大にあったため、雪葉の要望を無下に断ることもできなかったのである。


 唖然とする円珠を尻目に、彼女のルームメイトが笑いを噛み殺しながら「ごゆるりと〜」と告げて退散してしまう。


 扉が閉まると、円珠は改めて東野先輩の顔を見つめた。


 わずかに日に焼けている暁音の顔は、羞恥心で火が通っているような有様だった。それでいて表情だけは無感情を貫いており、狼狽える円珠に気づかないふりをしてフードに包まれた頭を再度下げた。


「円珠、散々迷惑かけて、悪かったな。仲直りしてくれると、嬉しい」

「さっきと同じこと言ってんじゃん。一体どうしたってんだよ、あかねー」

「恥ずかしいからに決まってんだろ! 蒸し暑いし、歩きにくし、おまけに来るまでの視線が物凄かったし……」

「でも、あかねによく似合ってるぞ? 水泳部だし、もしかしたら泳ぎが速くなるかも」


 暁音は憤然と、ヒレの付いた足を突き出した。


「速くなるわけないだろ! アザラシと人間じゃ泳ぎ方が全然違うし……。だいたい、水泳部だから似合うってなんだよ!」

「ケンカ腰はやめてくれよ。えんじゅの償いに来たんだからさー」


 暁音はハッとなって、呆気に取られている後輩の存在を思い出した。

 せっかく空気を平穏なものに戻したというのに、こんなつまらない理由で彼女を不安にさせたくはない。


 暁音はアザラシの前ヒレと化した両手をばたつかせた。


「円珠、くれぐれも気にしないでくれよ。雪葉とのこういうやり取りはいつものことなんだ」

「はい。わかってます……」


 円珠は泣き笑いのような表情を浮かべた。

 息が詰まるような友人どうしの確執が幕を閉じ、楽しく笑い合える日々が戻ってきたと確信できたからだ。


 またしても、岬姉様はやってくれたのだ。


 うまくいくか到底信じられなかった作戦だが、あの方がこの作戦を口にしなければ、この明るい日常が再び訪れることがなかったかもしれないのだ。


 岬姉様には借りが増える一方だと思いつつ、円珠はまず久しぶりの和気藹々な空気を堪能したくて、にこやかに二人の先輩に歩み寄った。


「ふふ……東野先輩、春山先輩、ありがとうございます。これからもどうかよろしくお願いいたしますね」

「おう。三人でやりたいことは山ほどあるんだ。まずゴールデンウィークにキノコアザラシのコラボカフェに寄って……」


 こうして、入浴時間終了が迫るまで一号棟の410号室では華やげな笑い声が響き渡っていたのだった。

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