第十章 友としての誓い
1.二人の忘れられない夜(前編)
岬が意識を取り戻したとき、真っ先に気にしたのは時間だった。
当然、どこにいるかも気になったが、その疑問は全身に包まれた毛布のぬくもりによって明らかにされた。室内は真っ暗だが、三号棟の217号室と考えて間違いない。
身じろぎをしながら自分の格好を確かめる。黒髪はほどかれ、私服はパジャマに着せ替えられていた。和佐が三つ編みをほどいて服を脱がしてくれたのなら喜ばしい限りだが、おおかたシスター蒼山あたりが気遣ってくれたのだろう。
ベッドから起き上がり、手探りで照明のスイッチを探す。何度入れても反応がない。消灯時間はとっくに過ぎているということだ。
分厚いカーテンを開けて月明かりで壁掛け時計の時刻を確かめ、同時に岬はルームメイトの不在を知ることができた。
空っぽのベッドを見つめながら、岬は意識を失うまでのことを振り返る。
食堂で白々しい挨拶を終わらせた時には、岬はすでに白髪少女が聴衆にいないことに気づいていた。何せ、黒い羊の群れの中から白い羊を見つけるようなものだ。見誤る方が困難なはずである。
乾杯までの流れが終わると、温かい食事もそっちのけでシスター蒼山に白髪のルームメイトの行方を尋ねた。尋ねられた寮母の方が面食らったが、探す必要ありと判断すると、二人でそっと食堂を抜け出す。
岬は候補として図書館の禁帯出資料室の名を挙げ、寮母は「この時間帯にその場所へ?」という反応を隠せなかったが、白髪の寮生がそこに通い詰めていたことは知っていたので、すぐに諒解した。
図書館で司書とも合流し、三人で資料室に突入する。そして最初にルームメイトのもとへ駆けつけた岬は、血で汚れた美しい少女のかんばせを見て失神してしまったというわけだ。
……その後どうなったかは意識を失った岬には知りようがない。
血塗れのルームメイトのかんばせを思い起こして身震いするも、事情を知るためには改めて彼女に会う必要がありそうだった。
寮部屋にいない以上、彼女は三号棟の悔悟室に収監されているに違いない。こんな夜更けに会えるのかという疑問も、少女の厚い使命感の前ではいささかも気にならなかった。
周囲をうかがいつつ、暗がりの廊下へと出る。廊下の窓はカーテンがなく、冴え冴えとした月の光がそのまま床面を濡らしており、何やら神秘的な空間に迷い込んだかのようだ。
階段を下りて一階へ。音も気配もない月明かりの道に自身の長い影を投げかけながら岬は101号室へ向かう。
歩きながら、今さらながら悔悟室にいる彼女に会う方法を模索した。
寮母でさえとうに寝静まっている時間帯だろうし、正直に用件を話したところで対応してくれるかどうかも疑わしい。
仮に了承が得られたとしても、当の和佐が素直に話してくれるとは限らないのだ。
102号室と103号室の間を進んでいたとき、物音が響いた。
開かれた扉は101号室のものであり、滑るように廊下に現れたのは、白いネグリジェを纏った美しい少女だった。
「なっ」
「な……」
岬と和佐は同時に口を開けて立ち尽くす。
あまりに突然の僥倖に岬は喜ぶ余裕もなかった。悔悟室からルームメイトを引っ張り出すという難題が、これであっけなく解決されたのである。
月明かりに照らされた和佐は、まさにうら若き月の女神と讃えたくなるような風情であった。
見目麗しいかんばせには傷跡も血の汚れも一切見られず、その事実が岬の心に無上の安堵を与えた。
「一条さんっ……」
「ちょっと、岬……!」
白髪少女の狼狽などお構いなし。岬はルームメイトの身体を愛おしげに抱きしめ、頬どうしをすり合わせる。
むず痒い感触を受けた和佐は気恥ずかしさに耐える気も起きず、早々に編入生の身体を引きはがした。
強引に離されても、岬の声はなおも潤みがかっている。
「よかった。本当によかった……。あの時の、一条さんの血みどろの顔を見たのは幻なんですね?」
「悪いけれど、あれは紛れもない現実よ」
固い声で応じ、白髪少女はさらに岬の「どういうこと?」という無言の訴えをさとった。
あの現場を見られた以上、今さら隠そうとするのも愚かしいことである。
そう判断した和佐は、編入生の少女に資料室で起きた「現実」を語った。
円珠の流血画像を見て裏口から禁帯出資料室へ駆けつけたこと。
狂気に駆られた円珠が自らの血でこちらの顔面を汚してきたこと。
カッターナイフで指を傷つけられ、自分が逆上して円珠の身体を足蹴にしたこと。
指に傷を負ったと聞いたとき、岬の表情が変わった。
和佐に傷の場所を問いただすと、彼女は手で隠していた右手の中指の絆創膏を外した。
指の腹に肉色の線が引かれているが、出血はすでに止まっている。
「昔あたしが料理でやらかした時より全然軽傷ですね。その傷もすっかり見えなくなってますから、一条さんのもやがて完全に癒えることでしょう」
安堵して、岬はにこやかにその指を示してみせたが、白髪少女の次の言葉を聞いた瞬間、その安堵も指先も凍りついてしまう。
「いっそのこと、腹部を刺された方がましだと思えるわ」
暖かな雰囲気が一気に氷点下まで滑落する。
絶句する岬をよそに、和佐はルームメイトの横を通り過ぎた。
編入生の背後を三歩ほど進んだところで硬質な声を投げかける。
「思わぬところで時間を取られたわ。あなたは早く部屋へ戻って休みなさい。始業式当日に遅刻などしたらみっともないわよ」
「ちょっと待ってください‼」
悔悟室の前であることも忘れて岬は声を張り上げた。
そのままネグリジェの袖を掴む。
振り返った和佐の表情は悲痛に満ちていた。美しいかんばせを泣き出す寸前の子供のようにひしゃげさせ、灰色の瞳は溶けかかった薄氷の膜に覆われている。
それでも声は編入生の少女を突き放す調子を辛うじて保っており、彼女から受けたぬくもりを、白髪少女は初めからなかったように振る舞った。
「構わないで。あなたには一切関係のないことよ」
「今の発言の意図を話してくださらないなら、この場で盛大にわめき散らします」
和佐は盛大に舌打ちした。秀麗な白髪美少女はこのとき、自分の容姿に見合った身の振り方に構っていられなかったのである。
岬が凄絶な表情を浮かべて和佐に詰め寄った。
「そもそも、一条さんはなぜこの時間に悔悟室を抜け出したんです? ここであたしに会わなかったら、このままどこへ行こうとしたんですか?」
「関係ないと言ったはずよ」
突っぱねた和佐の声は抑えきれない震えがある。
虚勢が崩れる前に、編入生の手を振りほどき、早足で口うるさい彼女から逃れなくてはならなかった。
岬の顔が、ある予感を受けて蒼白になる。
「……まさか一条さん、早まった真似をなさるつもりじゃないでしょうね?」
和佐は自分の不意打ちの弱さを呪った。核心を突かれたことによる衝撃がたとえ半瞬だとしても、この編入生がすべてをさとるには十分であったのだ。
「そんなことが許されると、本気で思ってるんですか?」
凄みを帯びた声に、和佐は再び顔を岬から背け、ぽつりぽつりと自分の想いを吐露した。
「……私はもう疲れたのよ。円珠の件が全生徒に知られ、日頃から鬱憤を溜めていた者はここぞとばかりに陰口をぶつけてきたわ。円珠の自傷も、私が傷つけたと疑うものも出てきて……」
ここで岬は、資料室の床にうずくまっていた後輩の存在を思い出した。
「そう言えば、日生さんはどうしてるんです?」
「手当てを受けて一号棟の悔悟室に入れられているわ。見た目ほどひどくはないと聞くけれど、おそらくあの傷は一生残ることになるでしょうね」
「…………」
「円珠をここまで追い詰めたのは私よ。正直、自分がここまで惨めな存在だとは思わなかったわ。感情任せで円珠に暴力を振るい、あなたの首も絞めようとしたし……」
「首に関してはあたしの自業自得だと思うんですけど……」
ぼやいた岬だが、和佐は聞いていない。ネグリジェの袖を腕ごと強く震えさせる。
「醜い。あまりにも醜いわ。いくら見た目でごまかしても、このような汚い心など、黎明の相手としてふさわしくないわ。どのみち、黎明から触れられることなどあり得ないわけだし、このまま生き恥を晒し続けるくらいなら、いっそのこと、さっさと楽になってしまいたい……」
「了解しました」
その返答に、むしろ和佐の方が仰天した。
勢いよく振り返ると、極限までこわばらせた編入生の顔が正面に見えた。
「ただし、一条さんの最期はあたしも見届けさせてください。それが、あなたの死を許す条件です」
何を企んでいるの、というのが正直な感想である。
周りのあらゆる状況から打ちのめさせて楽になりたいという気持ちに嘘はないが、そのようなふざけた主張を、変態だが純真な編入生は素直に受け取るはずがない。
反対を見越してさらなる反論も用意したというのに、とんだ肩透かしであった。
死の覚悟が編入生への不気味さに取って代わり、むしろ彼女にせっつかれるかたちで、ネグリジェの少女は目的に場所へ歩みを進めたのだった。
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