4.沙織子の本心

 時間の流れは二人の溝を埋めることなく、そのまま夜へと突き進んだ。

 千佳が入浴を済ませて306号室に戻ると、ルームメイトの沙織子は机に突っ伏したままであった。午後の巡回も取りやめ、食事以外、一切部屋を出ることはなかったのだ。

 気力を沈没させた沙織子を、千佳は最初は無視を通すつもりであったが、しだいに捨て置けなくなってきて、ベッドに座り込みながら紅茶色のポニーテールに向かって声を放る。


「リコ、早くいかないと入浴時間終わっちゃうわよー」


 返事がない。ただのタヌキ寝入りのようだ。

 中等科以来、ずっとルームメイトを続けていると、相手の行動パターンも大体わかってしまうのである。


 だが、今回の沈没具合は特にひどいような気がする。

 シュミーズ同然の黒のネグリジェから伸びた脚を揺らして千佳はさらに続けた。


「シスター蒼山さんも寮生も食事中のリコを見て絶句してたわよ。オニノカクランとはこのことだわ、って」


 国語の成績が壊滅的である千佳は、寮母から受けた語句をそのまま流用してのけた。鬼扱いされた沙織子は相変わらずポニーテールを微動だにせず、重苦しい沈黙に圧され、ついに千佳の忍耐が弾けた。


「んぎいぃぃいッ! もう、じれったい‼」


 千佳はベッドにかかと落としを決めた。もしベッドに意思があれば声を出す前に昏倒していたに違いない。

 その気の毒なベッドから勢いよく立ち上がると、怒れるツインテールの少女は甲高い声でわめき散らしたのだった。


「午前のことを謝れっていうなら、さっさとそう言えばいいじゃない! 確かに言い過ぎたわよ、ごめんなさい! でもうちだって自分の信念に基づいて活動してたから、リコにあれこれ干渉されたくなかったの!」


 傍に来て騒がれたら、さすがの沙織子も無反応ではいられなかった。顔をゆっくり動かして鹿毛色の瞳をルームメイトに向けた。その目が赤く腫れている。

 椅子の上で千佳と正対した沙織子は、唐突な問いを第一声とした。


「……都丸さんは、私の姉が弁護士やってるのは知ってるわよね?」


 虚を突かれた千佳だが、すぐさま首を縦に振った。


「知ってるわよ。確かクリエイター相手の弁護を専門にしてるんだっけ?」


 創作家の卵である千佳がよどみなく答える。

 正解とばかりに、沙織子は頷いた。


 法律相談の他にも、顧客とのトラブル対応についての講演もおこなっているそうだが、それはそうと、なぜ沙織子がいきなり自身の姉の話題を出したのか、千佳は理解に苦しんだ。


「姉さんが弁護士を始めたきっかけはね。黎女時代、親友の作品が知り合いによって自作宣伝されたからなの」


 語られる内容に千佳は息を呑む。イラストレーターを志す彼女にとって、クリエイターの被害話は決して他人事で済まされるものではなかった。


「その依頼人はかなりしたたか……というより狡猾な人らしくてね。抗議したその友人を屁理屈で黙らせて、逆に料金を不払いにするぞと脅しかけてきたの。その友人は脅迫を受けてすっかり怯えきって、姉さんもこの時は相手に対抗できるノウハウを持ち合わせていなかったから、泣く泣くその絵を手放してその相手から逃れることにしたの。でもね……」

「そ、それ続くの?」


 怪談話を聞かされたかのように、千佳が青ざめた顔でのけぞる。


「ええ。しばらくして、その相手から再び連絡が来たらしくてね。何も悪びれもせずに『今度、私名義でイラストを描いてくださいませんか?』と、こう来たのよ!」


 千佳は今度は押し黙った。ルームメイトの義憤が一気に浸透し、片腕を掴んだ指が怒りで震えている。

 声もまた、将来の同業者に対する憐れみと依頼側に向けた怒りとで大きく揺れていた。


「……それで、その人はその相手の要求を呑んだの?」

「まさか。その話を聞いて姉さん、完全に頭に血が上っちゃってね。依頼人の罵声に一歩も退くことなく言うべきことを言って、その人を引き下がらせたの。そして、こういう人間のせいで創作家が二度と餌食されることがないようにと心に決めて、姉さんは黎女の短期大学を中退して法学部のある大学に転入したの」


 そして現在は弁護士兼講師としてクリエイター相手に活動しているというわけだ。大義の根底にある友人への強い想いがうかがえて、千佳は大きく溜息を吐いてみせた。心からの安堵によるものだったが、胸を撫で下ろすのは早急だった。

沙織子が顔を上げて本題に移ったからである。


「私はね、都丸さんが姉さんの友達の二の舞を演じるんじゃないかとずっと冷や冷やしてるのよ。確かに黎女の生徒で、あそこまで悪辣な要求をする人はいないと思うでしょうけど、軽々しく引き受けすぎると、そのうちタチの悪い相手に当たってしまうんじゃないかと心配になって……」


 神妙な感情のルームメイトに、千佳は居心地の悪さをおぼえた。彼女の懸念が本物であることは、長年の付き合いでわかっていたのだが、あまりにも下手に来られると、彼女をモデルにして扇情的なイラストを描いていた自分が極悪人のような気分になってしまう。

 一つ深呼吸して、千佳は強がってみせた。


「別にうちだって考えなしに引き受けてるわけじゃないの。悪質な客が存在してることだって知ってるし、将来に向けてトラブルに巻き込まれないようにあれこれ調べてんだから。それに……」


 赤銅色の瞳をまっすぐ向けて言う。


「リコのお姉さんが友達を守る理由はわかったけど、それがそのままリコがうちを守る理由にはならないでしょ」


 致命的な発言だった。沙織子は最初、今までそのことを意識したことがなかったと言いたげに硬直していたが、衝撃が去ると、彼女はまたしても表情を泣き出す寸前にひしゃげさせた。

 千佳に悪気がないのは、こちらも長年の付き合いでわかっていたが、自分のあり方のすべてを否定されたような気がしたからだ。自分の正義感も、ルームメイトを心配する気持ちも、すべて姉の模倣でしかなかったのだろうか。


「……今の言葉、すごく効いたわ」


 鼻をすすり、鹿毛色の瞳を腕で乱暴にこする沙織子。


「確かに、そうね。なぜ都丸さんのすることにいちいち干渉してたのか、私もわからない……」

「リコ……」


 深刻な空気に対する息苦しさも忘れてしまいそうだった。何か言い返すべきだとはわかっていても、普段、彼女相手に出るのは喧嘩の文句ばかりだ。散らかった脳内語彙時点から励ましの言葉を発掘しようとしても簡単にはいかず、結局、ルームメイトの愛称をとなえることしかできない。

 そのリコが、ふいに椅子から立ち上がった。


「……入浴時間が終わってしまうのよね。ちょっと行ってくる」

「リコ!」


 千佳が呼びかけると、沙織子は無理やり平常心を取り繕った声で返した。


「大丈夫よ。明日になればすべて元通りだから。だから何も心配しないで」

「そういうこと聞いてんじゃないの! 行くな、バカ‼」


 完全に頭に血が上った千佳である。じゃあ何が聞きたいのと問われても答えられる気がしないが、とにかく自己完結で逃げ込む沙織子の態度は気に食わないのであった。

 ルチカ様の渾身の叫びは無益に終わった。入浴の準備を済ませたリコは一度もルームメイトに振り返ることのないまま扉の向こうへと姿を消してしまった。


「ああ、もうッ‼」


 少女は誰もいない空間でさらに罵倒を吐くと、タブレットをひったくり、そのままベッドに横たわった。

 怒りが鎮まるのを待ってから、午前中に手がけたイラストを見直す。


(リコのイラスト、ずいぶん増えたなあ……)


 頼まれたイラストの場合、下絵から完成まで二、三週間はかかるが趣味で描く沙織子の作品は、その気になれば三日で仕上げることができる。今回のバニーガールも後は清書するだけで完成、といったところだ。

 四つん這いになって見る人をどや顔で見つめ返すバニー姿の沙織子。勝ち誇った顔をしている割に頬が真っ赤なのが、かえって見る人の興奮を掻き立てさせるという狙いである。

 現実の沙織子が見れば狼狽必至のイラストで、ルチカ様の憂さ晴らしはペンを入れることで完遂に向かっていく。だが今の千佳は、ここから筆を走らせる気力が湧いてこない。当分、このイラストに手を加えることができないだろう。

 ストレスはすでに十二分に溜まっていたが、これ以上の嫌がらせはルームメイトを本気で傷つけてしまうと直感したのだ。


(本当に、元通りに戻るんでしょうね……?)


 翌朝になればいつも通りの言い争いを繰り広げ、その鬱憤をイラストにぶつけることができるだろうか。

 そのようなことを願いながら、千佳はタブレットを掴んだまま、赤銅色の瞳を閉ざした。

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