4.歪み

 一方、ルームメイトの引き出しの鍵を奪った一条和佐は、寮部屋を去ってからの時間のほとんどを図書館での読書に費やしていた。


 寮棟区内にある図書館、その最奥に位置する禁帯出資料室は、三年の間でほとんど和佐のプライベートルームとなりつつある。難しい古書や外国語の文献など、年頃の乙女たちの関心を誘うものはそこには存在しない。

 司書が点検に来ることがあるが、それも月に二回程度。ゆえに、その日程さえ把握していれば、和佐としては誰にも邪魔されない貴重な時間を謳歌できるのだった。


 図書館にこもってから、和佐が会話をした相手は一人だけである。資料室に訪れたと同時にすぐに呼びつけたのは、白髪少女を『姉様』と呼び慕う、一年下の後輩だった。


 名前は日生円珠ひなせえんじゅ。栗色のミディアムボブの持ち主で、和佐の本物の妹では、むろんない。円珠は姉様の命を受けて手足として暗躍しており、頼りにされることに無上の喜びを感じる少女なのであった。


 禁帯出資料室は本来の入り口の他に、長らく使われていなかった扉があり、図書館の裏口に通じていた。裏口は敷地を囲う高い塀が目の前にそびえ立っており、立ち寄る人間はまず皆無であろう。


 一歩出た和佐はそこでメッセージ機能のスタンプを円珠に送信したのである。

 すぐさま返信が来て、それから一〇分もしないうちに若草色のワンピース姿の少女が外壁を沿って駆けつけてきた。


 だが、憧れの姉様の形相を見た瞬間、少女は息を呑んで立ち尽くしてしまう。


「ね、姉様……?」

「何よ。私が化け物にでも見えたわけ?」


 編入生に対する憎悪が依然として色濃く残っており、円珠の胡桃色の瞳には、化け物というより見目麗しい雪女のように映った。

 絶対零度の姉様は、円珠の怯えなどまるで意に介さぬ様子で話し始める。


「あなたのお望み通り、役に立てると思える依頼を用意してあげたわよ。手を出しなさい」


 日生円珠は『海洋生物KINOKO』シリーズの大ファンで、この時もキノコアザラシのぬいぐるみを両手で抱えていたのであった。そのぬいぐるみを片腕で抱え直し、円珠はもう片方の手を差し出した。


「何も言わずにこれを受け取って」


 和佐がつぶやき終わると同時に、円珠の手のひらに金色に鈍く光る小さな鍵が落とされた。

 託されたものに、円珠はもともと丸い胡桃色の瞳をさらに丸くさせ、真意を求めるために姉様の美しいかんばせをうかがった。


「これは……引き出しの鍵でしょうか? 一体なぜ……」

「あの編入生の鍵よ」


 そう応じられた『妹』はさらにまばたきをし、その反応が不機嫌な白髪の美少女をさらに苛立たせた。


「いちいち驚かないで。別にあいつの私物を引き出しに隠して鍵をかけることくらい、誰でも思いつくことでしょう」


 そんなことはないと円珠は思うが、それをどうやって表情と言葉で表せばいいか判断ができない。ただ、これ以上阿呆のようにたたずんで姉様の不興を買うわけにもいかず、どうにか頷き、渡された鍵をワンピースのポケットにしまい込む。

 和佐はわずらわしげに手をはらった。


「あなたがこれ以上、事情に関知する必要はないわ。黙ってその鍵を持っていればいいの。邪魔と感じたら捨ててもらっても構わないから」


 学校の備品に対してそんなことができるわけがない。ぬいぐるみを両手で抱え直して円珠は再度頷くに留めた。

 だが、彼女にも言いたいことがあり、姉様が背を向けた瞬間、その想いが爆ぜた。


「あのッ、姉様。一つおうかがいしたいことが……」


 短い白髪を振り、端正な顔にうんざりした表情が浮かび上がる。


「余計な詮索をするなと言ったはずよ」

「そのことではないです。お願いです、どうかあと少しだけ……!」


 必死に食い下がられ、和佐は黙然と円珠を見つめた。

 拒否してもよかったが、無茶を押し付けたことは和佐も自覚していたため、名ばかりの妹の要望に応じることにした。


「社交辞令で聞いてあげるわ。言ってごらんなさい」

「昨日、上野先輩と何があったのです?」

「…………」

「姉様と上野先輩が朝帰りなさったという噂はすでに寮内で持ちきりになっています。何か特別な事情があるのは存じておりますが、姉様がなぜ憎きルームメイトを自分の家に招き入れたのか、どうしても気になってしまいまして……」


 火に油を注ぐとはこのことだ。

 白髪の姉様はその質問で昨晩の快感と不快感が煮えたぎり、事情を率直に打ち明けるのは、むろん論外であった。


 灰色の瞳に、抜き身の刃の輝きがほとばしる。


「……理由なら、円珠が自分で答えたじゃない」

「え……?」

「あなたの言うとおり、特別な事情があったから、それだけよ。そもそも、あの女を家に招いたのは風月であって私ではないわ」


 視線に劣らず、声も斬りつけるかのようである。

 円珠は逃げ出したい衝動をどうにか抑え込み、ぬいぐるみをきゅっと抱き締めながら、姉様の言葉に反論した。


「ですが姉様は風月様のお言葉を遮らなかったですよね? 嫌いな相手を家に上がらせることに、姉様は不快感を抱かなかったのですか?」

「くどいわ、円珠!」


 追及に耐えきれず、和佐はついに明確な怒気を発した。

 円珠はぬいぐるみごとひっくり返りそうになった。姉様がここまで苛立ちを表明することはかつてなかったのである。

 和佐はさらに『妹』の不遜な態度を責めた。


「過去に噂を流したあなたが他人の噂に惑わされるとはね。私は最初に余計な詮索をするなと断ったはずよ」


 憮然となった円珠である。確かに噂を流して生徒たちに混乱を引き起こしたことはあったが、それはあくまで姉様の指示であり、自分が望んだものではないのだ。

 無言の抗議を姉様も明敏にさとったらしい。普段なら姉妹関係を維持するために『妹』に対して一定の気遣いを示した和佐だが、反抗的な円珠の態度が、編入生から受けた不快感に上乗せされたらしい。

 強権的に後輩少女に指図した。


「実の姉妹どうしでさえ、互いのすべてに踏み込んでもいい道理はないはず。それが理解できないならば、今この場であなたを捨ててしまっても私は一向に構わないのよ」

「……っ!」


 円珠の表情が絶望を受けたまま硬直する。

 その言葉こそ、円珠が最も恐れていたものであった。


 姉様と縁が切れてしまうのはもちろんだが、それだけはでない。もし姉様が自分との関係を明かすことになれば、姉様を嫌う友人たちとの距離感も変わることだろう。


 このとき円珠が脳裏で描いたのは、姉様を特に憎んでいる東野暁音のことだ。一学年上の彼女とは、キノコアザラシのグッズを通じて交友関係をはぐくんでいたのだ。

 その関係も今後は危うくなる可能性もある。


 今までの自分の地盤が崩落するさまを予期し、ミディアムボブの少女は弱々しく姉様に頭を下げた。


「も、申し訳ありません。出過ぎたことを……」

「社交辞令として受けておくわ。とにかく依頼内容はこれがすべてよ。きちんと役目を果たしてちょうだい」


 尊大な態度で念を押し、胡桃色の視線を受けながら不機嫌な白髪少女は屋内へと姿を消した。


(——我ながら、嫌な姉よね)


 そのやり取りを思い返すと、和佐としても何とも不愉快な気分にさせられる。

 編入生との情事を無自覚に蒸し返そうとする円珠にも苛立ちを感じるが、何より彼女に対する自分自身の態度に嫌気がさしていた。いくら虫の居所が悪かったからと言って、あそこまで強く当たる必要はないはずだった。


 姉妹関係の崩落は、和佐にとってデメリットのないというものではなかった。第一に、二人でないと実行できない謀略が全て果たせなくなるということ。そして次点は、他人を粗相に扱っていたと知られることで、大好きな姉からの評価が下がってしまうという問題だった。


 本を読んでいる間も良心(むろん和佐基準の良心である)がちくちくと神経を刺してきて、とても集中するどころではなかった。ついには読書自体を断念し、押し込むように文献を本棚に戻した。


 廊下側から足音が近づいたのは、この時だった。

 司書が所用でやってきたのかと思ったが、そうではなかった。現れたのは最悪の相手だった。


「えへへ、一条さん。実にいい場所に隠れてらっしゃいますね~♪」


 和佐の不快感の根源が、黒い三つ編みを揺らしながら天使の笑みで接近してきたのである。

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