2.聖花さまの想い

 屋敷の主人が自室に立てこもってしまい、夕食会がなし崩し的に終了すると、岬は胃袋より先に精神に消化不良をおぼえながら客室へと引き返した。


 黎明が妹に触れられなくなった事情はようやく理解できたが、それはとうてい自分の想像力の及ぶものではなかった。どう解決に結びつくか、見当もつかない。

 過去のトラウマによって、最愛の妹に触れられなくなった一条黎明。そのお姉ちゃんに受け入れてもらうために、触られなくなってからも裏で懸命に努力を続けてきた一条和佐。双方の気持ちはわからなくはないが、どちらかと言えば白髪の妹に同情する気持ちのほうが強い。ファンからの聖花さまの評価はいざ知らず、長椅子の上でのやり取りや妹に対する態度など、共感を誘いにくい点は多い。だが、すべては好きな相手への愛が重すぎるがゆえの悲劇であり、その愛自体を否定するような真似は岬はしたくなかった。


 頭が痛くなり、三つ編みごと全身をよじらせて思考を追い払う。しばらくベッドで寝そべり、胃の調子がようやく快方に向かったとき、ノックの音が響く。開けるとメイドの風月が深々と頭を下げた。


「岬様、この度はご迷惑をおかけして誠に申し訳も……」


 岬は社交辞令の口調で「そんなことは」と返した。一条家のメイドは入浴の準備が整ったとを告げると、後にこう付け加えた。


「本来ならお嬢様と一緒に入っていただこうと考えていたものですが……」

「現状をわかって仰ってるんですか」


 と、よほど言いたい気分であったが、さすがに客人として傍若無人に振舞えなかった。代わりにこう聞いた。


「一条さんは今どうしてます?」

「自室に引きこもっておいでです。かなり疲労されておいででしたが、このまま引き下がるような性分とも思えません。次の出方に警戒をしなければ……」


 それに関しては岬も同意見であった。あの時の和佐の調子だと強行突破も辞さないという雰囲気だ。単にお姉ちゃんと話をつけるだけなら、まだよい。このまま夜の展開を迎えてしまったら誰一人、幸せな夜明けを迎えることはできないであろう。


 入浴を勧められたこと自体はありがたかったので、岬は礼を述べて浴室までの案内を受けた。さっさと身に着けたものを脱ぎ捨て、身体を綺麗にしてから広い湯船に浸かった。良質な入浴剤を使っているらしく、かすかな芳香が岬の鼻腔をくすぐった。凝り固まった脳を弛緩させる効果もあるようで、リラックスしだした岬はルームメイトの彼女が一緒に入ってくれないことに今さら名残惜しさをおぼえた。

 湯にあたる前から湯あたりしそうな光景を思い浮かべてから、慌てて首を振る。二人に芳醇な関係性をはぐくんでもらうというメイドの魂胆があざと過ぎたのが、岬の警戒心と自制心をうながす結果につながったのだ。変態淑女界からへっぴり腰と謗られようとも、現状の回復のほうを優先させるべきであった。


 そのようなことを考えながら岬は浴室を出た。

 それとほぼ同時である。


「岬様、お湯加減はいかがでございましたか」

「わわっ、子夜先輩……!?」


 せめて扉の外で待ってくれればと思う。さすがに前は隠していたが、メイドの姿を見て、岬はのぼせ上ったような顔色で笑みを引きつらせた。風月の容姿は仕えるべく主人と引けを取らない優美なものと想像でき、岬は身体的劣等感で心をチクチクと刺激される。


「訪れたのが私で何よりではないですか。私の目からしてもお嬢様と遜色のない身体つきでございましたし」

「あはは……さすがに社交辞令ですよね、それ」


 謙虚と卑屈の交じった声で応じ、岬はそれから彼女がここにやってきた理由を尋ねた。


「ご主人様から、岬様のことを鄭重にもてなすよう仰せられましたので。私としましても岬様にご迷惑をかけたお詫びをしたく、参上いたしました」

「ありがとうございます。でもさすがに自分の身体くらい自分で拭けますので」

「それでは外でお待ちしましょう」


 最初からそうすればいいのにとは言わず、風月の退室した後、岬は肌と髪に張りついた水分を取り除き、そそくさと寝間着に着替えた。

 子夜先輩と合流したとき、岬は言った。


「あ、そうだ。子夜先輩に会ったら色々とうかがいたいことがあったんです。お時間よろしいでしょうか?」

「むろん、構いませんとも。せっかくですから岬様の御髪おぐしを整えながらうかがいましょう」


 岬は断らなかった。二階の客室までやって来ると、彼女は化粧台の椅子に腰を下ろし、流した黒髪を優秀なメイドにゆだねた。

 風月は迷いない手つきで少女の黒髪を梳き始める。岬が和佐のようなネグリジェを着ていればさぞ絵になるだろうが、このときの彼女の夜着はいつものパステルカラーのパジャマであった。


 髪に光沢を生み出しながら、風月が岬の顔を覗き込む。


「それで、岬様の尋ねたいこととは何でございましょう?」

「黎明さまが聖花になられた理由ですよ」


 風月が少し驚いたような反応になる。


「それはまた、いかなる理由で知りたいと?」

「黎明さまは本当は妹さんのことが好きなんでしょう? それなのに彼女じゃなくてファンのほうを選ぶ理由がよくわからなくて……」

「大勢のファンを敵に回すくらいなら、お嬢様に一時的な我慢を求めるのは仕方のないことかと。それにご主人様が聖花の座に就くのはお嬢様にとっても大きなメリットでもあったのです」

「メリット……ですか?」


 岬は純粋な疑念を、愛らしい顔に浮かべた。白髪のお嬢様が『あんな称号!』と唾棄だきしたものが、その彼女にとっていかなる恩恵をもたらすというのか。

 櫛を動かしながらメイドは語り始める。


「すでにご存知かとお思いですが、お嬢様は幼少期の頃から特異な外貌のせいで周囲から異端視されていたのです」

「黎明さまは異端視されなかったのですか?」

「あの方は昔から人との付き合い方に長けておられましたから。ですがお嬢様はそうではなく、しだいに心を閉ざしてしまいました。ご主人様が憂えていたのは、お嬢様の態度に反発して周囲の人間がいじめに走り出すことです。その敵愾心から妹をどうにか守ろうとして、ご主人様は妹を愛する傍らで、聖花の座を狙おうと考え始めたのです」

「それはまた、どうして……?」


 岬の疑問に、風月は物柔らかな家庭教師の口調で問い返した。


「仮に岬様がお嬢様と敵対する方だとしましょうか。もし、大勢のファンに慕われている聖花さまがお嬢様を大切にしているとしたら、岬様はその聖花さまを敵に回してまでお嬢様をいじめようとお考えなさるでしょうか?」


 岬は思わず「あ!」と声を上げた。

 もし、和佐に手を出した場合、妹を傷つけられて聖花さまは悲しむだろう。聖花さまは自ら報復をはかるまでもない。聖花さまのファンたちが『お姉様を泣かせたのは誰⁉︎』と草の根分けて犯人を見つけ出し、私刑にかけるに違いない。


「さようでございます」


 風月は黒髪に櫛を滑らせつつ頷いてみせた。


「事実、ご主人様の反応とファンたちの反感を恐れ、表立ってお嬢様に攻撃する者は現れませんでした。我々が卒業した後も、それは継続中です。ご主人様はお嬢様に触れることはできなくなりましたが、あの方はあの方なりにお嬢様の心を守ろうと心を砕いておられたのです」


 岬は黙り込んだ。何だか、聖花さまに対して大いに誤解していたような気がする。彼女のしてきたことを手放しで賛同する気はないが、少なくとも妹に対する聖花さまの不器用な愛情は疑いないと感じられたのだった。

 再び口を開く。自然としんみりした声になった。


「一条さんはお姉さんの想いを知ってたのでしょうか?」

「一度だけお話しいたしましたが、納得してくださったかどうかは定かではありません。お嬢様からすれば自分を差し置いて他の女性をはべらせているわけでございますから」


 妹をいじめから守るためには周囲の乙女からの寵愛を得なければならない。だが、和佐にとっては「他の女にうつつを抜かして!」とほぞを噛まずにはいられない光景だったのだろう。どちらの気持ちも理解できるから、岬としては何ともやるせない。

 岬は黒い頭を動かして風月を顧みた。


「子夜先輩、やはりあたしはお二人の仲を取り持ってやりたいと思うんです。一条さんも黎明さまも互いに想い合ってるわけなのに、すれ違っておしまいなんてあまりにも辛すぎるじゃないですか」

「岬様のお気持ちはもっともですが……」


 風月は困ったような声を発した。


「お二人が普通の姉妹仲であれば、私もとやかく申し上げるつもりはなかったのです。ですが、火影の件もさることながら、ご主人様に対するお嬢様の執着ぶりも尋常ではないことはすでに岬様もご覧の通りです。私は恐れているのですよ。二人の想いが最悪のかたちで終焉を迎えてしまうことを」


 風月はことさら予言者を気取ったわけではない。だがその言葉の気迫に、岬は思わず薄ら寒さをおぼえた。


 そして一条和佐の姉への執着がいかほどのものか、編入生の少女は思い知らされることとなったのである。

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