黒き翼と、つなげる命

プロローグ

 その日は、闇の中に、淡く冷たい月が映える空だった。


 夢見が悪く、闇が色濃い夜半に目覚めた青年は、理由も無く中庭へと足を踏み入れる。

 半年、夢に見る事が無かった内容に一人文句を呟きながらの夜半の散策は、空の淡い月明かりのみが供であった。


 それに気付いてか、不意に空を見上げると、頭上に広がるのはビロードの様な夜の帳と、ぽっかりと空いた穴の如き丸い月。


 月は照らす全てを穏やかに包み込みながらも、仄かに冷たい光で青年を更なる散策へと誘う。


 ……月の誘いが、運命の分かれ道であった。


「……綺麗だな」


 思わず零れ出た言の葉は、静寂に掻き消される。

 この様な夜も、偶には良い物だ。そう胸中に思いながら青年は月を見上げていた。

 見慣れている筈の月は、今この時においては幻想的とも言える程に美しく神々しい。


「……何だ?」


 その美しいばかりの月が不意に陰る。

 一体何事かと訝しむばかりの青年であったが、その事実に気付き目を瞠った。


「――、え」


 言葉が出ない。

 整然と並び立つ街燈の上に、真っ黒な人影が悠然と佇んでいた。


 風に靡きはためく黒いコートは、優雅に羽ばたく渡り鳥を思わせる。

 羽ばたく様に真円の月明かりを削るぬばたまの翼、陰陽の如く絡み合い、得も言えぬ美を生み出している。

 今日と言う夜に、不意に浮かび上がる鮮烈な美に、青年は心を打たれ、ただ、見つめる事しかできなかった。


 如何ほどの時が過ぎたのか、外套の上に立つ人物は青年に気付いたのか、其方へと視線を向けた。

 その様子を視線を逸らさずに見つめ続ける青年の胸中は、荒れ狂う高波の如く乱れる。

 気付かれた事への焦燥と、何かを予感し期待するような曖昧な心地に。


 故にか、逃げようとすら考えられず、それ所か、一層激しい希求が胸の中で暴れるのだ。


――もっと。もっと、見ていたい。


 漆の如く純度の高い黒い翼が、月を背に優雅にはためくその光景は、ただただ美しい。


深くも重たい歓喜が止めどなく溢れる事を自覚する。


黒と白光の相容れないはずの二つの色が艶やかに煌きらめき、空を妖しく彩っていた。


 それが、まるで嘲笑う様に見下ろしてくる感覚に、ぞくりと背筋が粟立つ。昂ぶる心が震え、喉が無意識に鳴り響いた。


――綺麗、だな。


その美に如何なる言葉を捧げようとも、きっと言い表せぬと無意識に感じていたのか、酷く簡単な、それでいて何よりも深く美を表す言葉が、自ずと零れる。


不協和音の筈の情景は、今は何よりも美しい。或いは今ある美しさに理由など無いのかも知れない、確かな事は青年はただそれに見惚れていた。


「――よけなさい」


「―――――」


 頭上から、涼やかな声が降ってきた。


 同時に、従う様に体は動いて――。




 ――その後に起こった出来事は、青年には皆目分からない。知るのは声の主と月ばかりか。



 爆発音。目も眩む土煙。襲う強い衝撃。宙に舞う体。――。



 一瞬にして幻想的な美は打ち壊され、何が起きたのかも定かではないままに青年は、無様に倒れ込んだ。直ぐに頭を上げて、呆然と空を、黒い翼の主を、見上げる。


 その翼の主はふわりと、優雅に大地に降り立つ。まるで漆黒の渡り鳥。


 こつ、こつ、と音を響かせて少しずつ、しかし着実に青年に歩み寄ってくる。


 そして。


「あなた」


 あと数歩という距離で彼女は、かつんと清冽な音を響かせ綺麗に立ち止まり、無感動にこちらを見つめてくる。

 向けられた言葉は涼やかだが冷たく、月明かりを思わせる。


 磨き抜かれた様な黒曜石の瞳は、吸い込まれるほどに美しかった。見つめているこの合間にも、彼女の瞳の深淵に囚われて堕ちていく様な錯覚さえ覚える。


 だが、彼女の表情はまるで変わらない。青年の高揚や恐怖を知ってか知らずか、淡々と真っ直ぐに見据え。


 そして、感情を乗せぬままに言葉を放った。



「あなた、――死ぬのは、恐い?」



 涼やかに、淡々と感情が一切こもらない声で告げる言葉すらも美しい。


 恐れと共に、青年の無意識はそう感じ取っていた。

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