血のない彼女は、血も涙もない。
煉樹
プロローグ 血も涙もない
第1話 「私、血がないの」と、彼女は言った。
血も涙もない、という言葉がある。
『冷たくて人情がない。冷酷で少しも思いやりがない』
そんな意味の言葉だったはずだ。
けれど、本当にそうなんだろうか。
血の流れていない人間も涙を流さない人間も、どちらも等しくこの世にいないというのに、誰が確認したというのだろう。
もちろん、それが例えだということなんてわかっているけれど、私はそれがずっと腑に落ちていなかった。
そんなどうでもいいことが唐突に思い浮かんだのは、間違いなく今目の前にいる彼女のせいだ。
そう、今、確かに彼女はこう言ったのだ。
「私、血がないの」
と。
—————
その日は、家に帰りたくなかった。
……その日も、という方が正しいかもしれない。
とにかく、
父の葬儀が終わって一ヶ月。相変わらず、家は六にとって居心地悪い場所だった。
「赤……」
映るのは、眼に痛いほどの赤。
年月で燻んだ赤だったけれど、今の私には、とにかくそれが眩しかったのだ。
その日、六は、伏見稲荷大社にいた。
伏見稲荷大社——言わずと知れた、全国のお稲荷さんの総本山に。
「うわ……」
目の前に連なるのは、鳥居の列と、人の列。
「こんな時間なのに」
夜も七時を回って更けだす頃合い。
今が夏じゃなかったら、きっとあたりは真っ暗闇だ。
なんでここにきたんだろうか。理由なんて、よく覚えていなかったけれど、目の前の人混みに少しクラクラして、後悔した。
「まぁ、いいか」
とは言っても、歩くのに支障が出るような、そんな大層なものではない。
連なる鳥居の非現実感に押されるように、六は大社の奥へと分け入っていった。
空気は湿気って不快指数が高く、歩いているだけで汗が噴き出すほどだったけれど、あまり気にはならなかった。
そのまま、どれくらい歩いたろう。
気づけば六は大社の最奥、稲荷山のほぼ頂上まで来ていた。
「うわぁ……」
振り返ると、京都の街明かり。
無数に瞬くそれは、人々が生きている灯火。
すでにあたりは漆黒に落ちている。
その眺めが、あまりに儚くて、目に焼き付いて。
六は、しばらくそこに座ってそれを眺めていた。
――……。
そうして、どれくらい光の群れを眺めていただろう。
大きな音が聞こえて来たのは、夜が随分深まって、あたりに観光客も消えた頃合いだった。
――ドォオン!
「……っ!?」
突然の、音。
その大きさに、思わずその場で立ち上がる。
「……」
音が聞こえたのは、右手の方向。
何かがぶつかったような、そんな、物騒な音だった。
絶対に、危険だ。
行っては、いけない。
そう、わかっているのに。
人間というのは不思議なもので、体はその直感とは裏腹に、音の震源地に向かっていた。
ガサガサと、茂みをかき分けていく。
「あ……」
そして、六は見た。
赤くて紅い、その人物を。
第一印象は、ただ、「赤」だった。
この山に無数に並び立つ朱の鳥居よりも、ずっともっと朱くて赤くて、紅い……。
それは、きっと血に塗れていたんだろうと思う。
その時、闇夜を照らす月明かりが、茂みの中に注ぎ込んだ。月光が、彼女の姿を眩しくてらした。
その時に見た、紅にまみれた彼女の姿を、六は決して忘れないだろう。
彼女の姿は、それほどまでに、印象的だった。
——そして、それ以上に、近づき難い何かを纏っていた。
その雰囲気になんとなく気圧されて。
一歩、六が後ずさった。
——パキッ
乾いた枝が折れて、静寂の帳の降りた山に、致命的な音が響く。
「……誰?」
気づかれた!
……突然のことに、気が動転して、思考がクラッシュする。
自分が逃げようとした理由なんてわからない。確かに目の前の彼女は印象的だったけれど、別に襲われるだなんて考えていたわけではなかった。
……けれど、確かに六の体は、その場から逃げ出そうとしていた。……きっとそれは、本能だったんだと思う。
本能的に感じた、底知れない恐怖……。
それが、きっと六の体を突き動かそうとした。
……けれど、結果から言うなら、六は逃げることはなかった。
出来なかった。
「見ーつけた♪」
なぜなら、気づいた時には彼女に左手を取られていたから。
「ぁ…………」
これといった言葉は、出なかった。
間近で見る彼女の顔は……ただただ、可愛かった。人形のようだと思った。
同性の自分が言うのもなんだけれど、可愛かったのだ。
……けれど、アイドルだとか、そう言う存在の持つ単純な可愛さではない。
その可憐さには、妖艶とはまた違った、「魔性」が満ちていた——。
「へぇ……」
彼女は、決して大きくなかった。
むしろ、六と比べて頭一つ分ぐらいは小さい。
……だというのに。
その存在感はあまりにも大きくて。
六は、身動きが取れなかった。
「ねぇ、あなた。……一つ、お願い、聞いてもらっていい?」
暗闇の中、髪の色と同じ二つの金色の眼がこちらを見つめる。
その光る瞳は、どこか浮世離れしていて、六をクラリと惑わせた。
だから、だろうか。
「——私に、あなたの血を頂戴」
そんなお願いを、聞いてしまったのは。
「私、血がないの」
確かに、彼女はそう言った。
月明りに、口腔の奥に除く八重歯が、キラリと光った。
本当なら、「血がないって……どういう意味?」だとか、「血を頂戴って、どうやって?」だとか、そんなことを聞かなくてはならなかったんだと思う。
そうだっていうのに、頭はまるで関係のないことを考えていて。
気づけば、恐怖の感情は、どこかに消え失せていた。
「返答がないのは、Yesってことで……いいよね?」
惚けていた六を現実に引き戻したのは、彼女の言葉。
その時点で、六にはすでに否定する道など、残っていなかった。
……だってそうじゃないか。
彼女という存在に惹かれた、惹かれてしまった時点で……六は、きっともう逃げられなかった。
「じゃ……遠慮なく」
変わらず動けずにいる六の首筋に向かって、彼女がその口を近づける。
近づくと、その体にまとう紅が、一層濃く香った。
そして、彼女は六の髪をサラリとかき分け、その真っ白な首筋に——
——噛みついた。
「ッ痛……」
噛みつかれたのを見て、反射的に声が漏れる。
「……くない?」
けれど、かみつかれているというのに、六は全く痛みを感じなかった。
ツーーっと、彼女が吸いきれなかった一筋の血が、首筋を伝う。
(私……今、血を、吸われてるんだ……)
こんな状況だっていうのに、いやに頭は冷静で。
さっきまでの混乱が、嘘のようだった。
(どうしてだろう。噛まれてるっていうのに、まったく、痛くない……)
そして、その純なる思考を汚すように、雷のような感覚が身体に走る。
(ううん……痛くない、どころか……むしろ……気持ち、いい……?)
まるで、噛まれている首筋に、体中の神経が集中したかのような。
(ダメ……なんにも……っ……かんがえ……ら、れない……っ)
首筋の甘い痺れが、首筋から、脳に伝って。
頭が痺れて。
それが、全身を支配して。
「……んッ!」
こらえきれなかった声が、漏れる。
ジリジリと、体の内側から夏の太陽に焼かれているみたいに、体が熱い。心臓はブレーキの壊れた車のようにどんどんと速度を上げ、決して止まることなく鼓動を刻む。そして、自分自身が心臓になってしまったかのように、耳も、目も、口も、足も、すべてがドクン、ドクンと激しく脈を打つ。まるで、熱に浮かされているかのように、視界がおぼろげになる。
(もう、ダメ……っ!)
意識が、遠くなっていく。
そして——
——ハー……ハー……ハー……。
気づけば、口で荒く呼吸をしながら、地面に横たわっていた。
柔らかな土の感触を、服越しに感じる。
そして、さっきのことを思い出して、首筋をそっと撫でる。
(あれ……?)
けれど、不思議なことに、血はすでに止まっていて、噛まれた跡もわからなかった。
……さっきまでのことは、夢、だったのだろうか。なんてことすら考える。
だって、血を吸う女の子だなんて……、正直、ファンタジー以外の何物でもない。
再び思考を無数の雑念が支配する。
「いつまで惚けてるの?」
そんな六の思考をリセットする、清らかな、どこか甘い声。
意識の外から聞こえてきたその声に、顔を傾ける。
そこには、月光に照らされた、少女が立っていた。
(ああ、可愛いな……)
こんな状況だっていうのに、ただただ思ったことは、そんなことだった。
その体は変わらず紅にまみれていて。
血を吸われて。
……そんな状況だっていうのに、なぜか彼女を嫌えなかった。
さっき見た時とおんなじ服のはずなのに。
さっきまで見ていた、少女のはずなのに。
そこに立っていた彼女は、余りにも――
凛々しかった。
「ごちそうさま。……じゃ、私は行くわ」
「——待って!」
意外なことに、彼女は六にそれ以上構うそぶりは見せなかった。
しかし、そんな彼女を、六は思わず呼び止めていた。
具体的に何か聞きたかったわけではない。
……けれど、このまま別れるのはあんまりにもあんまりだと、そう感じた。
「……あなたの、名前は?」
「私の名前? 私は——」
彼女は、そこで少し二の句を躊躇ったように見えた。
……けれど、すぐにその名と、少なからず衝撃的な言葉を、口にした。
「
そして、次の瞬間、眼前に光が満ちた。
それは、熱量を持った一条の光線。彼女——近衛継莉を、殺さんとする光だった。
——致死の攻撃だと、六にすら、一瞬で理解できた。
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