黒服、再び
午前の講義中、いきなり、マイラは声を上げた。
「――」
その声にならない叫びは大きく響き、講義室全体を揺らす。
俺でも今、彼女が何を言っているのか分からなかった。
例えるなら、狼が大切な者を亡くした時のような悲しい遠吠え。
「マイラ? 突然声を出して、どうしたんだ?」
マイラの叫びに、俺のみならず、講義を受けていた他候補生、講師も彼女に注目する。
「……授が、教授が……」
マイラは何故声を上げたのか理由も語らず、「教授が」という言葉を繰り返す。
「教授?
即座に理解した。C教授が再び倒れたことを。
「……マルス、私たち、もう……」
「もう? もうって何だよ。意味が分からないよ」
「……」
その問いに、マイラは答えない。
「ベロウソフ候補生、それは君が管理するモノだろう。今は講義中だ。静かにさせたまえ」
講義を中断されたことが気に入らないのか、中年の男講師は不機嫌そうに言い放った。
マイラをモノと呼んだ。久しぶりに聞くその呼び方に、俺は頭をぱぁんと叩かれた気がした。
「――あんた、今、何て言った?」
立ち上がり、講師を睨み、強く問う。
「……何?」
俺の反抗的態度を感じ、講師も俺を強い目で見返す。
「……」
俺と講師の視線は激しくぶつかり、講義室は剣呑な空気になった。
「講師、ベロウソフ候補生はパートナーの突発的な発作に気が動転し、正常な精神状態ではありません」
手を上げ、講師に状況を説明したのはクルスクだった。
「はい。この場合、ベロウソフ、マイラ両名とも講義を退室し、医務室にて休養するのが最もかと」
続けて、解決案を述べたのはイワン。
「……あ。二人とも」
俺は二人の言わんとすることが分かった。
二人は俺をかばい、早くマイラを連れてタチアナ医師の元へ行けと言っているのだ。
「先生、ベロウソフ候補生だけでは心配なので、私も二人に着いて行きます。よろしいですか」
隣のエヴァは引率を申し出る。
「……よろしい。早く行きなさい」
講師は怒気を抜かれたのか、目、顔の険しさは消え、退室を許す。
「……分かりました。さ、行こう、マイラ」
俺も同じだった。頭の熱は下がり、マイラを外に誘う。
「マイラちゃん、マルスさん、行きましょう」
「……うん」
マイラはこくんとうなずき、俺とエヴァに連れ添われ、部屋を出る。
「エヴァ、ありがとう。君だけじゃない、クルスク、イワンもかばってくれなかったら、俺はまた何をしていたか分からなかったよ」
退出してすぐ、俺は感謝を述べた。
「何を水くさいことを言っているんですか。仲間ですから、当たり前ですよ。マイラちゃん含めて、ね」
エヴァはあっけらかんと返す。
「あ、ああ……教授の件も含めて、タチアナ先生の元に急ごう」
ぐっと胸にこみあげるものをこらえて、まずは医務室に急ぐ。
管理センターの医務室に入った俺たちであったが、肝心の医師、タチアナはいなかった。
「……おかしいな? この時間、彼女の担当訓練も無いはずだから、いると思ったのに」
余計な時にひょっこり現れるのに、いて欲しい時にはいない。神出鬼没というのも困りものだ。
「どうしましょう。町内放送で先生を呼びますか? 町中をやみくもに捜すよりかは効率的だと思いますが」
エヴァは提案する。
「放送か……その手があったか。よし、エヴァ、君はここでマイラを看ていてくれ。俺は放送するか、中佐に尋ねてみるよ」
今のマイラには誰かが着いていなければいけない気がする。
役割分担を決め、俺たちはそれぞれの行動に移った。
「じゃ、マイラ、ここで大人しくしていろよ。タチアナをすぐに見つけてくる」
「……」
ベッドに寝かせたマイラに声をかけるが、返事は無い。
やっぱり、俺が彼女を看て、エヴァに行ってもらったほうが良いのかと迷う。
「先輩、マイラちゃんは私がちゃんと看てますから」
「……頼んだよ」
エヴァの言葉に背中を押され、俺はためらいを振り切った。
医務室を出て、ばったりと中佐と会う。
「中佐! 突然で申し訳ありませんが、タチアナ医師の居場所をご存じですか? 彼女は今、医務室を空けており……」
俺は彼女ならばと、期待し、質問する。
「……タチアナ医師は、今、この町にいない」
しかし、返ってきた答えは、予想外のものだった。
「え? じゃあ、どこに? 彼女がいないと、マイラが……」
「マイラが……?」
中佐は医務室の方向を見て、何かを考え込む。
「悪いが、タチアナ医師の居場所は教えられない。マイラに関しては、お前が責任を持って視ているのだ。分かったな」
「な……教えられないって」
それに、今の中佐の「みていろ」というのは、普段とニュアンスが違う気がする。
「ともかく、私は急ぐ。ベロウソフ、マイラを離すんじゃないぞ」
俺の目を強く見て、中佐は指示した。
そのまま俺の元から離れ、廊下を走って行く。
「……中佐、一体、どういうことなんだ」
あの中佐が焦っている。彼女のそんな状態を初めて見た。
教授が倒れ、一体、何が起きているのだろう。
これから先、何かの変化が起こる。今までと同じにはならない。
疑問だらけのなか、それだけは確実に分かった。
しかし、手をこまねいて待つには性に合わなかった。
中佐はタチアナは町にいないと言ったが、それだって真実かどうか。
俺は自分が納得するまで彼女を捜したい。そう決心し、足を動かす。
結局、タチアナは見つけられず、時間だけが無駄に過ぎてしまった。
八方手を尽くし、町中を散々捜し回った結果は、彼女はいないということ。
俺は徒労だけを感じ、センターへの帰路に着く。
今は午後五時過ぎ。訓練はとっくに終わっている時間だ。陽は完全に沈み、街灯が道を照らす。半年前の初訓練の時はまだ明るかったのに。朝の寒さといい、季節の移り替わりを嫌でも実感する。
「しかたないとはいえ、やっぱりこの国の寒さは堪えるな……」
去年の今頃は、暖房の効かないあのボロアパートで毎日凍える思いをしながら過ごしていた。感覚的のみならず、精神的にも。
今年はそれとは正反対。暖房が充分に整った部屋で、マイラと共に寝て、毎日がぽかぽかしていた。いや、彼女と一緒なら、どんな環境でも快適だと思う。それくらい、マイラはいるだけで周囲を温かくしてくれるのだ。
「……そうだ。マイラの所に早く帰らないと」
俺は気づく。タチアナを捜すことに気を取られ、マイラをほおっておいたことを。
彼女もきっと寂しい想いをしていたに違いない。相棒失格だ。
マイラのことを想えば、疲労は消え、俺は活力を取り戻す。
脚を速め、センターの玄関が見えた時、異変に気づいた。
センターの前に黒塗りの高級車が二台停まっていたのだ。
それだけなら、何もおかしいことはない。政府、軍の幹部がここに来るのは、日常の光景だ。しかし、車の周辺に佇む黒服の男たちの空気が違った。
あれは、「委員会」の連中だ。
候補生の俺にとって奴らは敵ではないが、味方でもない。
今の奴らは、どっちだ……?
前のアパートに襲撃された時の気持ちが甦り、背筋が冷える。
このまま進むべきか、立ち止まるべきか逡巡していると――
「あなたたち、マイラちゃんを返しなさい!」
センターから飛び出し、黒服に大声で訴えるのは、エヴァだった。
エヴァがマイラを返せと呼びかける。それだけで俺は判断する。
今の奴らは、敵なのだと。
考えるよりも先に、足が動いていた。俺は全力で駆け、センター前に向かう。
「いい加減にしろ。何度言われても実験体を返すことは出来ないし、その理由を説明する必要も無い」
「そんなの納得いきません! 私は候補生ですよ? あなた方が誰の命令を受けているか知りませんが、この件は空軍上層部から後に正式な抗議の形で……」
玄関前に着けば、エヴァは黒服に激しく抗議している。
それに対し、黒服は冷静に同じ言を繰り返すだけだ。
「エヴァ、こいつらに何を言っても無駄だ。上司の命令以外は耳を通さないんだからな」
俺はエヴァと黒服の間に割り行って、説明した。
「先輩! この人たちが医務室に押し入って、マイラちゃんを……!」
やっぱりそうだ。こいつらはマイラを拉致した。あの時と同じく。
「マイラを返してくれ。俺は彼女の保護者だ。あんたらの上司より偉い人から任務を受けているんだぞ」
俺は奴らの弱いところを突く。
権力側の者は、より強い権力者に弱い。
それでどう反応するか、俺は相手の次の行動に注意する。
「……もう一人の対象者だ。説明しよう」
予想に反し、黒服はあっさりと口を開いた。
「我々はクルシェコ所長から命令を受けた。実験体一匹と、調教師を連れて来い、と」
意外な名前が出た。クルシェコ、教授と対抗するロケット開発者。あいつが何故俺を呼ぶ?
「……マイラも一緒に彼の元に行くんだよな」
「先輩? まさか、従うつもりですか? 止めたほうがいいです」
俺の気持ちを察したエヴァは、行かせまいと手を掴む。
「……ありがとう。でも、ここは素直に従ったほうが良い。みんなにも迷惑をかける」
周辺には、何事かと人が多数集まっている。
これ以上騒ぎにしないためにも、俺は奴らの懐に飛び込むことにした。
「賢明な判断だ。乗れ」
俺の答えに、黒服が一瞬、笑みを漏らしたような気がした。
黒服によって、車の後部ドアが開かれる。
「じゃあ、行ってくるよ」
俺はエヴァを心配させまいときわめて平静に告げた。
彼女の掴む手を優しく離して。
「……あ……」
俺は車に乗る。ドアは閉められ、エヴァが何かを言ったかは、聞こえなかった。
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