番外編「すれちがい」後編

 まさか女性に襲われるとは思っていなかったので、我に返るまでに随分かかってしまった。とんでもないお嬢様だ。ユエだってそこまでしなかった。


「やめろ」


 俺は彼女の手を払いのけ、絡みついた手も振りほどいた。

 すでに俺に圧し掛かるようにしていた彼女はきょとんとしている。断られるなんて微塵も思っていない顔だ。


「いまさら、彼女のことでも思い出したのかしら? 大丈夫。すぐに忘れられるわ」


 胸元から彼女の手がするりと入り込んできて、シャツを肩から落とす様に肌の上を滑っていく。開いた胸元にその顔を寄せようとして、彼女はぴたりと動きを止めた。視線は食い入るように胸の中心部を見つめている。

 鼻で笑って、俺は彼女を今度こそ押し退ける。


「ついでに言うと、俺は病気持ちだ。うつるようなものではないが、あんたは嫌だろう?」


 半端に外されたベルトを締め直している間に、彼女はのろのろと視線を上げる。軽い震えは嫌悪か、怒りか。


「……奴隷が、何故この仕事を……!」

「俺は今、奴隷じゃない」

「……!!……その、婚約者が買い上げたというの?!」

「違う。彼女はそのままでもいいと言ってくれた。だから、消してない」


 理解できないという顔をする。出来ないだろうな。俺でさえ、ユエが俺といてくれる理由がよく解らない。

 彼女の瞳が、またぎらりと光る。自分の腿の辺りに手を滑り込ませようとしたところを、その手首を掴んで捻りあげる。


「あ……ぅ……」

「止めておけ。登録はできん」


 弾かれたように顔を上げる。


「どういうこと?!」

「さあな」


 これは奴隷紋に似せた何かだから、主人としての登録はできない。ユエの見立てだとそういうことになる。爺さんやビヒトに詳しく確認はしてないが、俺はそれを疑ってない。


「どのみち、俺を奴隷として手に入れたとして、あんたは奴隷と身体を繋ぐ勇気はあるのか? あるなら、先程あんなに狼狽えてはないだろう?」


 彼女はさっと青褪める。きゅ、と唇を噛みしめた。

 彼女が欲しいのは見目の良い従順な執事だ。そこに奴隷や病気などという汚点があってはならないはずだ。


「欲しいという刹那の感情で動いても、欲しい物が手に入るとは限らないぞ」

「……さっきから……随分な口を……!」

「これは俺の仕事じゃない。仕事に戻ればちゃんとするさ」


 ベストのボタンまできっちり嵌め直して俺は立ち上がると、片腕を腰の前に添えて深々と頭を下げた。


「お父様には内緒にして差し上げますよ。それでは、お休みなさいませ」


 部屋に戻り、一通りをエブルに報告する。多分、明日は俺にエスコートされるのを嫌がるだろう。エブルには面倒を掛けるな……


「……謝るな」


 エブルは深く溜息を吐いた。


「俺も知らなかったから、その……」


 痛ましい物を見るような視線を一瞬だけ向けて、慌てて目を逸らす。


「紋に関しては、同情されるほど酷い扱いを受けたことはないから気を使わないでくれ。ただ、紋があることでフォルティスや他の護衛達に迷惑がかかるなら、色々考えねばならん」

「フォルティス大主教は知ってるんだろう? なら、問題無い。対象は選んでるはずだからな。知られて嫌な扱いは受けるかもしれないが、暴力をふるったりそれを言いふらして貶めようとするような輩には当てないはずだ。今回は予想の範囲外というか……」


 彼は苦笑する。


「女性は何をやらかすかわからないな。たまに、そういうことが無いわけじゃないが、そこまで強引なのは聞いたことが無い。嫌ならもっときっぱり拒否していいんだぞ。あんまり冷静に対処するから、そういうのも平気なんだと思ってた。真面目なだけなんだな」

「……そういう訳でも」


 今回は余計なことを考えすぎてて対処が遅れたせいもある。いつもならあんなに近づけさせやしない。

 絡んだ指や胸元を滑る掌を思い出してみる。俺を欲しがる手。


「ま、心配するな。明日は俺がお嬢様の面倒を見るよ。さして問題じゃあない」

「助かる」

「なに、今日は楽してたんだ。君と組むといつも楽できる」


 エブルが笑ってくれたので、俺も少し笑う。

 ベッドに入って眠りにつくまで「違い」を考えてた。

 ユエの手と彼女の手。単純な答えは簡単に出た。全然違う。彼女の手には何も感じない。暖かさも冷たさも、気持ち良さも悪さも。石ころを当てられてるのと何も変わらない。ユエに触れられれば、絶対に振りほどけないのに。




 翌日、昨日と同じように鐘1つに1回程度の休憩を挟みながら国境近くの街を目指す。ただ、彼女の我儘も昨日ほどではなく、予定よりもかなり早く、昼頃には到着してしまった。

 エブルにエスコートされて馬車を下りた彼女は1度だけ俺に視線を投げたが、後は何事も無かったかのように笑顔で両親のもとへと歩み寄った。


「リーディ、また髪色を変えたのか? お前には元のブロンドが似合うと言っているのに」

「……そうね。そろそろ戻そうかしら」


 ねぎらいの言葉を掛けられて、仕事は終了だ。取敢えずエブルと昼食をとることにして、適当な酒場へ足を向けた。

 入口の上部に据え付けられた看板の上で、可愛らしい小鳥がぴろぴろと鳴いている。この辺りに巣でもあるのだろうか。酒場なら食べ物が豊富なのかもしれない。


「お疲れ様」


 ジョッキを合わせると、エブルは一気に飲み干した。


「いやー、この一杯の為に生きてるな! な、お嬢様の髪があの色だったのは、やっぱり君の婚約者を意識してだったのかな?」


 仕事を無事終えた高揚感なのか、珍しくエブルが踏み込んできた。


「さあな。どうでもいい。ユエの髪はもっと深い色だし、陽に透けるとまた色が変わる」


 もっと柔らかいし、艶だってある。全然違う。そこまで言いそうになって、誤魔化すようにジョッキを煽った。エブルはにやにやしてる。


「ユエさんっていうのか。ちっちゃくて小動物みたいだって、街なかで見かけた奴が言ってたぞ。今度、紹介してくれよ」


 エールを吹き出しそうになった。


「み、見かけた? 誰にも、紹介なんて……」

「黒っぽい茶の髪で、背は小さめ。その特徴だけで特定できるぞ。護衛を職にしてるやつらは結構敏感だし、情報収集も得意だ。隠してるつもりなら、認識を改めるんだな。君と歩いてたりしたらもっと目立つぞ。1度みんなの前に連れて来てお披露目した方が、俺はいいと思うな。そうしたら今回みたいに留守にしても、街に居るヤツがそれとなく見守ってくれる」


 びっくりした。そんな風に考えたことが無かった。


「意外と恨みも買ったりするからな。そこは持ちつ持たれつなのさ。君は竜馬に好かれるくらい見込みがあるからな。こちらとしても、もう少し連れ歩きたい」


 にっと笑う。

 なんだか以前にユエに言われたことを思い出した。


 『他の人をもっと信用したり協力したりしてもいいんじゃない?ってことだよ』


 こういうことなのか。ようやくその意味が理解できた。


「……考えとく」


 呟くように言ったその言葉に、エブルは大仰に頷いていた。

 次のジョッキを頼もうかという時、酒場の入口が大きく開いた。つかつかと入ってきた客は迷いなく俺の隣に腰掛ける。


「俺、肉が食いたい」


 エブルがきょとんとそいつを見下ろしていた。俺も一瞬声を無くす。


「頼んでくれるよな?」


 にやりと、ガルダは俺を見上げた。




 エブルに親戚だと説明したものの、不自然さは隠しようもなく、俺は冷や汗をかいていた。

 食事が終わると早々にエブルと別れてガルダを連れ出した。そのまま泊まるにせよ帰るにせよ別行動にすると伝えてある。

 宿の裏手に預けていた竜馬を引き取りに行って、口火を切った。


「わざわざ戻ってくるなんて、何かあったのか? っていうか、なんであそこがわかった?」

「危ないことは、何も。場所は眷族が教えてくれる」


 にやにやしてるガルダにイラつく。確かに、ユエに何かあったのならその場でガルダが一掃してるはずだ。


「何か言伝とか」

「いや。ユエには会ってない」


 思わず足を止める。厩舎の相棒がちらりとこちらを向いた。


「会ってない?」

「朝になってから行って、家を覗いたら何やら楽しそうに準備中で、こっちに気付きもしない。暫く黙って様子を見てたんだ。そうしたら昼前に来客があって、やっぱり姿を見せない方がいいかと思って」

「あぁ、フォルティスか?」

「いいや? あいつは知ってる」


 わざともったいぶってるな。睨みつけると、可笑しそうに笑った。


「随分親しそうだったぞ。家に上げて、昼飯を振舞って。細身の、男だった。来るときは全身隠れるフードを着込んで、辺りをしきりに気にしてた。なぁ、こういうのって、何て言うんだった?」


 ひやりと、心臓に冬の水を流し込まれた気分になった。


 ――もっといろんな人と付き合ってみればいいんだよ。


 あの朝の言葉が、違う意味に聞こえる。


 ――確かめるなら、結婚してしまう前の――


 自分がそうだから、そんなことを言い出したのか? 信じたくない。でも、ガルダが俺をからかう為だけにそんな話を作り上げることはない。

 ふるふると全身が小刻みに震える。怒りとかじゃない。ユエがいなくなってしまう怖さだ。ガルダを見つめながら、その奥にユエと仲睦まじい誰かを想像してしまう。

 色を無くして黙り込んだ俺を見て、ガルダは気まずそうに視線を逸らした。


「な、なんだよ。嘘は言ってないぞ。怒るとか、なんとか、反応はないのか?」


 動けなかった。どうすればいいのか、解らない。

 少し、焦ったようにガルダがそわそわし始めた。珍しい。そんなことは頭の隅で妙に冷静に考えられた。


「――か、帰れば、いいんじゃないか? あれなら、陽のあるうちに着くだろう? ユエに、どういうことか聞けばいい」


 これまでにないほど、俺に気を使った科白だったのは判った。俺は真っ白な頭のまま頷いて、相棒の手綱を握った。


 ◇ ◆ ◇


 相棒は休憩もとらずに走り続けてくれた。最短距離を、時には道を外れて。冒険者ギルド所有の竜馬厩舎にねぎらいもそこそこに突っ込んでも怒らなかった。

 そこまで走ったのに、家に近付くにつれて足は重くなった。帰らない方がいいんじゃないかとさえ思った。死刑台に登るような気持ちで階段を登り、玄関ドアの前に立つと、ふたりの会話が聞こえてきた。


「……本当に、いいの? こうして、触れるだけでも……」

「せっかくの機会だよ! いいから、ほら、それも脱いで!」

「……ちょ、自分で! 自分でするから!」

「はやくー」


 少し気の弱そうな青年の声に、ユエはくすくすと笑いながら答える。体が竦んで動かない。このドアの向こうに広がる光景を見たくない。

 衣擦れの音がする。膝から崩れ落ちそうだった。


 ふいに、目の前を派手な頭が横切った。ついてきたのかと少し驚く。メラメラと音を立てそうな色の髪を持ったその人物は、躊躇いも無くドアに手を伸ばし、勢いよく開け放った。


「……待っ……」


 情けない声だった。叱られて、解ってるのにごめんなさいとどうしても言えない時のような……

 思わず目を瞑る。瞑ったって、事態は変わらない。


「……ガルダ? ……と」

「きゃーーーーーーーーーーー!」


 不思議そうなユエの声と、黄色い悲鳴。黄色い、男、の?


「ユエ、これはウワキか?」

「どこでそういうことを覚えるの? 人聞きが悪いから、やめて。誤解されそうなのは自覚してるんだから」


 溜息を吐きながら、ユエがこちらに来るのが分かった。

 手を引かれる。


「帰ってくるの、明日じゃなかった? ……震えてる? カエル? 具合悪い? 足りなかった? それで帰ってきたの?」


 心配そうなユエの声が近付く。足りないなんて、あり得ない。分かってるはずだ。暖かな掌が頬に添えられ、瞑っていた目を薄く開いた。

 柔らかなものが唇に触れる。温かなモノが当たり前のように滑り込んできて絡み付く。ユエの匂いがする。少し、落ち着いた。


「大丈夫」


 溺れそうなユエのキスを振りほどいて、俺は意を決して顔を上げた。

 そこにあったのは、興味深げなガルダの顔と、紫のドレス・・・に身を包んで顔を覆ったまま座り込んでいる青年の姿だった。




 ちょっと混乱したまま、家に入って全員で席に着いた。4人で座るとテーブルがなんだか小さく見える。ユエが全員分のお茶を淹れ終わると、下を向いたままの青年が口を開いた。


「すみません。あなたの留守中にお邪魔するのは悪いと思ったんですけど……ドレスが届いたって聞いたら、見たくなっちゃって……」

「私が誘ったんだよ。カエルが帰ってくるのは明日だから、存分に試着できるよって。いい感じだったら、そのまま帰ればいいよって」


 まだよく飲み込めない。ガルダはそんなことどうでもいいようで、テーブルに乗せてある籠の中のマフィンか何かに早速手を伸ばしていた。


「それ、ソリタリオが持ってきてくれたの。感謝してね」


 彼はソリタリオというらしい。城の文官で、ユエともちょくちょく一緒に仕事をするようだ。そうして親しくなっていくうちにひょんなことから、彼が男性を好きで、ドレスやスカートに身を包みたがっているという秘密を知ることになったのだと。

 大っぴらにすることが出来なかった話をユエは親身に聞き、相談に乗り、彼のサイズでロレットに服を注文し、今日に至ったようだ。


「変に誤解されたくなかったから、スカート履いて化粧してカツラ被って、女性の姿が板についてから紹介しようと思ってたのに……」


 上目遣いにこちらを窺うソリタリオは、女性ぽい、と言えなくもない。爺さんにそういう人間がいるという話は聞いたこともある。

 ユエがそれをすんなり受け入れているのは何故なんだろう。彼女に近付く方便かもしれないのに。心境は複雑だったが、彼の前でも俺の体調を心配して躊躇わずにキスをくれたのもユエだ。

 気が付いたら彼の着せ替えに、化粧まで手伝って、そのままの姿で夕食を共にし、もの凄く感謝された。


「ユエちゃんの彼、すごく素敵ね。ユエちゃんのじゃなかったら、惚れちゃうところよ」

「だ、だめっ! それはダメ!」


 恰好が女になるだけで、言葉も変わるんだな、とかぼんやり思っていたら、ユエに抱きつかれた。

 何をそんなに焦ることがあるのか。相手は男だぞ? 向こうがその気になったって、ありえない。ユエの基準はよく解らない。

 ソリタリオとガルダを送り出して(ガルダはおやつを持たせて追い出したと言った方が近い)部屋の中にふたりになると、どちらともなくつく息が重なった。


「そういえば、仕事先で護衛対象に迫られた」


 男であの反応なら、女ならどうなるのだろうと軽い気持ちで口に出していた。


「……護衛対象って、お嬢様だって言ってなかった?」

「そうだ。ユエが他の人間にも触れろっていうから、避け損ねて服を脱がされた」

「そ、そういう触れ方をしろって言ったんじゃないよ!」


 胸ぐらを掴まれそうな勢いで言われた。ちょっと可笑しくなってきた。


「ベルトまで外されるところだった」


 ユエは目を見開いたまま固まる。


「もっと、触れてみるべきだったか?」

「……もう、2度と言わない! 解った。すごい、馬鹿なこと言った」


 泣きそうな顔になったユエに、俺も告げる。


「俺も解った。どんなに他の人間に触れても、みんなユエじゃない。ユエは、ユエしかいない」


 ん? と疑問の顔になったユエに俺は軽いキスをした。


「なんであんなこと言ったんだ?」

「……この先、ふとしたことで他の人に触れて、それでもしかしてその人のことをカエルが好きになっちゃったら、結婚は邪魔になるでしょう? カエルは私が居ないと元気でいられないから、他の人と結婚しても私の所に来てくれるけど、私と結婚してたら好きな人のところに行けないじゃない。そう、思ったんだけど――」

「馬鹿だな」


 呆れる。


「うん。やっぱり、独り占めしてたいみたい」


 珍しく素直なユエに、会えなかった1日分の寂しさが埋めろと囁く。


「ユエ、明日休みか?」

「え? うん。明日も明後日も休み。カエルが帰ってくるから、掃除して、ごちそう作ってゆっくりしてとか考えてたから」


 玄関の鍵を確認して、ひょいとユエを抱き上げた。


「風呂に入ろう。明日は寝込んでていいから、今日は存分に触れさせてくれ」


 カッとゆで上がったユエが愛しくて、危なく風呂も忘れるところだった。




 すれちがい・おわり

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