ヒナタ

目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。

喉が、焼け付くように痛かった。

喉だけじゃなく、体のあちらこちらがひりひりと痛んでいた。


一体俺は、あれからどうなった?


「あら、起きたの?」

シャッとベッドを囲っていたカーテンが開いて、50代くらいの太った看護師さんが笑顔を見せた。


「あ……」

話そうとして、焼けるような喉の痛みに咳き込んだ。


「あ、無理して話さなくていいわよ。よく寝てたわね。最初に運ばれて来たときに意識がなかったから、一酸化炭素中毒じゃないかって心配してたんだけど、ただ寝てただけでびっくりしちゃったわよ。火事の最中に寝ちゃった人なんて見たの初めてよ」

おばさん看護師はワハハと豪快に笑った。


「幸いね、軽度のやけどだけで済んだから、入院の必要はないだろうってお医者様も言ってたんだけどね、ずいぶん寝不足だったみたいで、ちっとも起きないから。うふふ。もう夕方になっちゃったわよ」


看護師は、俺に体温計を挟んだり、血圧を計ったりし始めた。


一体、どういうことだ?

ヒナタ、ヒナタはどうしたんだろう。

まわりには、ヒナタらしき人物は見当たらなかった。もしかして、本当に全てが夢だったのか……。


どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが夢だったのかさえ、よくわかならくなっていた。


もしかして、あのヒナタが助けに来てくれたのは、夢の中の出来事だったのだろうか。

俺は夢であって欲しくなかった。


「あぁ、そうだ。着てた服とか荷物とか、そこの引き出しに入ってるからね。足をやけどしてたから、ズボンは少し焦げちゃってて、こっちで処置する時に切っちゃったんだけどね。シャツはボタンで前開きだったから、切らないで処置したからね。あとズボンに入ってたお財布とかは出しちゃったけど、大丈夫みたいだったよ。自分で確認してごらん」


財布? 俺は、財布なんか持ち出した記憶はなかった。一体どういうことだろうか……。

言われるまま引き出しを見てみると、本当に俺の財布がきちんと入っていた。


中身を見てみると、10万円と千円札が何枚かとカード類が入っていた。

おかしい。普段、財布に10万円も入れてはいないはずだ。


やはり、これは俺が持ち出したんじゃない。

ヒナタだ。あの棚の中に10万円が入っていたのを知っているのは、彼女しかいない。

ヒナタが俺を助けた際に、寝室の棚の中にあった10万円を財布に入れて、持ち出したんだ。


しかしあの状況下で、一体いつそんな時間があったのだろうか。


「あ……あの……誰が、俺をここへ?」


「あー、髪の長い綺麗な女の子だったらしいわよ。あれ、彼女かしら?あ、でも彼女だったらついて看病してるわよね?お隣さんかしら?でも、男物の服を着て、ずいぶん汚れてたってみんな不思議がってたのよねぇ」


「そのコ、怪我は?足に大怪我してませんでしたか?」


「え?怪我? 怪我してたら帰してないわよぉ。あ、そうだ、なんかその子ね、看護師なんだって言ってたわよ。救急隊員が到着したら、軽々とアンタを負ぶってたらしくて、手際良く応急処置してたって言ってたわね」


男物の服?看護師?怪我をしていない?

一体その子は、誰なんだ?

おばさんの証言を信じるなら、その子は明らかにヒナタではない。


しかし、『髪の長い綺麗な子』というのがひっかかった。


おばさんは、にこにこしてまたカーテンを閉めた。

このままじっとなんてしていられない。

俺は、点滴をもぎ取って棚にあった自分の服に着替えた。


探しにいかないと。ヒナタはきっとどこかで一人で俺を待っている。


俺は走って病室を出て行った。廊下でさっきのおばさん看護師とすれ違った。


「ちょっと! どこ行くの! ご両親、夕方にはこちらに迎えに来るっておっしゃってたわよ!」


「俺、怪我は大したことないから、助けてくれた人を探しに行きます! 俺しばらくホテルに泊まるから心配しないでくださいって伝えてください! 」

走りながら振り返って叫んだ。


「え? アナタのご両親、心配してたわよ! 顔くらい見せてあげなさいよ!」


「今逃したら、もう会えないかもしれない人なんだ!! おばさん、適当に言っといて!」


おばさんは、まだ何か言っていたが、病院のスリッパのまま、構わず病院を飛び出した。


ヒナタの行きそうな場所を探してみよう。


まずは取りあえず頭に浮かんだスーパーに向かった。

2階建てのスーパーを隅々まで見たが、ヒナタの姿はなかった。

途中途中で、かつて二人で楽しく買い物をしていた風景が思い出された。


次は俺の家の近くのゲーセンに行ってみた。

ヒナタはオンラインのアーケードゲームにどっぷりとハマっていた。

ここにも、ヒナタの姿はなかった。

モニターの光に照らされたヒナタの真剣な横顔を思い出していた。


次は買い物帰りによく立ち寄った近所の公園に向かった。


ここにも、ヒナタの姿はなかった。

隅のブランコが目に入り、二人で子供みたいに遊んで笑い転げたことを思い出した。


たった3ヶ月だと思っていたが、こんなにも俺とヒナタには思い出が積み重なっていたんだな。


そして、もう心に思い浮かぶのは、セミを一緒に埋めた神社だけしか残っていなかった。

神社の階段を駆け上がると、まずセミを埋めたどんぐりの木の下に行った。


ヒナタの姿は見当たらない。

セミを埋めた場所には、まだヒナタの目印の草が落ちていた。

あれから、まだ2週間しか経っていないのに、遥か昔のことに思えた。


もう、ヒナタは見つからないと思った。

『俺たちの場所』にいなければ、もうヒナタは、本来、自分がいるべき場所に戻ったのかもしれない。

それが、一体どんな場所なのか、俺には想像もできなかったが。


最初に行ったスーパーで、タバコとライターを買おうとしたが、思い直してガムを買った。

そのガムの銀紙を剥いて口に放り込んだ。


耳を澄ますと、明日で9月だというのに、まだセミの鳴き声が聞こえた。


9月か。

始業式が誕生日だなんて最悪だといつも思っていた。今日が土曜日だから、今年は1日は、日曜日だったんだな、今ごろ自分の誕生日を思い出した。


ぶらぶらと境内を歩き、なんとなく裏手にまわってきた。

ふと見ると、社の下で汚いTシャツを着て丸くなって座っている人がいた。

まさかと思い、俺は一歩ずつ近づいていった。


そこには、煤まみれになった俺のTシャツとジーンズを着て、目を閉じて両手で膝を抱えているヒナタの姿があった。


「……ナタ、ヒナタ」


ヒナタは微動だにしなかった。

まるで、マネキンのように呼吸すらしていないかのようだった。


「ヒナタ! ヒナタ!」


俺はヒナタの肩を思い切り揺すった。

閉じていた目が、ゆっくりと開いた。


「見つかっちゃったね」

ヒナタは微笑んだ。


「なんで逃げるんだよ」


「別に逃げたわけじゃないよ」


「足、大丈夫なの?」


「……うん。なんともない」


「なんともないわけないだろ。病院に行こう」


「本当に、本当になんともないの!」


「うそだろ! 見せて見ろよ」


「やめて!」

ダボダボになってる俺のジーンズを、無理やりにまくりあげた。


俺は自分の目を疑った。

確かにあの時、燃え落ちた照明がヒナタの右足に直撃したのを俺は記憶している。

あれは夢なんかじゃないはずだ。


だが、彼女の足は今までと同じように真っ白で、傷一つなかった。


頭の中が真っ白になった。


「これ、どういうこと?」

ヒナタはうつむいて何も言わなかった。


こんなこと、有り得ない。


少なくとも、ヒナタが普通の人間だとしたら、有り得ない。

俺の背中からは、冷や汗に似た嫌な汗が吹き出してきた。


風呂場で見た不思議に光る入れ墨を思い出していた。

火事の時に、ヒナタは煙の中を歩いていたことを思い出した。

俺は顔もあげることすらできなかったのに。


そして、何よりもヒナタの体から体温を感じたことがないことを思い出していた。


「説明、出来ないの? 一体君は何者なんだ、ヒナタ。答えて、ヒナタ!」

俺は興奮して、ヒナタを前後に強く揺さぶった。


体が震えていた。

言葉にならない恐怖が、体の底から湧き上がってきた。


「お父さんと約束したの」


「何を?」


「でも、もう限界だと思う」


「やっぱり、ヒナタ……君は……」


君は……。


君は……、人間ではないんだね。


あまりにも馬鹿げた発想で、言葉にはならなかった。


「ケンちゃん、本当の私が、もし怪物だったとしても、愛してくれてた?」


ヒナタの目は、あの時と何一つ変わらない真っ直ぐで透き通った眼差しをしていた。


「怪物……。話して。……俺に本当のことを教えてくれないか」


ヒナタは、ポケットに手を入れて、白い封筒に入った手紙を俺に差し出した。


「これ、お父さんからケンちゃんに」


何の変哲もない封筒だったが、俺にはまるでそれ自体が生きている生き物かのような、奇妙な物体に見えた。

封筒にノリはされていなかった。

何枚か重なった便せんを取り出し、1行目に目を落とした。


『拝啓 小早川ケンジ 様』

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