タンポポ

その夜、抱きしめたヒナタの体温が恐ろしく冷たかったことを何度も思い出していた。


抱きしめたら壊れそうだと思っていた細い体は、意外にもとてもしっかりとした感触だった。

また、眠りにつくことが出来ずに、何度も寝返りを打ちながらヒナタの体の感触を蘇らせていた。


もしも拒まれたらという不安に反して、ヒナタは俺の腕の中でじっと涙を流していた。


俺には『お父さん』が自殺した衝撃というのを、想像することが出来なかった。


果たして俺は彼女の孤独を癒やしてあげられているのだろうか。

むしろ俺は、ヒナタに癒されていただけじゃないのか。


今まで俺は、自分の人生ばかりを嘆いて、自分ばかりが孤独で不幸なんだと思っていた。

あんな家庭に生まれなければ、こんな学校に入らなければ、こんな世界に生まれなければ、とそればかり考えて生きてきた。


しかし人は、外側からでは決して計り知れない苦悩を抱えて生きているのかもしれない。


だからみんな、群れたり、触れあったり、何かに没頭したりして、孤独と闘うのかもしれない。


俺は、なんてまだ小さな子供なんだ。

俺はまだ、たったの15才で、誰かを自分の手で守ってやれる程、大人なんかじゃなかったんだ。


なのに何故、こんなにも人を好きになってしまうのだろう。

自分のあまりの小ささや無力さに気づかされて、ただ傷ついてしまうだけなのに。


いつの間にか朝がきて、朝日で窓が青白くなっていた。雀の鳴き声と新聞配達のバイクの音がかすかに聞こえる中、ようやく俺はまどろみ始めた。


次の日に起きたのは、午後2時を回っていた。

部屋からリビングに出てみると、いつものカウチソファにヒナタの姿はなかった。


もしかして、出て行ってしまったのではないかという、考えがふと浮かんで怖くなった。

別に、ヒナタがここいなければいけない理由なんて何一つないのだ。


そして俺たちの関係にヒビが入ってしまえば、この危うい共同生活など、いつでも粉々に砕けてしまうほどの厚みしかない。


それを大事にしなければいけないはずなのに、時に本能は、理性よりも遥かに簡単に人間を支配してしまう。


そして、何が正義で何が悪なのかも忘れ去ってしまう。

イジメをしていた同級生や、養父母やショウマや母さんや、そして俺のように。


遠くから、水の流れる音がしてきた。

どうやら風呂場からのようだ。

安堵を覚えた。


俺は、いつからこんなにも臆病者になってしまったんだろう。守りたかったのはヒナタではなく、ヒナタに癒されている今の俺の生活のように見えた。


カウンターキッチンのカウンターには、先週買ってきておいたシャンプーの詰め替え用パックが目に入った。

たしか、もうシャンプーが無かったはずだ。


俺はそれを持って風呂場に向かった。


「ヒナタ、シャンプーもう無かっただろ?」

脱衣所のドア越しに声をかけた。


ヒナタからは返事がなかった。

聞こえなかったのかもしれないと思い、中の洗面台のところに置いておこうと脱衣所のドアを開けて中に入った。


「ヒナタ、聞こえたか?シャンプーここに置いておくよ!」


今度はかなり大きな声で言ったつもりだが、ヒナタからは返事がなかった。


ふと心配になって、見ないようにしていた浴室の磨りガラスの扉に目をやった。

見ると、それは少し隙間が空いていて、完全に閉まってはいなかった。

やっぱり、何かおかしい。


隙間からは、ヒナタの腕と思われる部位が見えた。緊張と興奮と恐怖が一気にこみ上げてきた。

俺は衝動を押さえきれず、一歩前に踏み出した。


そこからはヒナタの背中全体が見て取れた。

俺は自分の目を疑った。


一体これは、誰の体だ?


立ち込めた蒸気の中に、まるで浮かんでいるかのように、その体の背中一面には、見事な大きいタンポポの入れ墨が彫られていた。


そしてそのタンポポが、ほのかに、まるで息づいているかのように、夏のホタルの光のように、ぼんやりと光を放っているように見えた。


その時ガタンと大きな音がして、驚いて音のしとほうを向くと、それは俺が手に持っていたシャンプーのパックが俺の手から落ちた音だった。


シャンプーのパックが死体のように横倒しに転がっている。


「ケンちゃん?」


浴室からヒナタの声がして驚いて半開きになっていた扉を閉めた。


心臓がさらに速くなり、手が震えていた。


「あ、うん」


「そこで、何してるの?」


「いや、シ、シャンプーが、切れてただろ。だから、替えのパックを持ってきてやったんだけど……」


「それなら、そう言ってよ。びっくりするじゃない」


「いや、何度も声はかけたんだけど、返事がなかったから」


「そう、ありがと……じゃあ、出てって。私、もうあがるから」


「あ、うん。ごめんな」


「ううん。……まさか、中覗いてないよね?」


体中の血が引いていくような感覚に襲われた。顔が真っ青になっているかもしれなかった。


「……み、み見てないよ……」

明らかに、おかしな返答をしてしまった。


覗いた後ろめたさと、今自分が見たものの驚きが全て声に表れているようだった。


「なら、いいんだ」


こんな返答では、見ましたと言ったようなものだったが、ヒナタはそれ以上何も聞いてはこなかった。

俺は呆然としたまま、風呂場を出た。


一体、今のは何だったんだ。

まさか、錯覚や見間違えだなんてことはないだろう。


ヒナタは、『相当な箱入り娘のお嬢様』なんかではないのかも知れない。

そういえば、一度だって背中の開いた服を着ているのを見たことがないし、ショウマに襲われた時だって、しきりに背中を気にしているようだった。


ヒナタの正体は、俺の姉さんなんかではないのかもしれない。


ヒナタの父さんは『殺された』と言っていたことを思い出していた。

もしかして、ヒナタの父さんは、危険な組織の人間で、ヒナタも誰かから逃げているのではないかとさえ思えてきた。


いや、そう考えると全てのつじつまが合う。


年齢や、どこに住んでいたか、ヒナタが自分のことや、ヒナタの『父さん』のことを俺に話したがらなかったのは、俺が異母兄弟だからではなく、知られてはまずい理由があるからなのかもしれなかった。


ショウマの一件の時も、かたくなに病院や、警察に行きたがらなかった。


でも、何故かヒナタがそんな危険人物だとは到底思えなかった。

俺にとって、ヒナタは世界で一番信用できて、世界で一番安心できる存在だった。


落ち着いてくると同時に、今見たもの全てが、幻だったんじゃないかと思い始めていた。

そもそも入れ墨があんなふうに光るはずがない。じゃあ入れ墨じゃなかったら、一体なんなのだというのだろう。


俺は、深い迷宮をさ迷うように同じ考えをぐるぐるぐるぐると巡らせてみたが、何も答えは出なかった。


ヒナタが頭髪をバスタオルで拭きながら、笑顔で脱衣所から出てきた。

キラキラと水しぶきが飛び散って、濡れた長い髪を垂らしているヒナタは、まるでさっき見たタンポポのように、恐ろしく美しかった。


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