4-5. おれの血を飲んで

 出だしは順調だったのに、二日目の旅は予定通りに進まなかった。


 エランド山脈のふもとにある宿に夕方に到着し、翌朝早く山越えの道に入るというのがフィルの計画だったが、リアナの不調が思ったより深刻で、頻繁に休憩をさしはさんだせいで旅程が遅れてしまったのだった。天気は快晴で道もよく、ハイキングにだっていけそうなほどなのに、その太陽光がいまの彼女には辛い。肌は服とスカーフに覆われているが、地面からの反射光が目に入ると焼きつくように痛む。結局、夕方まで木陰で休み、夕暮れから夜にかけて遅れを取り戻すべく竜を走らせることになった。


 遅れた旅程のことを思って、気が急いてしまう。ニザランに着くのが遅れたら、それだけ自分は竜族ではないなにかになってしまうのではないかという恐れが強くなっていた。


 モーブ色とオレンジと灰色が入り混じった美しい空が、気がつくと紺色に染め変えられ、エランド山脈が黒い影に沈むと、雪で覆われた部分が灰色に鈍く光った。……もう夜になる。


 空に気を取られていたリアナは、ふいにがくっと立ち止まった竜の背から振り落とされてしまった。視界が大きく揺れたかと思うと身体がもう落ちていて、竜術を使う間も、受け身を取る間もなかった。

「痛っ……」


「リア!」

 フィルが慌てて竜の背から飛び降り、彼女を助け起こした。「大丈夫ですか? 腰を打った?」

 スピードが出ていなかったことも幸いして、強く打った箇所はないようだったが、驚いてすぐには声が出なかった。


「そんなに強くは……」

 シューッという竜の威嚇音で、言おうとした言葉がとぎれた。ふりかえって見あげると、竜が後ずさりしながら尻尾を横に振り、威嚇を続けている。フィルが弾かれたように飛び出し、手綱をぐっと掴んで竜が逃走するのを押さえた。低く小さな声をかけて落ち着かせてから、なにに怯えているのか確かめる。


 青年の指でなにかがきらめいた。「……背に霜が」


「またなの……?」

 リアナは顔を手で覆った。どうやら、無意識のうちにまた周囲を凍らせてしまいつつあるらしい。


「今日は別の、もっと近くの宿屋に泊まりましょう」薄暗い考えに取りつかれつつある彼女に、フィルが切りだした。


「でも……」

「これくらいの遅れは折りこんでいたし、よく知っている場所だから、心配しないで。……今は体を休めないと」


  ♢♦♢

 

 宿と言われなければ素通りしてしまいそうな、ふつうの民家の前でフィルが竜を停める。すでに明かりも落ち、夜にまぎれるように暗かった。だが、なかには複数のヒトの気配があって、なるほど宿屋なのかもしれない。


 ヒトの気配、と自分で思ってから、リアナは慄然りつぜんとした。古竜の力に慣れすぎていて、あたり一帯の生体反応がわかることに違和感がなかったが、レーデルルがいない自分がそんなものを把握できるはずがない。

 脈動と、温かい血の匂い。いまの自分にはそれがわかる。いつのまにか、寒さと暗闇を我が家のように居心地よく感じるようになっている。


 ぶつけた腰を痛めないよう、フィルが彼女を抱きおろした。

「おれの肩に掴まって。……中へ入りましょう。あまりいい宿ではありませんが、びっくりしないで」

 

 中はたしかに、あらゆる意味で昨晩の宿とは違っていた。入ってすぐの玄関に粗末な寝台が並べてあり、フィルがそのなかの一人を揺り起こした。なにをするのかと思ったら、それが宿の主人らしい。短い言葉でやりとりをすると、すぐに戻ってきた。主人は部屋に案内するでもなく、またすぐに寝台にもぐりこんでしまった。


 古い木の階段がぎしぎしときしむ。二人はあたりを見まわしながら二階に上がった。

「相部屋なので、開けて右側を使います」とフィルが言った。「足もとに気をつけて。こっちです」


 手を引かれて、部屋を横切った。農閑期にだけ宿屋になるような場所では珍しくないのだろうが、思ったより狭い部屋だ。天井が低く、中央を薄い木の衝立で隔ててある。衝立を越えた隣からはすーすーと規則的な寝息が聞こえてきていた。


 石のように固い寝台がひとつだけ。フィルはそこに、鞍袋から出した綿の敷物を引いて就寝の準備をする。


 リアナはついさっきの出来事にまだショックを受けていた。見習いとはいえ、かつては竜の飼育人だった自分が、あんなにも竜をおびえさせるなんて。のろのろと自分もベルトや術具のひもをゆるめて眠る態勢を作ろうとしていると、外套のポケットから砂糖漬けの袋が出てきた。一粒手に取って、ぼう然とただ眺めていた。きれいな彩りに心が落ちつくかと思ったのに、気づいたら手の甲に涙がぽとんと落ちていた。


「わたしは何になってしまったの?」


 長い指が伸びてきて、目のふちの涙をぬぐった。顔をあげると彼が赤い実をつまみ、彼女の口にそっと押しこんだ。甘さも味も、単に舌への刺激としか感じないのだが、あまりに真剣な彼の様子に気圧けおされて、口の中のそれを噛んだ。


「おれの血を飲んで」唇に指を触れさせたまま、フィルが言った。「お願いです」



 リアナはついにうなずいた。



 フィルは剣帯を外して身軽になると、そのまま靴は脱がず、硬い寝台に片寄って座った。剣を枕もとへ置き、ナイフを取りだした。


 シャツの袖をまくりあげ、左の前腕をナイフで軽く傷つける。筋肉質な腕に、染みだす程度に軽く血がにじんだ。盛りあがった小さな赤い粒を見て、リアナは思わず喉を鳴らした。料理された、死んだ肉とはまるで違う、温かい血と肉の匂い。目が吸い寄せられ、そらすことができない。唾液を飲みこみ、誘われるように顔を近づけ、血の粒をそっと舐めとった。


 意識があったのはそこまでだった。


 

 意識が戻ったときには、フィルの腕のなかにいた。空気中には、まだ血の匂いが濃厚に漂っている。自分はなにか不明瞭なことを呟いたようだった。満腹で暖かく、動物的な幸福感に満たされていた。決然としたフィルの言葉は、ほとんど聞こえていなかった。


「あなたを異形の者にはしない……リア、おれを信じて」

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