庭の中で

 

 屋敷の喧噪に、カトレアは気付いていなかった。

 ほんの少しだけ、そっとしておいて、だけど気にかけてほしいという難しい心情から始まったそれは、屋敷中を巻き込む騒動になりかけていたが、本人は知らずに隠密行動を継続中である。

 自分が思っている以上に、家族や使用人達から愛されている事に、悩めるカトレアはまだ気付けないのだった。


 ベッド下には平気で隠れるが、カトレアはレユシット家のご令嬢である。窓を跨いで庭に出るなど、行儀の良くない行為は躊躇われた。

 そのためカトレアは一度廊下へ出て、わざわざ遠回りをして、歌声が誘う庭へと向かった。人に見付からないように、こっそりと。


 庭から先は、どこへ行けば良いか分からないのに、カトレアが進む方向が正解だというように、歌声は段々と近くなった。

 綺麗に整えられた庭の土を踏みしめる度、体がメロディに乗ってくる。歌に身を任せて、カトレアも一緒に口ずさむ。

 生まれた時から、リナリアの歌はそばにあった。だから歌詞はすっかり覚えていた。


 どこかから響く歌声へ、最初は小さく声を乗せていたが、歌のもとへどんどん近づいていくと、カトレアも声量を上げていった。二つの声が完全に重なるようになると、どちらが歌っているのか分からなくなる。


 そしていつのまにか、歌っていたのはカトレアだけになっていた。


 道標が消えてしまったみたいに、急にどこへも行けなくなって、カトレアは生垣の中で足を止めてしまう。

 暫くは、一人で歌っているつもりは無かった。ここへ連れてきた不思議な歌声が既に止んでいたと理解出来たのは、無防備な背後から、声をかけられた時だった。


「アザレア?」



 ※



 庭の中ほどまで歩くと、サイネリアの言う知らない歌声が、グラジオラスにも認識出来るようになった。


「ああ、確かに聴こえるな。サイネの言う通り、リナリアの声では無いようだ……それに」


 それに、どこか幼い……。そう続けようとして、グラジオラスは胸の奥をつく何かを感じて、言いよどんだ。

 それに……それに。

 幼いという以外に、何か。

 心の一番深い所を刺激する、それが何なのか、速まる鼓動は教えてはくれなかった。


 サイネリアは、「さっきと、声がちょっと違う……」と、難しい顔をしている。それに対する祖父の返事は無い。珍しく孫の声を聴き逃すほど、グラジオラスの意識は遠くを見ていた。


 生垣で丸く囲われた庭の一角に、彼女は居た。

 同時に見付けたサイネリアが、「カト……」と、妹の名前を言いかけたが、別の名前がそれを遮る。


「……アザレア?」


 祖父の口から漏れた言葉に対して、サイネリアは不思議そうに「カトレアですよ?」と訂正したが、グラジオラスの耳には入っておらず、彼はじっとカトレアを見つめたままだった。


「おじいさま、僕おります。おろして下さいませんか」


 何も言わない祖父に痺れを切らして、サイネリアが腕をぽすぽすと叩いて主張する。


「あ、ああ……分かった」グラジオラスはぼんやりとしながらも、慎重に孫を地におろす。

 自由になったサイネリアは、妹のもとへ駆けると、母親似の美しい顔でにこりと笑いかけた。


「カトレア、こんなところにいたの? 皆が寂しがって探しているよ。一緒にもどろう?」


 祖父と兄が姿を見せた時に、カトレアは歌う事を止めていた。彼女は驚いて見開いていた目を、キリリと細めて、いつもの固い態度に戻る。


「……サイネってば、まだ抱っこされて歩いているの? もうそろそろ、抱っこはやめないと、恥ずかしいのよ」


 つん、とそっぽを向くカトレアに全くめげずに、サイネリアはにこにこと会話を続ける。


「歌が聴こえてここまで来たんだよ。カトレア、歌上手だね」


 それは心からの賞賛だったが、カトレアは一気に顔を真っ赤にして、かっと怒鳴った。


「上手じゃない!」


 サイネリアは驚いて、一瞬黙ってしまったが、カトレアが顔を歪めて泣きそうにしていたので、彼女が落ち着くように、優しく語りかけた。


「どうして?」


「どうして、って、だって、上手じゃないのに、嘘を言われても、嬉しくないもの」


「カトレアは、僕が嘘を吐いたと思ったの?」


 暗に兄を嘘つき呼ばわりしたと言われて、カトレアは後悔の色を見せる。

 少しだけ意地悪な聞き方だったかもしれない、と、サイネリアは悲しそうな顔の裏で思った。


「で、でも、違うもの。わたし、お母さんみたいに、美人じゃないのよ、だから」


 脈絡の無いような説明に、サイネリアは首を傾げそうになったが、辛抱強く先を促すと、カトレアは兄を責めてしまった言い訳をするように、訥々と言葉を繋げた。


「わ、わたし、お母さんにちっとも似てないの。サイネみたいに綺麗じゃなくて、歌だって、お母さんみたいに綺麗に歌えないし、上手じゃないし、何にも同じところが無いの。だからわたしだけ、よその子だって言われて……」


 隠していた事を、最後にうっかり溢してしまい、カトレアは慌てて口を噤む。だが閉じた口の代わりに高ぶった感情は、涙をひとつ、こぼしてしまった。手の甲で強引に目元を拭い、また俯いて視線を逸らす。


「……カトレア、よその子だって、誰かに言われたの?」


 サイネリアは、最近妹を苦しめている何かは、今カトレアが言いかけた事なのだと察した。

 兄の問いかけに答えず、口を固く閉ざすカトレア。

「カトレア、」妹の手をとって、穏やかに問いかける。話してごらん、と心を解すように。

 お互いが目を合わせるまで、ずっと待ち続ける兄に、カトレアは根負けして、おずおずと視線を上げた。



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