高嶺の花・オーキッド③
「キッド兄様!!」
よく通る女性の声に、花壇に目を向けていたオーキッドは振り返った。
彼は部屋に篭らず、レユシット家の広大な庭にいた。オーキッドは昔から、庭を好んでいる。壁の厚い自室にいると落ち着かないからだ。二度と出られないような重みがあって、牢獄か、ペットの檻のように思えるのだ。だから、今でもオーキッドは庭にいることが多い。
美しく手入れされた花の庭を、声の主が歩いている。オーキッドは静かに彼女を待った。
オーキッドの真横まで来ると、ビオラが立ち止まる。彼女はオーキッドを見上げ、口を開いた。何を言われるかは想像出来る。予想に違わず、彼女はもう何度目かになる言葉を告げた。
「考えなおしてください!!」
ここ数日、ビオラはこればかりである。
「流石に……明日出るから無理かなあ」
柔らかく笑って、オーキッドは否を示す。
商人になって、しばらく家を出るつもりだと告げてから、ビオラは毎日のようにオーキッドを説得しているが、彼は頑なだった。
目を細めて、ビオラを見る。
彼女は眉を下げて、唇を戦慄かせている。この世の終わりを見たような顔である。
「キッド兄様……迷惑を掛けて、ごめんなさい……」
ビオラは急に沈んで、目を伏せた。
「ん?」
「ああ言ってくださいましたけど、もし、私に諦めさせるためではなく、キッド兄様が、本当に心の底から、愛する人が出来たなら……その人が、私よりも、キッド兄様を想っているのなら……」
みるみる内に、ビオラの目に涙が溜まっていく。
語尾は震えていた。
「キッド兄様のこと、諦めます」
無理やり、へにゃりと笑って、ビオラは言った。正直、笑えていなかった。涙は零れてしまって、オーキッドがハンカチで拭ってやる。
日を置いて、ビオラも気持ちを整理したのだろう。
ビオラの言うような形には、恐らくならない。何故ならオーキッドは既に、心の底から愛してしまっているからだ。
抱きしめて欲しいと泣いた少女を、抱きしめたいと思った彼は、もう自分の心まで偽ろうとするのはやめた。
散散、ビオラには諦めるように仕向けておいて、オーキッドは彼女への想いを捨てられる気がしなかった。
それでも、ビオラより、自分の方が好きだという思いがあった。心変わりするなら、彼女の方だ。オーキッドは家を出て、心の折り合いをつける。そして、ビオラの気持ちが消えるのを、気長に待つのだ。そうしなければ、身近にいて、あんなに真っ直ぐな好意を向けられては、消せるものも消せはしない。
「でも、時々でも、絶対に帰ってきて……このままいなくならないでくださいね……」
最後、ビオラに涙声で告げられて、オーキッドは旅立った。
微笑むだけで、返事はしなかった。
時間が過ぎて、何もかもが終わって、諦めがつくまで。
ビオラとは会いたくない。
ビオラに好かれている事は、分かっている。
オーキッドも、ビオラを好いている。
――レユシットの家名は、俺には重過ぎる。
オーキッドは、心の深いところでは、自分を好きになれない。レユシット家にとって自分は異物だと思っている。
レユシット家に異物を混ぜるわけにはいかない。
当主に会った時のこと、辞めていった使用人の言葉、幼い頃の薄汚れた体……色んな物が、オーキッドを責めた。
――俺が、ビオラじゃ駄目なんだ。
刷り込まれてきた、自分自身への評価が、オーキッドを雁字搦めにしている。
そうだよ、俺が、駄目なんだ。俺はビオラに相応しくない。
分かっている。ちゃんと。
もう何からも責められたくないんだ。
身の程を弁えて、レユシット家から、彼女から遠ざかるから。
もう、俺の感情を、暴こうとしないでくれ。
オーキッドは、恋を隠したかった。
抱きしめてしまえば、もう隠せないと思ったのだ。
それから、極力家には帰らず、仕事をして過ごした。そして、神様の恩恵を受ける街で、リナリアと出会う。グラジオラスとよく似た顔立ちの彼女を、兄と引き合わせた。
その時、リナリアは十六歳、ビオラは二十五歳だった。
まさかビオラが、十年間ずっと結婚せず、婚約はおろか、恋人すら作らなかった事は、誤算でしかない。
リナリアが、カーネリアンと結婚して、レユシット邸で暮らすようになると、オーキッドも家に帰る頻度を増やした。娘の側にいて、幸せそうに過ごす兄の顔を、見ていたかったからだ。
グラジオラスが幸せである事は、オーキッドの心に安寧をもたらした。避け続けた実家に入り浸るようになる程には、オーキッドも彼らのおかげで、変われていたのかもしれない。
ビオラも、何か吹っ切れたように、オーキッドを口説くようになった。
「ねえ、キッド兄様? そろそろ家に戻ってもよろしいのではなくて? 私が結婚するまで待つなんて、無謀よ。私が他の誰かを、異性として愛する事はないわ」
十年一途に想われれば、オーキッドも考える。自分の不用意な発言が、彼女を不幸にしてしまったのではないかと。
オーキッドの思いを見透かすように、ビオラは続けた。
「私は、不幸にはならないわ。側で見ていればよろしいのよ、そうすれば、私の言った事が正しかったと、分かるはずよ。ご存じない? ロマンス小説ではありきたりなのよ。結ばれなくても、側にいてくだされば、幸せなの」
最後の言葉は、きっと、強がりだ。オーキッドはそう直感した。側にいれば、それだけでいいなんて、オーキッドには思えない。一緒にいれば、欲しくなる。抱きしめたくなる。
「レユシット家の令嬢なら、結婚相手も引く手数多だろう?」
苦し紛れに言い返すが、現実的ではない。年齢的に見れば、もう嫁ぎ遅れと言える。それでもビオラは涼しい顔だ。それが何か? という声が、聞こえてきそうである。だが、ビオラは今も美しく、家柄を考えれば、結婚しようと思えば、いつでも出来るだろう。本人に、その気があれば、の話だが。
オーキッドはもう、屈服寸前だった。
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