63 グラジオラスの夢

 

 歌が聞こえる。

 グラジオラスは温室のような部屋の側で、美しい音色に聞き入っていた。

 部屋からは見えない位置の廊下の、壁に背を預ける。知らず、深い息を吐いた。


(上手くいったか)


 歌声は何処までも、愛しさと歓喜に満ちていた。聞く者全てに、祝福を与えるような、幸せな歌だった。

 二年ぶりだというのに、リナリアの歌声はよく通る。感心しながらも、グラジオラスはあることを思った。


(リナリアの歌が聞けて、一番喜んでいるのは、神様ではないか?)


 それはあながち、間違いではないような気がした。







 その夜、グラジオラスは夢を見た。


 気付くと、白い廊下に立っている。どうやら、病院にいるようだ。だが、王都の病院ではない。全体的に小さく、狭いのだ。

 見た事もない病院で、廊下は薄暗い。奥に、一つだけ明かりがついている病室があった。

 グラジオラスはその病室の前まで歩み寄る。

 扉に手をかける。グラジオラスはこの時、まだ現実との区別がついていない。扉を開けてもいいものかと、逡巡し、控えめにノックして、そっと引いた。


 白い病室に、一人の女性がひっそりと横たわっている。

 遠目からだと、誰か分からない。吸い寄せられるように、側へ寄った。

 顔を覗き込む。女性は眠っている。

 息はしているが、顔は青白い。体が弱っていることは、見て明らかだ。

 その女性は、過去の人の面影があった。


「アザレア……」


 記憶にある姿よりも、歳を取っている。

 だが、確かに本人であると確信した。


 白い腕に触れ、持ち上げる。細い。随分痩せていた。

 そのまま、手首まで指を滑らせ、掌を重ねる。そして、両手で優しく握りこんだ。


 しばらくそのまま、寝顔を眺めた。手を握り、屈んだままの体勢だったので、寝台に浅く腰掛ける。

 片手は握ったまま、もう一方の手で、眠るアザレアの髪を撫でた。

 するとアザレアの瞼が震え、持ち上げられた。

 目を覚ましたアザレアが、ぼんやりと、グラジオラスを見つめる。

 グラジオラスは、穏やかな表情をしている。

 目の前に愛しい人がいて、思った事が自然と口から出ていた。


「会いたかった。アザレア」


 アザレアは眩しそうに目を細める。やがてその目尻から、涙が溢れた。

 それを指ですくってやりながら、微笑みかけると、アザレアは酷く幸福そうな吐息を漏らす。


 グラジオラスは幸福感に浸った。


 アザレアが、幸せそうに笑う。

 この時から、薄々グラジオラスは感じていた。


(これは、夢だ……)


 そう思ったとき、アザレアが弱弱しい声で言った。


「ジオ。ジオ……私はもうすぐ死んでしまいます……。でも最期に、貴方に会えた……夢でも、幸せです……」


 死んでしまう。

 アザレアのその言葉に、記憶が蘇った。


 そうだ、アザレアは死んだ。

 ここに居るはずの無い人だ。

 違う。アザレアは今、存在している。

 ここは、いつだ?


 アザレアと出会ってから、別れ、娘と会い、アザレアの死を知るまでの記憶が、頭の中を過ぎていく。


 ――自分もアザレアに伝えられたら。


 いつか考えたことを思い出し、唐突に理解する。


(私は今、アザレアの今際の際に、どういうわけだか立ち会えているのだ)


 儚げなアザレアは、グラジオラスから目を逸らさない。

 グラジオラスも、アザレアを見つめ続けた。


「アザレア、私は出会った時から、君を愛している」


 アザレアは目を丸くして、無邪気に笑う。


「幸せな夢だわ……そんなことまで言ってくれるのね」


 小さな呟きだった。グラジオラスに言ったというより、独り言に近い。


「夢じゃない」


 咄嗟に、言い返していた。


「夢じゃないんだ、アザレア。夢で終わらせないでくれ……私の思いを、せめて持っていってくれ。愛しているんだ」


 力の入らないアザレアの背に手を差し入れ、体を寄せる。グラジオラスは抱き合うようにして、懇願した。


「君の愛が欲しかった」


 アザレアの肩に、頬を寄せる。グラジオラスの髪が、アザレアの首筋をさらりと撫でた。


「君は、私の事を、どう思っていたんだ……私はずっと、君が好きで、好きになってもらいたくて、苦しかった」


 弱弱しい手つきで、痩せた手が、亜麻色の髪を梳く。

 アザレアは静かに、グラジオラスの髪に触れながら、彼の言葉に耳を傾けた。


「君の中に、私が居ないのが、辛い、けれど。リナリアに会った。私そっくりの娘だ。君は、彼女の事は愛していた。なら、私のことは」


 声が詰まった。アザレアの手が、優しくグラジオラスを包み込む。グラジオラスは目頭を熱くさせながら、唇を震わせた。


「アザレア……」


 白い指が、グラジオラスの頬に触れる。

 先ほどグラジオラスが、眠る彼女にしたように、目のふちをすくう。

 その仕草で、グラジオラスの双眸から涙が流れた。


「アザレア、アザレア……! 死なないでくれ、お願いだ……私の事を、愛していなくてもいい、それでもいいから、側にいてくれ……! 生涯、大切にするから……!」


 薄い体にすがりつき、グラジオラスは泣いた。変えられない過去を変えようと、必死に言い募る。


「アザレア……!」


 夢なら覚めないで欲しいと、グラジオラスは切に願う。

 その耳に、微かな旋律が届いた。

 アザレアが口ずさんでいる。

 涙で濡れた瞳で見上げると、アザレアが頬を染めて、グラジオラスを見つめていた。

 見つめながら、グラジオラスのために作った歌を、歌っている。

 その眼差しは、声は、グラジオラスが愛しいと、そう伝えていた。

 歌い終えると、頬を上気させたアザレアは、吐露する。


「ジオ……貴方を好きになってからの事、全部、教えてあげたいけれど……きっと時間が足りなくなります、だって、初めて会ったときからの話ですから……」


 アザレアの声には、抑えきれない喜びが滲んでいた。


「最初から、貴方は優しかった、再会してからも。どうしようもないくらい、好きでした。平気な振りをしていたけれど、父に殴られるのも、体を売るのも嫌だった。貴方を一目見た時から、貴方のことしか考えられなかった。貴方にだけ触れて欲しかった。……探し出してくれた時は、もう死んでもいいと思いました、でも」


 グラジオラスは、初めて聞くアザレアの気持ちを聞き逃すまいと、黙って聞く。

 言いよどむアザレアは、言葉をさがしながら話しているようだ。


「……私には分かったんです。神様に愛される子を宿したのだと。私は、神様とかは関係なく、貴方の子供を持てる事が嬉しかった。誰にも、取られたくなかった。知られたら、産むなと言われるか、産んでも取り上げられると思いました。貴方ではなくて、きっと、周りが……貴方を想い続けることは、不毛だと思いました。私は、私だけの、リナリアが欲しかった……」




 アザレアは、幼い頃から、諦める癖がついていた。

 愛情も、優しさも、長続きしないものだと思い、最初から期待しないようにすることで、自分の心を守っていたのだ。


 アザレアの母は、父を捨てた。優しかった父は、変わってしまい、アザレアに暴力をふるうようになる。

 見下して、嘲る貴族達。バントアンバーの娘に、親切にしてくれる人はいなかった。

 グラジオラスが初めてだった。

 友人どころか、同年代の知り合いさえ一人もいないアザレアの世界には、グラジオラスしかいない。

 容姿はもちろん、惹かれる要因ではあった。だが、グラジオラスの態度に、偽善や、低俗な哀れみが少しでも感じられたなら、アザレアは心を傾けはしない。

 名門貴族の子息なのに、子供らしく手を引いてくれた。アザレアの格好を見ても、顔をしかめない。強引な言動とは裏腹に、行動は優しい。

 再会したグラジオラスは、変わっていなかった。

 ひどいことは、一つもされなかった。


 彼女には、彼女の愛の形があった。

 自分が愛したからといって、愛してもらえるわけではないと、よく分かっていた。

 グラジオラスを愛した時点で、アザレアは、愛される事を諦めたのだ。

 今までずっと、そうしてきたように。


 グラジオラスに抱かれた何度目か、天啓があった。

 アザレアに、神様の加護は無い。

 それは、未来の娘に対する声だった。


 それからは、グラジオラスに言ったとおりだ。

 アザレアは、愛情を向けるべき相手が欲しかった。

 まっさらな赤子にとっては、母親が全てだ。誰かの特別になれる。そしてその子供は、誰よりも愛しい人の子供。

 愛を与えれば、愛を返してくれる存在を、独り占めしたいと思った。

 それが、リナリア。


 リナリアを産むことは、神様によって決められていたのかもしれない。


 リナリアの事が愛しくて、手放せない。

 独りよがりだと分かっていても、娘と暮らした日々は、アザレアにとって幸福だった。



「……ジオ。リナリアに会って、どう思いました?」


 濡れた瞳で、互いを見やる。

 グラジオラスは、アザレアを再び横たえ、そっと腕を抜いた。そして、開いた両手でアザレアの頬を覆った。

 アザレアは、あやしてもらった赤子のように、瞼を下ろしていく。

 完全に目を閉じると、まどろみそうになる。

 グラジオラスは焦った。アザレアの意識が途絶えてしまう前にと、言葉を返す。


「一緒にいたいと、思った」


「そう……」


「もう一緒に暮らしている。君は、嫌がるかもしれないが、貴族の家でも、彼女は受け入れられている。私は、リナリアの事が、大切だ……」


「よかった……リナリアの事、お願いしようかと思ったんです……図々しいけれど……」


 歌った後は明朗に話していたアザレアが、今はか細い声で返す。

 今にも眠ってしまいそうだ。


「アザレア、まだ眠らないでくれ。なあ、私は何故ここにいるんだ? 君を助けるためではないのか? 君は、戻ってこないのか?」


 死者が生き返る事は無い。恩恵も加護もそんな力は無い。

 頭で分かっていても、グラジオラスは言わずには居られなかった。

 アザレアが薄く目を開けて、自分の頬を包む手の上に、自らの手を重ねる。


「貴方も、分かっているのでしょう? これは夢です、現実を変えることは出来ません」


 これは夢だ。

 現実ではないことは確かだが、ただの夢でもないと、グラジオラスは思っていた。


「もうすぐ死んでしまうから、神様がくれた祝福かしら……」


 アザレアの言葉に、グラジオラスはふと思い当たる事があった。

 祝福を受けたのは、きっと、グラジオラスの方だ。


 神様に愛された歌は、聞く者に祝福を与えたのだと、そうでなければ、こんな状況はありえないと、グラジオラスは考える。

 リナリアの神様は、周囲に幸福を振りまくほど、彼女が歌った事が嬉しかったのだろう、と。


 これはグラジオラスの夢。

 そして、死ぬ前にアザレアが見た夢。


「グラジオラス。ジオ。貴方が天寿を全うするのを、神様の国で、待っていてもいいですか」


 アザレアが、遺言じみた事を言う。

 いや、実際、そうなのだろう。


「貴方にまた会えるのを、待っていてもいいですか……」


 嗚咽混じりに、願いを口にする。

 グラジオラスはよほど、言ってしまいたかった。

 ――私も一緒に行く。この場で喉を切り裂いて、今すぐにでも、君の側に行く。

 心中してでも、アザレアと離れたくない。


「ああ……待っていてくれ。必ず、会いに行く」


 しかし口から出た言葉は、考えていた事では無かった。


「アザレアの分まで、見てから行く。リナリアの花嫁姿も、孫の成長も、もしかしたらその先も。リナリアのことが、気がかりだろう? ちゃんと、見守ってから、行くから……」


 グラジオラスには、未練がある。

 神様の国には、まだ行けない。


 アザレアにとって、グラジオラスの答えは、満足のいくものだったようだ。


「待っています」


 幼い少女のように、あどけない笑顔を浮かべたアザレアは、くい、とグラジオラスの襟の辺りを引っ張った。

 顔を引き寄せる。

 アザレアは目を閉じて、愛しい人と唇を重ねた。







 その瞬間、夢は覚める。


 白い部屋は、夜明けごろの薄明るい寝室に変わり、見下ろしていた体は、天井を向いている。


 グラジオラスは、堪らなくなって、呻き声を上げた。

 目に腕を押し当て、震える。

 袖に染みが広がっていく。


 彼の嗚咽を聞く人は、彼自身しかいなかった。





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