29 魔女
『今はもう誰も知らぬのです、あの子のことは――。神の声を聞く、ただ一人の子だったのに。あの日――』
声がきしんだ。憤りがほとばしった。
『あの日、マザーヒルズから派遣された兵に。
「……」
『……そして同じ日に、私も火に巻かれました。ただ、私は即死ではなかった。しばらく生きていて――みなが死んでいくのを、見ていました』
ラナーニャはただ、空にたゆたう透明な女を見つめる。
女の姿が、涙の塊に見えた。
――でも。女の声が暗く笑う。
『神は私をお見捨てにはならなかった。私に、力をくださった。私はこの地を守ることにした。いつか、マリアの生まれ変わりが現れるまで――』
「それが、私だと?」
ラナーニャは唇をなめた。ちっとも湿らない。
『ええ。先ほどの神の姿を見たならば、明らかなことです』
女は
自分が当事者でなかったら、ラナーニャも納得してしまったかもしれない。だが――
その言葉を向けられているのはあくまでラナーニャで、そしてラナーニャには、そんな自覚など欠片もないのだ。
「か、神の姿というのなら……先ほどの神は、カミルとオルヴァさんを助けてくれた。神は人を殺すことなど望んでいないのではないのか? だから――」
『そんなことはありません』
女は断言した。『昔、私に教えてくれた者がいました。神は忌まわしい者どもを滅することを望んでいると。そして神も、決して私を止めはしなかった。こたびのことは――あなたがいるからかもしれませんね』
「――」
私がいるから、カミルとオルヴァさんは助かった?
神がそんな配慮をしたと?
混乱するラナーニャの背後で、ぼそりとユードがつぶやく。
「……神にはお前が必要だ。お前のためなら、多少のことはしようさ」
「……」
『さあ、娘よ』
おいでなさい――大きな手がラナーニャへと向けられる。
『私の夢の中へ……。そこでゆっくりと、あなたが目覚めるのを待ちましょう。きっと神がお助けくださいます。さあ』
「――」
ラナーニャは両足を踏みしめた。
……この女性に、何かを感じる。無視は決してできない強い衝動。理由は分からない。拒絶してはいけないと、訴える自分もいる。
それでも。
何と言われようと、浮かぶ答えはひとつきりだった。だから、迷わなかった。空に浮かぶ女をまっすぐに見つめ、強く。
「行かない。私は、“こちら側”の人間でいたいんだ」
『何故なのです! 娘よ!』
女の甲高い声が空を裂く。
同時、背後から詠唱が聞こえた。シグリィとセレン、二人分の。
「業火を縒りて唸れ炎の刃!」
「躍れ
剣の形にも似た炎の矢がラナーニャの頭上を通り過ぎ、女の像を貫いた。
直後に炎が波のように広がり、輪郭を揺るがせた女の姿を焼き払う。
ラナーニャは頭を抱えてしゃがみこんだ。熱気と火の粉が降ってくる。女の金切り声が降ってくる。
『火! 火ぃ……!!!』
けれどそれは致命打とはならない。揺らぎ、四散しかけた女は、再び空で像を結ぶ。
『おのれ愚か者どもめ! あくまで私の邪魔をするか!』
「でしょ? シグリィ様。あそこにはあの女の核はないんですよぅ」
「そうらしい」
呑気な会話が聞こえる。ラナーニャは立ち上がり、彼らの方を見る。
「どうしましょうか?」
「うん。まあ、戦い方はひとつだけ決めてある」
動こうとするセレンを手で制し、シグリィはゆっくりとこちらに向かって、踏み出した。
「――あそこに行くのは、私一人でいい」
でもシグリィ様、と言いかけたセレンが何を思ったのか口をつぐむ。
「セレン、転移術でカミルと一緒にアルメイアに戻れ。オルヴァさんの手当を。それから全ての報告をバルナバーシュさんに」
「はい。シグリィ様は?」
「私は全て終わってから帰る。ラナと二人で」
できるだけすぐ終わらせる――と、彼の声はどこか冗談のように。
空の女の気配が、憎悪にざわめいた。離れたところでクルッカを囲む木々が不穏な音を立てる。鳥はいない。とうの昔に逃げてしまったのだろうか。
シグリィはただ歩いてくる。
「――っ、来るな!」
ユードがその前に立ちふさがろうとする。しかしシグリィは歩みを止めず、ふっと片手を持ち上げた。
そのまま、指先をユードの額に向ける。
「あなたにも話は山ほどあるが、今は邪魔なんです。眠ってください」
シグリィの指先が青く発光する。次いでユードの頭を、細く輝く青い光がとりまいた。朱雀の術の気配はない。たぶん彼の持つ他の力――
「――」
糸が切れたようにユードが倒れようとする。その体を受け止め、シグリィは肩越しに後ろを見る。
視線を受けてセレンが走ってくると、ユードの体を受け取り、転移術を発動させようとしている場所へと戻っていく。
「ラナ。君もここから離れた方がいい」
「私はセレンたちとは――」
「いや」
「君は成り行きを見ていた方がいい。……何も見ずにはいられないだろう?」
ラナーニャはうなずき、シグリィの横を通り過ぎてクルッカを離れる。できるだけ遠くへ。
背後から女の、いつも通りの金切り声が追いかけてくる。
『なぜです! 娘よ、どうして……! 我らの大義が理解できないのですか!』
(――理解、できないわけじゃない)
彼らの言い分。地租四神と英雄神の立場の違い。
知ったばかりの、四神の
(英雄四神が地租四神の力を奪った。それが事実なら)
女たちのやろうとしていることが、まったくの筋違いだと思っているわけじゃない。否定できない。
同時に自分が英雄四神を心から敬愛しているのかと言われると、即答できなかった。何しろ――自分には《印》がない。
神に見捨てられた子と、呼ばれてきた。
神よ何故、と問うたことなら何度もあった。
何より――自分は父の魂を、イリス神の
でも。
だからといって地租四神につくのかと言われると、うなずけない。
(今の私はどちらにもつけない。つく資格がない)
そんな私が今、自分の行動を決めるためにたったひとつ、よすがにできるものがあるとすれば、それは――。
『娘よ、マリアの生まれ変わりよ、戻りなさい……!』
ヒステリックな女の叫び声を、静かなシグリィの声が遮った。
「彼女の名前は『娘』じゃない」
『……何ですって?』
「あなたはただの一度も彼女の名を知ろうとしない。ただ妹の生まれ変わりだと、そればかりを語る」
ラナーニャは途中から後ずさるようにじりじり位置を変えていた。戦いの場となろうとしているクルッカ跡地からできるだけ遠く。
離れるにつれて、シグリィの声がだんだん聞き取れなくなっていく。
最後に聞こえたのは、まさにラナーニャも抱いていた思いそのものだった。
「あなたが求めているのはマリアであって、
『それがどうしたというのです』
……女は少し落ち着きを取り戻したようだ。
シグリィは少し意外に思った。動揺させるつもりだったのだが――逆に彼女の信念に触れたらしい。
『我が妹はまぎれもなく生き神でした。あの子の起こした奇跡は数知れません――。あの子こそが神の申し子だった。奪われてはならない子だった』
ラナーニャは十分遠くまで避難した。女の金切り声はともかく、大半の声はもう聞こえまい。
シグリィの足は、クルッカの森であった範囲に踏み込んだ。
とたん周囲の景色が変わった。
人がいた。数人の子どもに囲まれた若い女が。
腕から血を流す子どもの手を、女がそっと握る。怪我はみるみる治り、子どもたちが歓喜しているのが分かる。
奇跡はこんなものでは終わらなかった――。森の幻影と重なるように空に広がったままの女が、懐かしそうな声で囁いた。
『怪我も病も治し、天候を読み、予言もした。あの子は村のための何でもできた。四神本来の力を持つまさしく生き神』
そんな人物がたしかにいたのなら――
生き神とも呼ばれよう。しかし疑問も残る。
「そんな人物がいたのなら、なぜ『あの日』の災厄から逃れられなかったんだ?」
『――』
女の顔が憤りで赤く染まる。半透明なのにそういった血の気は見えるのが不思議だ。
『……それこそが我が妹の哀れな失態。あの子は……ひとりの男に心を奪われ、力を乱してしまった』
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