7 死の大地へ
「まあ、あの条件を遠慮なく提示したバルナバーシュの大将にも感服だがな」
オルヴァは足を組み直して肩をすくめた。
「どっちかっつーと、俺はお前さんらの方が驚きだ。どうしてガナシュのためにあんな条件を呑んだ? ガナシュに恩でもあるのか」
シグリィは何でもないことのように、少し笑って答える。
「まあ、ご縁のようなものです。我々にとっては特別おかしなことではない」
「その感覚には心底驚きだよ。……もっとも」
前もそうだったな、と彼は愉快そうに唇の端を上げる。
「グィネの関所でもお前さんらは淡々と『掃除』をして、淡々と通行手続きをしてさっさと消えちまいやがったっけな。こちとら本国に報告して歓待パーティでもして、あわよくばしばらく逗留してもらおうかと思ってたんだが」
「それは申し訳ない。一応あの時は我々も急いでいたもので」
オルヴァの視線に一瞬宿った真剣な光を、シグリィは軽く受け流した。
少年のその態度が、兵士にどう映ったかはラナーニャには分からない。ただオルヴァは苦笑気味にひとつ息をつくだけに留め――やがて、改めて口を開いた。
「バルナバーシュの大将はああ見えて策士だ。お前さんら、徹底的に利用されるぞ」
「覚悟はしているつもりです。ですから、情報を知りたい」
「――いいだろう。今回の件には俺も関係がある」
そう言って、オルヴァは服から折りたたまれた紙を取り出した。
シグリィたちの前に広げる。覗き込むと、それは古ぼけた地図だった。どうやら大陸南部のみを把握するための地図で、ラナーニャも近頃は同じようなものを何度もシグリィに見せてもらっている。
だが――
(……細部が違う。昔の地図……?)
「これは二百年前の地図だ。アルメイアはまだ町として存在していない。この、北東部に――」
オルヴァの指が地図上の、現在ならアルメイアがある辺りを指し、そこから北東へと移動した。
その部分は地図上では森林が描かれているだけで、町や村はおろか地名さえ書かれていない。そこを指先がトントンと叩く。
「この森は、少なくともこの地図を作られた時代には間違いなく存在していた。そして」
オルヴァの声は淡々と話を続ける。
「知っての通り今はない。ある年を境に森は消えた。今は完全に荒地――新たに植物が芽吹くこともないまま。豊穣を自負するマザーヒルズで唯一と言っていい、『死の大地』だ」
――『死の大地』と最初に呼んだのは……
一人の学者だった。マザーヒルズの人間ではない、外から来た男だ。“かつて森があった場所”にその足で立ったその男が、不意に呟いた言葉。
“生命のない場所”。
……それが、わずか十五年ほど前のこと。
森が消えてからすでに二百年近く経っていたというのに、国の人々はいまだにそこを“森”と呼び続けていたのだ。何しろその森はこの国にある数多の森林のひとつでしかなく――元々人々が気安く立ち入るような土地でもなく、土地が枯れたことを知ってはいても、実際に目にした者はほとんどいなかったのだから。
かろうじて現状を知っていたのは一握りの商人や傭兵、そして国からの調査兵だけ。
様変わりしてしまったその土地の呼称を、記録を更新する立場にいたはずの彼らは、しかし奇妙なことに頑なに“森”と呼び続けた。
そして彼らがそうである以上、直接見たわけでもない国民たちがその土地への記憶を更新するわけもなく。
そんな停滞の状況が覆されたのはたった十五年前。
外国の男が呟いたささいな言葉は、またたくまに周辺住人から国全体へと広まった。一年後、当たり前のようにその呼称が国中の文献で使われているのを見たとある歴史家は「人々の潜在意識にあった“何か”を、あの男は的確に抉り出した」と記録している。
――ある種滑稽で、そして不気味でもあったこの現象に紛れ、その陰に落ちている小さな謎に気づく者はほんのわずかだった。
すなわち――
「あの時に訪れた学者の素性がはっきりしない。名はアインスタ・シェトル、国籍はシレジアとなっている……だがシレジアにいたその名の学者は、クルッカに行ったことはないと証言している」
分厚い書物を閉じ、バルナバーシュはひとつ息をつく。「どう思うかね、アルフレート?」
息子は細い眉を気難しげに寄せた。親の目から見ても、この子はこういう顔がまったく似合わない。
「……有名な学者の名前を利用して、素性不明な者が価値ある場所に行こうとするのは、珍しいことではないかと思います」
「確かに。だがそもそもあの森――とっくに森ではなかったが、とにかくあそこは立ち入り禁止でもなんでもなかったのだよ。何もない、見る価値もない場所だから好きにしろと、国はそう結論づけたのだ。……まあそれもおかしな話ではあるのだがね」
「金銭的な援助を不正に得ようとしたのでは?」
「その男がその名を使って経済その他の援助を得た記録はひとつもない」
「つまり――」
「ただ“名乗った”だけということだ。……そんなことがあり得るとすれば?」
「……自分の素性を……隠したかった時、でしょうか」
「まあ、そんなところだろう」
山積みになった書類の山の一番上から一枚を取り上げ、さっと目を通す。何度も確認したものだったが、何度見ても皮肉な笑いがバルナバーシュの唇に込み上げてくる書類だ。
「本当に、あの旅人たちに調査に行かせるのですか? 父上」
「不満か? アルフレート」
「いえ……しかし、信用してよいのでしょうか?」
息子の心配はもっともだ。ガナシュの連中の言い分といい、あの旅人の風体、とりわけ“あの少年”の油断ならない物腰と言い――
(正直なところ、信用には値せんな)
しかしバルナバーシュはそれを口にはしなかった。代わりに、別のことを言う。
「オルヴァ隊長には世話になっている。彼もこの調査に興味があることを隠さなかった」
「……父上、それは」
「『遊覧兵の興味は国の興味』だよ、アルフレート。どうやら国はようやくあの土地に目を向ける気になったらしい」
バルナバーシュはそう言って、暗い笑みを浮かべた。
「――遅すぎると思うがね」
*****
アルメイアの町並みは、西と南の文化が混ざり合い、見た目にとても賑やかだ。
古くからの建物と新しく建てられた建物が同居し、それでいて互いの主張を壊すこともない。
この町はまさしく〝境目の”町だった。
(……だから、重要なんだ)
青年は人いきれの中を一人進んでいく。途中知り合いが声をかけてきても軽く返事をするだけに止め、中央道から横道へそれる。
入り組んだ小道。そこを奥へ奥へと入り込むと、やがて突き当りにたどり着いた。
――扉のある石壁。
青年は木製の扉をノックする。中から、くぐもった眠そうな声が返ってきた。
「勝手に入れよ」
言われた通りに遠慮なく扉を開ける。
中はガランとした、何もない部屋となっていた。その端にひとつだけ机が置かれ、椅子に腰かけた男が木細工のパズルをしている。
唇のねじれたようになった男は、部屋に入ってきた青年を見ることもなく言った。
「……ようやく来たかよ。遅ぇよ」
「すまない。忙しかったんだよ」
「知ってるよ。砦に行ってたんだろう――まったく、マメなこったねお前さんも」
「あれはアリューズナーの指示だ」
青年がそう答えると、男は「アリューズナーの指示ねえ」と喉の奥で笑った。
その笑いの意味を、青年は知っていた。苦笑して、付け加える。
「嘘じゃないよ」
「知ってるとも、
ねじれた唇をさらにゆがめて、男は笑う。その口元に含まれた嘲りに、青年――ユードは気づかないふりをした。
「そんなことより情報が欲しい。僕がいない間、アルメイアに何かあった?」
「あったともさ。アティスティポラの御大が猿の化け物に襲われて大けがだ」
「……うちの雇い主のことなら言われずとも知ってるよ。そうじゃなくて」
「その御大を襲った猿は無事退治された」
不愉快げに眉をひそめたユードの視線を気にした様子もなく、男は続けた。「退治したのは遊覧兵長、それと外国人」
「外国人……?」
「と、思われる連中だな。まだ詳しい素性は分からん。オストレム隊長が妙な連中を連れて帰還したのを見たやつが、この町に何人もいる――そしてその連中は、何とアティスティポラの旦那の屋敷で今歓待されているらしい。知っていたか?」
「……」
ユードの沈黙を答えと受け取って、男は肩を揺すりながら大笑いした。「なるほど、教えてもらえなんだか」
「その連中が屋敷に来たのは、僕がアルフレート様と話した後なんだろう?」
努めて冷静にユードはそう言った。……目の前の情報屋は、決まって自分を悪意を持ってからかう。その手に乗るものか。
「ふん、まあいいさ。……アティスティポラの旦那は〝死の大地”の調査を始める気らしい。噂を確かめるつもりなんだな」
「――あの噂、か」
「そうとも。もしもあの噂が真実ならばアティスティポラの――否、アルメイアにとっての千載一遇のチャンスだ。これを逃す手はない」
「でも」
ユードは身を乗り出した。「その調査に向かう気でいるということを、アルフレート様は僕に一言も言わなかった」
「ほう、プライドが傷つくかね?」
「違う。純粋に疑問なだけだ」
「単にお前さんに会ったときにはまだその気じゃなかっただけだろうよ」
挑発に乗らないユードをつまらなそうに一瞥して、男は言う。
「……どういう意味? 僕と会ったその後に、唐突に決心した何かが起こったというの?」
「チャンスをうかがっていたところに、渡りに船があったということだ。つまり調査に向かわせるのに最適な人材が降って湧いた。アルメイアにとって重要な人物ではないが、未知の土地に行かせていいだけの力量はある。うっかり死んでもこちらは特に困らない――」
いぶかしげなユードに向かって、男は実に愉快そうにまた笑った。「つまり、例の謎の外国人たちを調査に向かわせるつもりなのさ、御大は」
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