4 ガナシュの依頼人
「あなた。具合はよくって?」
部屋に入ってくるなり、妻は相変わらずの高い声でそう尋ねてくる。
初めて会う人間が頭を抱える彼女の声。だがそれも夫であるバルナバーシュにとって、長年の間に染み付いたただの日常である。彼らは昔からよく会話をした――彼は彼女の声をよく聞いたし、彼女も彼の声をよく知っている。そしてその事実は彼ら夫婦にとって誇りにも等しい。
ただし……それでもこの妻の強烈な個性が時々負担なこともある。
「セザンヌ……頼むから少しおさえて喋っておくれ」
ベッドの上から起き上がることもできない夫は、顔をしかめてそう訴えた。
あらまあ、と妻は片手を口元に当て、軽く首をかしげた。
「まだ響きますのね。そろそろ治っているころかと思いましたのに」
「無茶を言うんじゃないよ。まだ一週間だろう」
言い訳をするつもりではないが、全治数か月と診断された怪我である。左足と右手に噛みつかれ、牙が耳をかすめ、爪が腹に食い込んだ。それぞれの怪我はけっこうな重傷なのだ。
多分――バルナバーシュ・アティスティポラが白虎神アルファディスの加護を受けし西国の男でなければ、今頃もっと深刻であったに違いない。
しかし同じく西国生まれの妻は容赦がなかった。
「何を仰いますの、あなた。この程度お国の兵士ならば五日で治してみせてよ。長くアルメイアに住みすぎて軟弱になったのではありませんの?」
バルナバーシュは苦笑した。動く左手を挙げてみせ、“参った”の意思表示をする。
「仰せのとおり、完治したらまた体を鍛え直すよ」
「ぜひそうしてくださいな。――ご覧なさいな、あなた。今日はこんなにいい天気」
ベッドの傍らのテーブルに水差しを置くと、セザンヌは窓際へと移動する。
本日は快晴。窓から差し込む日差しを浴びる妻はその細面を輝かせ、たいそう美しい。その身にまとうやや薄い色合いのコタルディが、陽光によく馴染んでいる。
彼女は背が低かったが、常に誇らしげに胸を張るその風情が彼女を小柄に見せなかった。年齢は三十代半ば、しかしもっと若く見えるのは、何も夫の欲目だけではない。アルメイアは大陸南方に位置し、他の南国の御多分に洩れず見目麗しい者も多い都市だが、その中に入っても引けを取らないのだ。
柔らかなブロンドを結い上げ、惜しげもなくさらす肌は艶やかで、いかにも気の強そうな眉と目元には同時にどことなく愛嬌がある。少なくとも、初めて会う男たちは誰もが目を奪われる。しばしの間、他の一切を忘れてしまう。
ただし――彼女が口を開くまでの、ほんのひと時、ではあるが。
セザンヌはベッドの上の夫を振り返る。屈託のない笑顔で彼女は言った。
「あんまりいいお天気でしたから、わたくしあなたと一緒にお散歩したくって。だからお怪我が治っていればと思いましたのに、残念だこと!」
冗談めかした口調が夫の耳を心地よくくすぐる。妻より十も年上のバルナバーシュはベッドの上で笑った。
「それは惜しいことをした。セザンヌ、怪我が治った暁にはわたしの方から誘わせておくれ」
あらあまり長くかかるようなら忘れてしまいましてよ――そんなことを言いながら、セザンヌは水差しを手に取り、グラスに注ぐ。
「さあ、こちらの粉薬をどうぞ」
薬の時間、あるいは食事の時間となると、妻は必ずひとりでこの部屋にやってくる。使用人任せには決してしようとしなかった。
女傑だの猛女だのと陰で言われ続ける富豪夫人だったが、夫に対する愛情だけは誰もが認めるところなのである。
バルナバーシュ・アティスティポラは西国グランウォルグの商人として生まれた。
五男、家業を継ぐことはできない立場だった。
妻のセザンヌは貴族階級――ただし今にも消え去りそうな、力を失った没落貴族の生まれである。そうでなければ曲がりなりにも貴族の長子であった娘が、商家の五男になど嫁ぐはずがない。
セザンヌの実家は、セザンヌをバルナバーシュと
お家のためという大義名分のもとに、セザンヌは十四歳で十年上のバルナバーシュへと嫁いだ。
そして十五で子を生み、その後グランウォルグを出て新しい商売を始めることを決めた夫に、一切反対をせずに付き従った。いわく「それくらいのことはやりたいと言い出して当然ですわ、ええ、わたくしが選んだ
もっとも、だからと言って「よい奥様ですね」と言われないのが、セザンヌのセザンヌたるところだったが。
窓の外からは、のどかな鳥の鳴き声が聴こえてくる。深まった春に浮かれる鳥たちの声だけを聴いていると、《扉》による緊張のさなかだということを忘れてしまいそうだ。
「今朝は何事もなかったかい?」
バルナバーシュは妻に尋ねた。
夫が薬を飲むのを見届けて部屋を出ようとしていた妻は、何でもないことのように答える。
「朝一番に、あなたに怪我をさせた“迷い子”の始末をとあるお方にお願いしましたの。でもまだお戻りになりませんわねえ」
「あの“迷い子”の始末を……? いったい誰に?」
驚いて体を起こしかけ、激痛に呻く。「まああなた」セザンヌは呆れ声を出しながらすぐに手を差し伸べた。
「動かしてはいけませんわ。興奮なさらないで」
「――いったい誰に依頼したというのだい? 今は街の警護で誰も手がいっぱいのはずだが」
「ええ。昨夜ユードがこの街に戻って」
夫を寝かしつけながら、妻はおっとりと話し続ける。「そのユードと一緒にオルヴァ・オストレムさんがいらっしゃいましたの」
「オルヴァ? 遊覧兵の?」
「ええ! 構いませんでしょう?」
「彼が引き受けてくれたというなら構わんだろうが……」
当惑に眉間を寄せて、バルナバーシュは呟く。
「……特派隊は隊長が代替わりしたばかりでごたついていたはずだがな。よく王都を離れたものだ」
「何を仰いますの。今は《扉》の影響下、特派隊が動かなくては困りますわ!」
それはそうだが、と夫は吐息混じりに肩をすくめた。
確かに今は特殊派遣隊がもっとも活躍すべき時期でもある。王国直属の組織の中でも最も自由度の高いかの部隊の人間は、常日頃からあちこちに分散するように居るのが当然だったし、一部の者を除き年の大半は王都にいられないものだ。
しかし――オルヴァ・オストレムはつい最近隊長になったばかりの身である。
その地位の確立のためにも、今しばらくは王都に留まるものとバルナバーシュあたりは思っていたのだが――
黙り込んだバルナバーシュの思考を叩くように、ちょうど部屋のドアがノックされた。
姿勢を正しドアに振り向いたセザンヌが、即時に応じる。
「お入りなさい」
「失礼します」とドアを開けた人物の姿に、バルナバーシュは顔をほころばせる。
「アルフレート」
「具合はよろしいようですね、父上」
アルフレートはベッドの上の父の姿を確認し、微笑んだ。
バルナバーシュとセザンヌの間にできたたった一人の子であるこの青年は、面立ちとブロンドが母に似ている。その物腰の柔らかさ、貴族的なあたりも、やはり母の教育のたまものだろう――バルナバーシュの目から見ても、正直なところこれが将来商家を継ぐ青年とは思えないのだ。
アルフレートは両親の前に歩み寄り、静かに口を開いた。
「つい今しがた、オルヴァ・オストレムさんが帰還なされました。無事“迷い子”を始末なさったそうですよ」
「まあ! 遅かったこと」
そんなことを言いながらも妻は嬉しそうだ。
あの“迷い子”は消えたのか。遭遇したときのことを思い出し、傷口がうずくのを隠しながら、父親は息子に「それで」と問う。
「――アルフレート。オストレム隊長には十分にお礼を用意してあるのだろうね? お忙しいだろうから、あまりお引止めしたくはないが……」
「オストレム隊長はしばらくアルメイアに留まられるそうですね。具体的に何をなさるのかは存じませんが」
「アルメイアにはさほど《扉》の被害はないことは、彼にお伝えしたのかね?」
「わたしどもがお伝えするまでもなく察していらっしゃるようです。ですが、念のためご自分の目でご覧になるつもりでしょう」
「ふむ」
「それと、父上」
息子は口調を変えた。声のトーンを落とし、言葉のひとつひとつを確かめるように紡ぐ。
「――ユードには昨夜のうちにサモラへ向かわせました。わたしの独断ですが、異論はないことと存じます」
構わんよと大商人は動く左手を軽く振ってみせた。
「わたしがいてもそうしただろう。ユードにはもう少し働いてもらわなくてはな――アルフレート、可能ならオストレム隊長をこの部屋に呼んではくれんかね。直接お礼を申し上げたいものだ」
「はあ……あの」
そこで初めて、息子は困ったように口をつぐんだ。「実は」と言いかけながら、あぐねたように目線まで泳がせる。即断即決を旨とする商家の教育を受けた者として、とても珍しい態度だ。
「アルフレート。はっきり仰い」
見かねた妻が息子を咎める。
「よせ、セザンヌ」
妻を制しながら、バルナバーシュは息子の言葉を待った。何か迷っているというよりは、説明に困っているというのが正しいように見えたのだ。
やがて、
「――ガナシュから、ガナシュ町長の代理人と仰る方が見えております」
意を決したように歯切れよく、息子は言った。「オストレム隊長とご一緒にこの家にまでいらしたんです。“迷い子”との戦闘の際に偶然合流なさったそうで」
「ガナシュだと?」
「はい。委任状がありましたので、間違いなく代理人と思います。それで――」
アルフレートは再び、言葉を切った。
次に息子がその顔に浮かべたのは、困ったような微笑だった。子どもにわがままを言われて苦笑しているような、そんな顔。
「――ガナシュは《霧のカーテン》を欲しているようです。可能な限りの数を揃えたいと、書面も代理人ご本人も、そう言っています。代金は――《代理人の腕》だそうで」
まあ、と妻が呆気にとられたように口元に片手を当てる。
対照的に――バルナバーシュはベッドの上で、愉快気に唇の端を上げた。
「なるほど、つまり――大量の《霧のカーテン》に見合うだけの仕事をその代理人に任せていいと、そういうことだね? アルフレート」
「どうやらそのようですね」
面白い。
バルナバーシュはにっこりと笑って、息子に命じた。
「よろしい。その代理人はまだこの屋敷にいるのだね? ここにお呼びしなさい。ああ、オストレム隊長も一緒にな」
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