41 セレンの帰還
クローディアという名の漆黒の少女の体勢が揺らいだ瞬間、空を覆っていた雲が滲むようにぼやけた。
(やはり)
カミルはそれを一瞥して、胸中で呟いた。
――あの雲の群れは幻影だ。
そもそも、本物の雲を呼ぶのは朱雀の術の
だから、あの雲は本物ではないだろうと思っていたが……
(だが、それだけに異常だ――あの雲はすでに
問題はそこだった。
幻によって現実に影響を与える、朱雀の術の特徴のひとつは、『
理屈としては不可能ではない。〝イメージし続ければ〟、術は延長することも可能だ。
だが現実問題、それをできる人間は希少だった――そもそもあえてそれをしようとする術者が少ない。
なぜならそれは、長い時間自分の思考、夢とも呼べる世界に没頭するということ。他のものに対して、あまりにも無防備になりすぎる。
(……飛行術もしかり。複数の長時間の術を同時進行……ほとんど不可能に近いことを、あの娘は現実に行っている)
しかも、その最中に、攻撃のための術さえ行使して。
カミルは思考を一時切り上げ、ジオに駆け寄った。
ジオはずっとクローディアの後ろを取っていた。あの少女は基本的にラナーニャしか目に入っておらず、カミルのことを〝羽虫〟として認識していたようだ。ジオに至ってはもういないようなものだったのだろう、この海の男はただの一度も攻撃を受けたことがなかった。
囮の
ジオは忠実に働いてくれた。辺りから幾つかの条件に合うものを指定の位置に配置し、それからタイミングを見はからってクローディアの術を止めた。棍棒は彼の唯一の武器だったが、ジオはそれを手放してもせいせいした顔をしていた。
空では――だいぶ高度を下げていたが――落下しかけたところを留まったドレスの娘が、怒りの表情で彼らを振り返った。
『この――ゴミが!』
ジオはにやりと笑った。
「まともに当たったなァ。ゴミからの攻撃でも痛ェだろ?」
よそ様の女子供を殴るなぁシュミじゃねえけどよ、と独り言のように呟く。
「だがよ、お前さん見てたら思ったよ。きっとぶん殴ってくれる親ァいなかったんだろ? オレなんかぶん殴りすぎて子供をダメにしちまったクチだがよ、やっぱりオレぁこういう役回りだァな――おっと、悪いな、嬢ちゃん。嬢ちゃんのオヤジさんを蔑みたいわけじゃねえ」
と、最後に謝ったのはラナーニャに対してだ。
ラナーニャはクローディアに〝お姉様〟と呼ばれている。してみれば、二人は姉妹かそれに近しい間柄なのだろう。
(完全に記憶が戻ったらしい……)
ちらとラナーニャを見やれば、少し前まで情緒不安定だった少女は今、全身の気迫を込めた表情で、クローディアをねめつけている。ずっと気弱そうに受け身でいた彼女の顔はどこにも見えない。
だが、それを喜べる状況ではなかった。
クローディアが高く腕を掲げた。カミルはジオに鋭く警告し、二人は離れるように散った。
『ちょろちょろするんじゃなくってよ、この羽虫どもが……っ!!!』
怒りに任せた術が乱発される。辺りに次々とクレーターが
このまま時間を稼いで。
できることなら、少女の体力も削ることができれば。
相手が空にいる以上、カミル自身に手はほとんどない。得手不得手を理解している身では無力だと思うわけでもないが、歯がゆさは当然ある。しかしそんなものにかかずらってはいられない。追撃を避けながらひたすら思考を巡らせた。
ラナーニャには近づかないようにしながら、ジオの位置を確認し、一方で自分も動く。その最中に、カミルは舌打ちした――空を覆う雲が再びはっきりとした存在感を取り戻した。つまり少女の精神状態が回復しつつある。
まだ時間が足りない。他の手はあるか?
「―――っ?」
ふと胸元に熱を感じた。
カミルは即座に足を止めた。服の中から取り出したのは、ずっと首にかけていたネックレス状の
思わず、彼は叫んだ。
「
まるでその声に呼応するように――
カミルの前方にある空気がひと塊ほど、うねるようにうごめいた。そのうねりがやがて、空中に新たな人影の輪郭を描き出す。
真っ先にクローディアが反応した。ほとんど反射的に見える動作で白刃をその人影に撃ち込む――しかし、
その刃は、
虚空から現れた女は何よりもまずカミルを振り返り、激しく怒鳴り返してきた。ただでさえ釣り目気味の猫目をますます吊り上げ、たいそうな剣幕で。
「遅いって何よ何なのよ私だって戦ってたのよ危なかったのよほんともー信じられないこの
ものすごい早口を一字一句聞きもらさなかったカミルは、懸命にも言い返さなかった。言いたいことは山ほどあったが、そんな場合ではないのだ。
何より、本心を言ったところでこのパートナーは信じやしないのだから。
ラナーニャは
けれどもそれは普段から彼女を知っているからこそのこと。
クローディアは明らかに動揺していた。『なんですって……?』と呟く声は今度こそ独り言だったのだろうが、悲しいことに通りがよすぎてラナーニャまで丸聞こえだ。
『生きていた? あのときわたくしはそれなりの力を叩き込んだのよ! お前、いったい何なの?』
機嫌の悪い小動物のようにカミルに
「ああー。何か妙な気配が現れたわねーと思ってたら、本当に妙なのがいるのねー? なにこのかわいい女の子」
『……っ。質問に答えなさい!』
「ただの旅人よ。ところであの洞穴の中に、シグリィ様と一緒にいるのは誰?」
と、最後に問うた相手はカミルだったらしい。彼に顔も向けていないのに心得たもので、カミルは即答した。
「
「あ……っと。やだわー私ったら、うっかりシグリィ様が怪我人だっていうことを忘れちゃって」
いかにも『うっかり』という表情で、セレンは大きく開けた口を掌で隠す。
とぼけた口調とは裏腹に、彼女の碧眼が鋭く一瞬のきらめきを灯したのを、ラナーニャは見逃さなかった。
なるほどね、と。
やがてセレンは手を口から離し、ゆったりと笑みを唇でかたどった。下ろした手を、すっと杖に添えて。
「シグリィ様が休憩中なら、ここは私の出番よねえ。いいわ、かかってらっしゃいよ。かわいいお嬢さん」
『なん――』
クローディアがわななく。
その一瞬に、まるでごく当然のような動作でセレンの杖が空を
先端が走ったその道筋を、一拍遅れて閃光が
クローディアが防御に回った。ラナーニャの知る限り初めてのことだ。編み上げられた防御壁にあっさり術は防がれたが、それを気にした様子もないままセレンは乱れかかった長い黒髪を後ろに流した。
「もしくは、こっちから行くわよ――なんて親切に言うわけないでしょ。あなた人間相手の戦いに慣れていないわね。覚えておきなさい」
『この、』
「今までうちの
高らかな宣言とともに、杖を再び一閃。
クローディアの間近で爆発が起こる。今度は防御が間に合わない――肌を焼かれて、クローディアが悲鳴を上げた。ラナーニャは思わず目をそらしかけて、慌てて視線を引き戻した。
今この場に来たばかりだというのに、セレンは必要な事情をほとんど呑み込んでしまったようだ。洞穴ではシグリィが術を行使しようとしていること、そのために時間稼ぎがいること、そして目の前の〝敵〟には挑発がよく効くこと。
クローディアの正体までは分からないままなのだろうけれど。そこを知るための時間はあっさり省いているのが、戦い慣れているということなのだろうか。
――セレンの術の最大威力をラナーニャは知らない。
だが、どうやらクローディアの防御方法で防ぎきれる術ではなさそうだ。ラナーニャは朱雀の者ではないが、朱雀の術なら見慣れている。おおよその力量の判断くらいはできる。
(それなら、セレン一人でもこの場をどうにかできるんだろうか……?)
それはつまり、クローディアの分体を倒すということ。
胃に落ちる苦い味を感じ取りながら、ラナーニャはセレンが術を繰り返すのを見ていた。カミルはジオをつれて安全圏へ移動し、幾度となく爆ぜ散る空気から身を護っている。いきり立つクローディアが、
『いい加減に黙りなさい、このうるさい羽虫が……っ! 本気を出せばわたくしのほうが力は上よ!
クローディアは
セレンの声は爆音を背景に、ひどく軽快だった。
「そーねーさっきは確かに私、力押しで負けた形になるわよね。私だけが転移するなんて、正直プライド傷ついたわー。ええもう、あんな思いしたくないわね!」
『だったら素直に諦めなさいな! どうせ繰り返すだけなのだから!』
「お
――何の話だろう?
腕で顔をかばい、砂煙と光で捉えどころのなくなる視界に必死に視線を潜り込ませながら、ラナーニャは眉をひそめる。セレンがいつ負けたというのか。自分は知らない――
そう、洞穴の中で、自分は一度気を失っている。
思い出した瞬間、鈍っていた何かが一気に目覚めた。全身から血の気が引いた。一度は激情に熱くなった指先まで、全てが凍り付くように。
――
だからシグリィが、そして、
姫様、と遠いどこかで呼ぶ声が聞こえる。
姫様、どうか強く生きて
――無理だよリーディナ
「とは言え私もお嬢ちゃんのペットたちと戦ったおかげで、立派に学習したのよ!」
セレンは杖を両手で掲げた。整った紅唇が、しばらく控えていた詠唱を高らかに紡ぐ。
「――
詠唱をつけることで術は安定する。それは術の威力を抑えるということだ。だが。
何も起きない――と思ったのは一瞬。
まばたきをした次の瞬間には、クローディアの体の表面を何かが覆った。妹の動きが不自然に止まる。パキリ、と人体のものではない音が鳴った。
散り落ちたのはかすかに輝く――氷。
『―――っ!!』
漆黒のドレスさえ翻るのをやめ、全身が凍結したクローディアの体はなすすべもなく落下した。激しい音を立てて地面に激突する――
「クローディア!」
ラナーニャは叫んだ。そして、叫んだ自分に驚いた。なんだこの声は、なんでこんな泣きそうな声で自分は、
――だってクローディアは私の
「クローディア……っ!」
土煙はなかなか晴れなかった。しかし
しかしラナーニャが土煙の中心に辿り着く前に、
目指したその場所から――
肌を焼く熱さに、ラナーニャは足を止めた。赤を通り越して黄色に近い炎の内側で、ゆらりと人影が立ち上がった。
『わたくしを
炎の中心から
もはや、近くまで来たラナーニャに気づいてさえいないようだった。
炎の壁が薄くなり、クローディアの姿が見えた。ラナーニャは漆黒のドレスを着た少女のその片手に、黒い炎を見た。
『消え去りなさい……!』
クローディアの黒い瞳が燃えていた。掌と同じ、
ラナーニャの意識はそのときようやく〝それ〟を理解した。氷水を浴びて目が覚めたかように、世界の見え方が一瞬にして
――その先にあったのは、悪夢のような現実。
そこにいるのはもう、自分の知っている妹ではない。
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