28 チェッタの苦悩

 旅人たちを追い出した夜の後味の悪さは、日が昇ってもチェッタの幼い心に心地悪い雲をかけ続ける。


「……いー天気」


 家から出て空を仰ぎ、上がったばかりの太陽の白さに目を細めながら、チェッタはわざとそう呟いた。


「あー、ほんといー天気だな」


 空っぽの言葉には力が入らない。吐き出した声が宙に弾かれて、どこかへ追い立てられるように消える。


 両手で抱えた洗濯道具には、昨日あの旅人たちと、そしてラナーニャが着ていた服の一部も入っている。それに目をやれば、胃がじくじくと痛んだ。


 あれからチェッタは一睡もできなかった。居間では大事な長姉がダッドレイと一晩中話していたのだが、ハヤナとチェッタはそれに同席させてはもらえなかった。


 部屋に押しこめられて、ハヤナと二人何を話すでもなく、まんじりともせず過ごす夜。


 姉が自分を同席させてくれなかった理由くらい分かっているのだ。ハヤナにしろチェッタにしろ、ダッドレイの前で冷静に話し合いなんかできるわけがない。分かってる。


 でも、こんなの納得がいかない。


「あのタビビトやろーもあっさりジブンから出ていきやがって。マーサもマーサだ、いっそダッドレイをおいだしてもいいくらいじゃ――」


 勢いで言いかけ、はっと口をつぐむ。


「……ってのは、ナシだけどさ」


 まるで誰かに言い訳をしなくてはいけないような気持ちになって、チェッタはむっと唇を尖らせた。足元の小石を蹴とばして、ことさら強く言葉を吐き出してみる。


「あーっ。はやくオトナになりてーなーっ」


 ダッドレイと堂々と言い合いできるくらいに。

 マーサを一人で護れるくらいに。

 納得できないことと――戦うことが許されるくらいに。


 それができないなら、こうやって苛々することがとても無駄なことに思える。さっさと諦める?――そんなのいやだ!


 知らず、洗濯物籠を抱く腕が震え出していた。

 それに気づいて、チェッタは奥歯を噛みしめた。


 ――いつもの発作だ。


「またかよ……」


 籠を放り出してしまいたい気持ちが、胸の奥底からじわじわと湧きだしてくる。この感じが、チェッタは何より嫌いだった。それに抗おうと無理やり指に力をこめる。籠を、力一杯抱きしめる。


 元々チェッタは感情の起伏が激しい。怒りも悲しみも、あらゆる感情はほんの一瞬でたかぶる。沸点を超え衝動的に感情を吐き出し、それによって色々と問題を起こすのが常だ。マーサにたしなめられハヤナに怒られ、それでも中々直るものではなかった。


 そのなかで――この発作だけは。


 〝一瞬の昂ぶり〟ではない。まるで濁った水が染みだすかのように、ぞわりぞわりと心の中に広がっていく。どんどんと浸食してくる。それなのに心は逃げ出すことができず――やがて、呼吸も難しくなる。


 チェッタは深呼吸をして、目を閉じた。


 毎日毎日、この感覚と戦っていた。大抵は洗濯をしようとすると起こる発作だ。気持ちが悪くて息ができない。洗濯道具など全部目の前から消し去ってしまいたくなる。


 洗濯が嫌いなわけじゃない。


 ただ――息苦しさとともに鮮明に蘇る光景が、チェッタにはまだ辛すぎたのだ。




 それは彼がまだ五歳にも満たない頃のことだった。


 姉が二人と、両親と。貧しいながらも仲の良い家族だった。日が昇れば両親は朝早くから仕事に出かけ、マーサが朝ごはんを作り、チェッタとハヤナが洗濯を済ます。


 その頃のチェッタは幼かったけれど、洗い物くらいはできていた。家の近くの川で一生懸命洗えば、使い古された服も綺麗になるような気がして誇らしかった。


 何より、父と母が褒めてくれた。


 何もない毎日。それでもチェッタは不満を感じたことなどなかった。自分たちの置かれている状況を正しく理解するには、彼はまだ幼すぎた。だから疑問に思ったこともなかった。なぜ、両親が家からずっと離れたところへ働きに出なければならなかったか――


 自分らがなぜ、暮らしていたのか。




 その日は突然に訪れた。


 いつも通りの朝だったのを覚えている。両親は笑顔でチェッタを抱きしめてから出かけて行き、マーサは妹弟たちの好物を作るために台所にいて、ハヤナとチェッタは小突き合いながらも洗濯をする。


 二人で協力して洗い終わった服。干すのはハヤナの役割で、チェッタは彼の頭上に並んではためく洗濯物を見上げ、わくわくと目を輝かせていた。水分を含んだ布地に太陽光が照り映え、幼い目にはふしぎと立派な服に見えた。


 そんなとき、ふと。


 複数の人の気配がして、ハヤナが怪訝な顔をした。


 父さんたちじゃないねとハヤナは呟いた。ということは、知らない人たちだ。


『チェッタはここにいて』と言い置いて、ハヤナは様子を見に行った。


 チェッタはむずむずと落ちつかなかった。家族以外の人間とは滅多に会うことがない。何も教えられていなかった当時、チェッタにとって〝他人〟は強い好奇心を刺激する存在だった。


 だからこっそりとハヤナの後をつけ、曲がろうとした我が家の角――


 ――今まで聞いたこともないようなハヤナの悲鳴が、チェッタの歩みを止めた。



『父さん……っ!』



 続いたハヤナの声は、壊れそうなほど激しい響きをしていた。


 チェッタはその場で立ちすくんだ。


 角はすぐそこだった。そこを曲がれば、ハヤナと見知らぬ人間がいるはずだった。誰かの苦しそうな声――おとうさんの声に似ている――そして、誰かが争うような音。


 角の向こうで怒声が行き交っている。知らない声が多すぎる。何を言っているのか、まるで聞き取ることができない。何が起こってる? 人の声だとも思えない獰猛どうもうな声が、何かをがなりたてている。『コ・ド・モ』なぜか途切れ途切れの音になって、チェッタの耳にも飛びこんできた。拳で殴りかかるかのように。


『逃げなさいハヤナ!』


 場違いなほど細い声が混じった。

 チェッタは驚きで目を見開いた。おかあさん――?


 角からハヤナが飛びだしてくる。チェッタとぶつかりそうになり、はっとこちらを向いたハヤナの顔は、真っ青になっていた。『にげ、にげよ、チェッタ……!』ひどくたどたどしくハヤナは言った。簡単な言葉でなければ、何を言っているか分からなかったかもしれない。


 チェッタはハヤナとともに駆け出した。


 理解できたわけじゃない。ただ、体が先に動いたのだ。ここにいてはいけない、『にげろ』――手足が自分の体ではないように思えた。早く走りたい気持ちばかり前に進み、置いて行かれた足がもつれて転んだ。


 ハヤナが慌てて支えてくれようとする。思うように立ち上がれない。まだほとんど走っていないのに、息が上がった。顔を上げると、目の前に洗濯物がはためいていた。


 はたはたと揺れる衣服。いつの間にか太陽は雲に隠れ、その布たちはただ影を投げかけるだけのものになっていた。暗い。〝前がふさがれた〟――チェッタは悲鳴を上げた。跳ねるように立ち上がり、乱暴に洗濯物を掴んで引っ張った。横ではハヤナが何かをわめいており、後ろからはあの野獣のような声がしていた。逃げなきゃ。前に進まなきゃ。まえを――ふさぐな!


 物干し竿が倒れ、都合よく洗濯物がはずれてチェッタの手の中に落ちてきた。ぐっしょりと濡れた布地が手にまとわりついてくる。背筋に悪寒が走る。また背後にあの声が聞こえ、チェッタは思わず手にした布をそちらに向かって投げつけた。


 気づかなかった。獰猛な声からチェッタとハヤナをかばうように――

 彼らのすぐ傍まで、駆け寄ってきていたことに。


 無茶苦茶に投げつけたはずの布。水分を含んで重かったはずの布。それがふしぎなほどきれいに空中で広がった。まるで子ども二人の視界を隠すことを、誰かが望んだかのようだった。


 布の向こうで大きな黒い人影が、何かを振りおろし、


 そこで、チェッタの記憶は一時途切れた。気絶したのではない。覚えていないのだ。


 ほんの一瞬か、それとも数秒か、ひょっとしたら数分か。



 ――にげなさいふたりとも、と だいすきなあの声が



 ハヤナに引っ張られて再び逃げ出した。背を向けたチェッタは獰猛な声の主たちの姿さえろくに記憶できなかった。あれはただの黒い影だ。そうだ、夢の中の怪物か何かに違いないんだ。でも布に隠されたあの一瞬は? 最後に聞こえたあの声は……?


 その先を想像することを全身が拒否した。チェッタは考えることをやめた。横を走るハヤナが嗚咽をこらえていることも知らないふりをして、ただ走った。前を遮るものが現れることが恐ろしかった。




 そこからどうやって逃げ延びたのか、やはりチェッタはまったく覚えていない。ハヤナの話では、横から現れたマーサがうまく先導してくれて、その恐怖の場を脱出できたらしいが――いくらマーサがしっかり者とは言え、やっぱり奇跡的だったように思う。


 そう、チェッタが放り投げた布のことと言い、奇跡の連続だったのだ。


 近隣の町や村を転々とした。生まれ故郷からどんどんと離れながら。


 両親がどうなったのか、確かめる方法はなかった。あれから三人、誰一人として故郷に帰ろうとは――帰りたいとは口にしなかった。


 父と母と、あの出来事と。思い出すたび、体が震え出す。あれ以来洗濯は恐怖の時間だ。ふとした瞬間にあの一瞬を思い出す。あのとき、自分が投げた布に隠れた向こう側で何が起こったのか。


 勘づいている自分と、いまだ拒否している自分と。両方の自分が次々と苦しさを訴えるのだ。


 それでも、チェッタは逃げたくなかった。


 あの日以来、逃げる一方だった。もう、あんな思いはたくさんだ。逃げたくない。逃げたくない。


 ――かちたい!


 何度も深呼吸。新しい空気を胸に入れ、内側でぐるぐる回る黒い何かを吐き出そうとする。

 毎日これの繰り返しだ。そして今日も、うまくいかない。


 ――神の祝福を受けずに生まれた。自分たちが一体何をしたというのだろう?


 ただ、家族で暮らしていられればよかった。それだけだったのに。




「チェッ、タ……」


 ふいに名を呼ばれ、チェッタは跳び上がるほど驚いた。


 慌てて声のした方向を振り返り、そこに見えた姿にほっと安堵する。


「なんだ、メリィか。おどろかすなよな」

「ご、ごめん……なさい……」


 別にチェッタを驚かすつもりなどなかっただろうに、素直に謝ったのはチェッタよりもさらに幼い女の子だった。


 うつむきがちの顔は横一直線に切られた前髪の陰になり、その隙間から覗く視線を含め、この子は全体的におどおどしている。


 何より彼女――メリィには、肩を縮める癖があった。本人は意識しているかどうか分からないが、チェッタにも他の村人たちにも彼女のその仕種しぐさは痛々しく見える。まるで――失われた左肩から下を隠そうとしているかのようで。


 もっとも、この島の者たちは身体の欠損自体を深刻に考えることはあまりない。

 なぜなら彼らにとって何より恐ろしい〝欠損〟は別にあるから。


 チェッタは暗い気分を頭を振って振りほどき、ことさら明るい声で年下の少女に話しかけた。


「どうかしたのか? マーサたちなら中にいるぞっ。あ、それともロイックとケンカでもしたか?」


 過保護な兄代わりの青年の名を出すと、メリィはふるふると首を横に振った。


「ちがう……の。あのね……」


 とことこと小さな歩幅でチェッタの前に歩み寄り、前髪の隙間からチェッタを窺い見る。


「……あの……ほしのおねえさんと……タビビトさん……でて、いっちゃったの……?」

「………!」


 胃の奥がきりりと痛みを訴える。「なんで……しってんだ、メリィ?」


「その……きのう、は。ねむれなかった……から。よる……おねえさんたちがあるいてるの、みたの……」


 言われて、チェッタは気づいた。


 昨夜はみんな眠れていなくてもおかしくなかった。チェッタたちの知らない間に、村の数人が黒い鳥に襲われているのだ。


 その場にマーサはいなかったわけだが、彼女なしでも村人たちが混乱に陥らなかったのは、驚いたことにダッドレイが彼らを落ちつかせたからだと聞いた。


 ただし、「不吉な人間がいるせいだ」と一方的に悪者を仕立てあげることで村人の不安をまとめたそのやり方は、到底チェッタが感謝したくなるものではないけれど。


 思い出し口をつぐんだチェッタに、メリィは少し微笑んだ。


「チェッタのこえ、きこえた……の」

「あ。あー……と。……よなかに、わりぃ」


 そう言えば彼らとの別れのときに、自分は大声を上げたのだった。

 気まずく頬を引っかく彼の前で、メリィは再びふるふると首を振った。


「……あのね。わたしも……わたしも、イヤなの……おねえさんたちが、でていっちゃったの……」

「―――」


 ひたむきに見つめてくる丸い目。チェッタは落ち着かない気分になる。


 前髪の奥のメリィの瞳は、濃く明るい橙色をしている。それを見ていると、つい思い出すもうひとつの眼差し。


 その人は鮮やかな赤い色の目をしていた。赤と言っても、炎や血のような、見方によっては背筋が冷える色合いではない。


 あれは――あれは、そう、


(ゆうやけの目……ユキナ)


 決して〝同じ色〟ではないはずのメリィの目に、記憶の中のユキナの色が重なる。


 似ていない。似ていないのに、同じだ。チェッタに強く何かを――訴えている目。


 チェッタの口から、零れるように独り言が落ちた。


「……ユキナがいたら、おこるよな」

「……チェッタ?」

「そーだよ、ユキナがいたらぜったいおこるぜ。だからこんなのおかしいんだ。こんなの――」


 たどり着く答はいつも一緒。

 だからと言って、自分に何ができるのだろう?


「―――っ」


 苛立ちのままに足元の地面を蹴る。つま先で抉った土が跳ね、小石が転がる。攻撃しても大地は何も反撃しない――あくまで静かな地面に、理不尽な怒りがなおさら積みあがっていく。


 メリィがちらちらとチェッタの手元を見ていた。チェッタはようやく、自分が洗濯のために外に出てきていたのだと思いだした。


 洗濯物を見下ろし、盛大なため息をつく。


「……せんたく行ってくる。メリィも家にもどんねーと、ロイックがシンパイするぞ」

「……うん……」


 その時、家の方で人の気配がした。


 ダッドレイが帰るのかと思わず険悪な視線をそちらに投げつけたチェッタだったが、違う人影であることに気づき目をしばたいた。


「ハヤナ?」


 二人目の姉は両手に何やら荷物袋を抱え、いやにこそこそと家の様子を窺いながら、チェッタとメリィの元へ小走りにやってくる。


「――よかったチェッタ。まだここにいたんだ」


 マーサから伝言――と、ハヤナは絶えず家を気にしながらチェッタの方へ口を寄せ、囁いた。


「マーサはあの子と旅人たちを、〝あの〟洞穴へ案内したんだって。で、チェッタ。ダッドレイやみんなに気づかれないようにあの洞穴へ行って、これを渡してきて。調合済みの薬とか入ってるから」


 抱えていた袋を差し出す。

 チェッタは目を輝かせた。


「ほんとか!――いいのかよ!」

「しっ! 中に聞こえる!」


 姉に鋭く叱られ、チェッタは慌てて自分の口を両手で塞いだ。けれどそんなものでは抑えきれない喜びがある。さすがはマーサ!


「行けるよな? チェッタ」


 ハヤナに問われ、チェッタは何度もうなずく。そしてふと思い立ち、訝しく思って姉を見た。


「……ハヤナはこれでいーのか? まだアイツらのことキライなんだろ――って、いや、おれもキライだけどなっ!」


 途中であわあわと言い足した弟に、ハヤナは呆れ顔で「なに意地はってんだ」とため息をついた。


 弟の視線をかわそうとするかのように、姉は家の方へ顔を向ける。


 居間ではマーサが、ダッドレイと向き合い続けているはずだ。


「……嫌いだよ。《印》持ちなんか大嫌いだ」


 ハヤナは横を向いたまま、ぽつりと呟いた。


「でも……ジオまで追い出したのは申し訳ないし。あの子……ラナーニャは、この村の仲間になればよかったと思うし。それに怪我人がいるんだ。今は好きとか嫌いとか言ってる場合じゃない」


 歯切れ悪く紡がれる言葉に、チェッタはぶはっと笑った。


「なんでぇハヤナ。イイワケはミグルシイぞっ」

「……っ! お前なんかあの黒髪の女に惚れたんだろ! 《印》持ちどころか年上すぎだろ! お前なんかあの人の子供でもおかしくないんだぞ、むしろペットだろペット!」

「うっせー! トシなんかカンケーねーやいっ! あいつはハヤナみたいにひんにゅーじゃねーかんなっ!! 心もひろいんだかんなっ!!」

「このマセガキおっぱい星人! こないだまたおねしょしたことチクってやるからな、盛大にフラれろ!」

「やめろーーーーっ!」

「あの、あの、こえ……おっきい……」


 おろおろしながら必死に口を挟むメリィに、姉弟はようやく状況を思い出してはっと口をつぐんだ。


 二人、冷や汗を流しながら家の方を盗み見る。――居間の窓はこちら側にはない。マーサやダッドレイがこちらを窺っている様子もなさそうだ。


 ハヤナはこほんと咳払いをした。


「……とっ、とにかく。急いで行って来い。洗濯はぼくがやっとくから」


 改めて袋を差し出すハヤナに、チェッタはためらってからうなずいた。


「わぁった。ハヤナのぶんも、いってくら」

「よけーなお世話だ」


 姉はぽかっと弟の頭を殴りつける。「いってぇなっ」チェッタは頭に手をやり、照れたように笑った。




 マーサは一人、困ったように微苦笑していた。


 ――彼女の妹も弟も、とても正直ないい子だ。きっと喜びを我慢できないだろうと思っていた。


 妹と弟に伝えた一仕事。案の定、家の外で二人が騒ぐ声。今更そのことに動揺はしないけれど。


 使い古されたソファ――座面が固すぎて、横幅が広めの木の椅子と表現したほうがしっくりくる――に座ったまま、マーサはゆったりと目の前の人物を見る。


 灰色の髪の青年は、薄目を窓に投げやったまま何も言わない。


 マーサが一晩を費やし語り合った相手は顔色が悪かった。彼は元々体力があるほうではなく、下手をするとマーサのほうが体は強いかもしれない。


 ダッドレイが不健康な理由も、マーサは察している。そもそもが極端に小食であり、さらに毎日睡眠不足なのだ。本人は決して具合が悪いなどと認めたがらないけれど。


 ――家の外で騒ぐ子らの気配がなくなった。


 チェッタは洞穴に、ハヤナは洗濯に行ったに違いなかった。


「帰る」


 見計らったように、ダッドレイが腰を上げた。「徹夜させて悪かったな。よく寝ろ――お前が倒れたら村全体に響く」


 つい先ほどまで辛辣に彼女の長としての資質をこき下ろしていた口でこれだ。マーサはくすりと笑った。


「あなたもよ。レイ」

「その呼び方はやめろ――じゃあな」

「なぜ見逃したの?」


 ふいに投げかけた問いに、帰りかけた青年の足がぴたりと止まる。


 重々しい沈黙が落ちた。あっさりと返答がなかったのは、きっと彼自身理由がはっきりしないからだ――


 ややあって、ダッドレイは無感動な声で呟いた。


「……何の話か分からんな」

「そう。じゃあお礼はよすわ」

「やめろ。反吐へどが出る」


 言い捨てて足早に家を出ていく年下の村人の姿を、マーサは最後まで見送った。


 独り残された家。一夜の議論の熱は潮が引くように退き、居間はしんと静まり返る。


 マーサはほうとため息をついた。


 頭がずっしり重い。寝不足なのは確かだが、今から眠れるとも思えない。夢の世界に身を任すには、今は心配事が多すぎた。


 そっと目を閉じ、己の言動を顧みる。


 ――自分が長に向いていないことなど、ダッドレイに言われるまでもなく分かっている。


 自分の選んだ道が必ず正しいと思えるほど、あいにく彼女は強くなかった。だが長である以上、迷ってはいけないのだ。ユキナは死に、ユドクリフは村にいない。自分が選び取るしかない。


 問題の黒い鳥。もしもそれが再び村を襲うことがあったとき、村をどう守るのか。

 自分が選んだ方法があまりにも図々しいものだと知っている。


 それでも、後悔はしない。してはならないのだ。


「もしもに気づいてくれれば……お願いします、シグリィさん」


 すうと息を吸いこんだ。

 胸に染みわたる新しい空気で身を奮い立たせ、マーサは再び立ち上がった。

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