Side:Sigrye 07
“福音の島”は、古くはエルヴァー島と呼ばれていた。
――“
その島に足をおろした瞬間、一陣の風が彼らの足元を吹き抜けた。
「わあ……っ」
セレンがなびいた髪をおさえて、セレンが風にのるような声をあげた。「気持ちいい……」
風は彼らの前に広がる草々をなでて通りすぎていく。
背の低い植物がいっせいにひとつの方向へとなびくさまは、まるで波のようだ。
そこは広大な草原――
色あざやかな植物の絨毯が、視界いっぱいに広がっている。
遠くを見れば、ところどころに木々もある。低いが山もあった。遠い森や山のシルエットは、平らなこの土地にほどよくアクセントを添えている。
シグリィは軽く目をとじ、胸いっぱいに空気を吸い込んでみた。
体の中が、清涼感にみたされる。
一晩を越す航海で緊張していた四肢から、力がぬけていく。
彼らが島についたころ、夜はすっかり明けていた。空が白み始めたころは少し寒かったが、今はそれもなくなり、春らしいおだやかなあたたかさがある。
「無事つけたな」
カミルを伴って船を簡易な係船柱につないでいたジオが、両手を腰にあてて安堵のため息をついた。
「まずは第一関門突破、ってトコロか。――お前ら、本当につえぇんだな」
「“迷い子”の個々のが弱かったんですよ。≪扉≫が開いた直後の“迷い子”は大抵力がないですから」
シグリィはそう説明した。
彼にとってはそれは当然の理屈だったのだが、ジオは顔をしかめた。もともといかつい顔がさらに迫力満点になる。
「……あれで“力がない”ってのか。たまったもんじゃねえな――」
――彼の住む町ガナシュは、その“弱い迷い子”におそわれたのだ――
ったくよぉ、とジオが意味もないぼやきをこぼした。
「“迷い子”ってのは、死んだ人間の魂が還ってきたんだっつーじゃねえか。そのせいで、聖職者なんかは“迷い子”を殺せないとか? 俺には信じられんね」
「そうですね」
しずかにそう答えたシグリィに、ジオは意外そうな顔をむける。
「あんだ? おメェも信じてないってのか?」
「確信はないですよ。“信じていない”という個人的な感想だけです。どちらにせよ証拠がありませんから」
「……お前、いくつだ?」
「歳ですか? 十六です」
「十六ねえ……」
ジオは訝しそうに目を細めて、シグリィをじろじろと眺めまわす。
「――十六にしちゃ、お前理屈っぽすぎねえか。俺の知ってる十代ってぇのは、もっと感情にふりまわされるカンジだがな」
「……そうかもしれませんね」
シグリィは苦笑した。
「あら、いいじゃないオジサン」
セレンがぽんとジオの肩をたたき、「シグリィ様は人よりちょっと考えるのが好きなだけだもの。自分の心が世界のすべてだと思いあがってる人間よりいいでしょう?」
「……言っちゃあなんだが、そういうお前さんが一番“自分の心第一”な人間に見えるぜ、嬢ちゃん」
「あ、失礼な!」
セレンが細い肩をいからせて怒る。シグリィは笑った。ジオはなかなか人を見る目があるようだ。
「シグリィ様」
船の点検を終えてシグリィの傍らまで寄ってきたカミルが、おさえた声で話しかけてきた。彼は油断なくあたりに目を配りながら、
「……空気がきれいですね。ずいぶんと」
「そうだな」
――空気が澄んでいる。乱れた様子もなければ、異質なものがまじりこんだ気配もない。
「“迷い子”が上陸した可能性は低い、か……」
かの獣たちは本能のままに生きる。獲物――人間――を捕食するために『気配を殺す』ことはあっても、“捕食した後”や“人間を襲わないとき”にその気配をわざわざ消すことはない。
その彼ら特有の気配を嗅ぎとることに秀でているのが、カミルの右手にある《印》――白虎である。
いや、とシグリィは考えを打ち消すように頭をふり、
「まだ分からないな。――ジオさん、ここから皆さんが住んでいる場所までどれくらいです?」
セレンと言い合っていたジオが、顔をこちらに向けた。
「遠くはねえな。1キロとちょっとってとこか」
「1キロ……」
「えー? まったく人の気配しないのに?」
セレンが手にもった杖を意味もなく揺らしながら周囲を見渡す。
ジオはやや南西の方角を指さした。
「おら、森があるだろ。あの向こうだ。すぐに見つからないように、森の陰に村を作ったんだ」
「でも人の気配が――」
セレンが不安そうに眉根を寄せる。彼女は白虎ではないが、長く旅人をしていると“人里の気配”には敏感になってくる。そして彼女はおそらく“人里の気配がない”と感じているに違いない。
しかし、シグリィはそんな彼女に首をふった。
「感じられないのは人の気配じゃない、《
「あ……」
思いあたって、セレンが口をつぐんだ。
ここはエルヴァー島、“福音の島”。
住むのは《印》をもたない者だけ。
「とにかく行くぜ、連中の顔見るまで安心はできねえしな!」
ジオが肩を大きく回して、「さあついてこい!」と大股に歩きだした。
この島には、はっきりと整備された道はない。
けれど人がよく通る場所は、自然と踏みならされる。
今、ジオが迷いなく通っていく道も、そんな踏みならされた道だった。人がひとり通るのがやっとの細い道だ。
「ここに生えてるんのぁ全部薬草だっつーからな、踏み荒らすのは気がひけんだよ」
ジオが後頭部をがりがりかきながらそう言った。だから、細い道しかできなかったらしい。
「薬草じゃなきゃ、踏んでもいいってわけじゃないじゃないの、オジサン!」
「ぐ……っ。だ、だがなぁ嬢ちゃん、薬草ってのぁ、ホラ、やわっこいじゃねえか! 踏んだらすぐ枯れちまいそうな、な?」
「……弱い植物はたしかにすぐ枯れますが。ジオさん、それは薬草もそれ以外も同じですよ」
「かーっ! わぁるかったなあ!」
シグリィにまでつっこまれ、ジオは髪の毛をかき乱した。
厳密にいえば、植物というものはそのほとんどが何かしらの効能をもっている。あまりに効果が小さかったり、人間には意味がなかったり、あるいは効果が出るのに必要な量が多すぎるため、薬草とは呼ばないものが多いだけだ。
しかしこのエルヴァー島に生える草花や木々は、シグリィの見る限り一般的に薬師が「薬だ」と認識しているものがほとんどだった。この島は南にあるから、さすがに北国の草はないが、
(……人がいないせいだろうな)
足元のみずみずしい春草を見おろし、シグリィは思った。
(人里を避ける草花が、多い……ふだんは崖だの岩陰だのに生えるものまである)
この島唯一の人里にたどりつくまでの、ほんの1キロほどの距離でもそれが分かる。
つまり、大陸では入手困難なものが多いということだが。
だから――
「カミル。この島に立ち入り禁止令が出たのは二十年前だったか?」
「そうです。グランウォルグ前国王が、無理を言い出したことで」
「無理……か。そうだな、ここは別にグランウォルグの国領ではないからな」
人が住むには不便すぎる小さな島であり、一方でどの国もほしがる薬草島であることが理由で、この島は長い間どこの国の領土にも属さなかった。主に南のマザーヒルズと西のグランウォルグがにらみあい、それを遠くから我関せずと眺める
たがいに牽制しあい続け幾年月。
二十年前、前グランウォルグ国王が突然宣言したのだ。
『この島は、ひとつの国ではない、この大陸に住むすべての人間が保護すべき土地。それゆえ
この島を踏み荒らす者は、すなわち大陸全土にとっての宝を踏み荒らす者。グランウォルグはそのような輩をゆるすまじ。
北方諸国連合や東のアザルス総領国、そして何より南のマザーヒルズ国に向けて出されたこの宣言は、何一つ正式なルールにのっとっていない。
問題はたったひとつ――
大陸きっての軍事国家である、大陸の眠れる火山のようなこの国を、へたに刺激するわけにはいかなかったのだ。まして前国王は、グランウォルグ王家に恥じない好戦的な男だった。
グランウォルグに戦の口実を作らせるわけにはいかない。
――要はエルヴァー島に手を出さなければいい。
薬草は惜しいが、戦のない世界はもっと惜しい。北と東と南はそう判断した。
「グランウォルグにしてみれば、他の国々にこの島を取られるよりは誰も入れないようにする方がいいということだろうな」
「そうでしょうね」
そのまま時は過ぎ……
五年前、グランウォルグ前国王は崩御した。
かわって国王の座についた息子は、父ほど好戦的ではなかった。父ほど自信家でもなかった。
新国王は父の宣言を取り消さなかったが、彼のもとではその禁止令は力がない。そのため、各国からちらほらと薬草を求めてこの島へ入る者が出始めることとなる。
そして、この地に下りた彼らは驚愕した。
――出入り禁止だったはずのこの島に、人が住みついている。
森を迂回して越えると、森に抱かれるようにして村が現れた。
といっても、森に面していない部分は高い石垣に囲われていて、村の中の様子は見えない。
「石垣は無事みたいですね」
シグリィは高くつまれた石をなでて言った。
入口は、木でできた門で閉ざされている。
「門はどうやって開けるんですか? ジオさん」
「外から叩いて声をかける」
「……門番は?」
「内側にいる。まあ戦闘訓練を受けたようなやつが島にはいねえしな、連中はひたすら護りに徹してる」
言いながらジオは、門を言葉どおりに拳で強く叩いた。
「おいこら、俺だ、ジオだ! 無事かてめーら!」
「……うーん、乱暴だけどジオさんだってすぐ分かる挨拶ねえ」
セレンが指を唇にあてて、感心した。
ふとそのセレンを見たカミルが、なにげなく荷物から彼女のストールを取りだし、彼女の肩にかけた。
セレンは不思議そうに傍らに立った青年を見あげ、
「別に寒くないわよ?」
「……露出狂が来た、と思われるのはいやでしょう」
「誰が露出狂なのよこのヘンタイッ! そんなに露出してないわよー!」
「女性が腕を出すのは珍しいんですよ」
「うっさいわねそれ西の話でしょ! ここは南じゃないのー!」
――カミルの白虎の《印》は手袋で隠れている。
だが、セレンの肩にある朱雀の《印》は、隠れていなかった。
「とりあえずそれで肩を隠していてくれ、セレン」
とシグリィがつけ加えると、セレンはカミルをにらみながらストールの前を合わせた。
最初から理由を言えばセレンとて抵抗などしないというのに――。シグリィは知らん顔のカミルを見て苦笑する。
門の内側から声が聞こえたのは、それと同時だった。
「――ジオ? 本当に?」
門の中央に、細い穴が開いている。声を通すためらしい。
声はとても若かった。少年のようだ。
「そうだ、俺だ。無事か?……つーか、お前が門番やってんのか?」
ジオの怪訝そうな問いを、向こうは無視した。
「……今、女の声が聞こえた気がするぞ。だれだ?」
「俺の護衛だ。なんせ今回はユードに会えなかったんでな」
「女が護衛?」
「男二人女一人だ。信用していい、《印》持ちだが悪いやつらじゃねえよ」
「でも――」
「それよりお前ら無事なのか? ≪扉≫が開いたのは知ってんだろ?」
何よりもまずそれを気にするジオに、声の主は少し口調をやわらげて、
「ここは何もなかったよ」
と言った。
セレンがほうと小さくため息をついた。シグリィもカミルも軽く体から力をぬいた。
石垣の向こうがガナシュの町のようになっているなど、想像したくもなかったのだが――そうならなくてよかった。
そーか、とジオがいかつい顔をほころばせる。
「そうか、よかった……」
――あんたの町は、と門の向こうの声が問う。
「ガナシュか? おめぇらが気にすることじゃねえ」
「やられたのか?」
「気にすんなって」
「――まさかあんただけが生き残ったとか――」
「ねえよ! そう深刻な考えかたするんじゃねえ、ハヤナ!」
ジオは極力軽い口調で呼びかける。
あの惨状の
「それより開けてくんねーか? お前らの無事な姿、この目で見てぇんだ」
門の向こうがまた沈黙する。
いや――小さな話し声がする。やはり門番は一人きりではないらしい。
やがて、誰かが走り去っていく足音のあと、鉄のこすれる音がした。
「お、開くぞ――」
ジオが一歩退く。木の門は、ぎいぎいと音をたててゆっくりと開いた。
そこにいたのは、いずれも二十に届かなそうな年齢の若者たちが三人。
「ジオ。わざわざ来てくれてありがとう」
さっきからジオと話していた声の主は、中央の少年のようだった。年齢はシグリィと同じくらい、若草色の髪を襟足まで伸ばしている。両側の二人は手に武器をもっていたが、この少年が持っていたのはバスケットだった。シグリィは、パンが焼けたばかりの匂いがしていることに気づいた。
ジオは背の低いその少年を見おろした。
「お前さんは、――ああメシを持ってきたのか、ハヤナ」
「そうだよ」
応える少年は慎重にジオの背後にいるシグリィたち三人を目でさぐっている。
とても健康的に焼けた肌。強い眼光ははしばみ色だ。《印》の気配は、もちろんない。線はやや細い感じがするが――
ん? シグリィは首をかしげた。何か違和感が……
もう一度目の前の人物を観察して、ようやく分かった。ほんの少しだけある体の丸み。ああそうか服装は男物でも、
「女の子か」
独り言のつもりでつぶやくと、ぎょっと目の前の少年、もとい少女――ハヤナが身を引いた。
「ちが……っ! ぼくは女じゃない!」
「ん……? そうなのか? 悪かった」
「そそそうだ、男だからなっ! 間違えるなよ!」
頬をそめてつんとそっぽを向く様子が、やはり女の子のしぐさだったが――シグリィはそれ以上つっこむのはやめておいた。本人がそう言っているなら、まあそれでいいだろう。セレンが「かわいーのにー」と残念そうにつぶやいているのが聞こえたが。
ハヤナはごまかすように咳払いをして、
「と、とにかく!――今マーサを呼んだから! 悪いけど、しばらくここで待ってて。ジオはともかくよそ者は簡単には入れられない」
とあくまで慎重さを装った声音で言う。
ジオが困ったように頭の後ろをかき、シグリィたちを見る。
シグリィは微笑んでうなずいた。
「いいですよ。とりあえず私たちの目的のひとつはジオさんと同じでしたから、まずはそれで満足ですし。他のことは急いでいません」
かまわないな? と連れの二人に目配せすると、
「私お腹すきました……」
セレンが自分のお腹に手をあてて、ふにゃら~と砕けていく。「いい匂いがするんだもん……」
「あれは門番の方用ですよ。あなたのためにはありません」
すかさずカミルが彼女の背中を叩いて、「しゃきっとしなさい」と立ち直らせる。
「もう少し我慢してくれ、セレン。さっき通り道に食べられる花があったから、話が終わったら摘みにいこう」
セレンが、はぁいと力なく返事する。
そのやりとりを聞いても、ハヤナと門番は何も言わなかった。言いたそうな様子だったが、口を開かなかった。パンを分けてあげる、とも、うちでごちそうする、とも言わない。
つまりそれが、彼女たちの立場なのだろう。
シグリィは軽く目を細めて、ハヤナたちの肩の向こうに見える村を見る。
こぢんまりとした木造の家々が、肩を寄せ合うようにして建っている。
森の陰に隠れて、ひっそりと暮らす彼ら。
外からくる者には、どうしても警戒しなくてはならない彼ら。
自分らはそう簡単に受け入れてもらえるはずがない。島の人々の無事を確認する以外は、急ぐ用事ではないのだから、まずは彼らに従おう。
そう思ってまばたきをしたシグリィは、しかし心の奥底でたしかな焦りを感じていた。
目を閉じる。自分の内側と向き合う。
――はやく、と。
心がさわいでいる。
――なぜ?
脳の片隅に青い光が走る。
闇夜に流れた一条の光。
流れ星。
――この島に落ちたのだろうか?
その正体をたしかめたい。はやく――
「お待たせしました。私がマーサです」
シグリィはゆっくりと瞼をあげた。
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