Side:Ranarnya 03

 シレジア島からさらに南に行った先の孤島――

 そこにあるのが、女神イリスをまつった神殿である。


 シレジアは豊かな植物に包まれた土地である。それはこの孤島も例外ではない。木々よりも草や花々に恵まれた、小さな小高い草原のような島――色とりどりの花が咲き乱れるには今はまだ少し早く、見渡す限り新緑が広がっている。

 島自体はとても小さく、一周するのに人の足でも数時間しか必要ない。それが春が深まれば、まるで古代に人々が夢見た天国のように麗しい世界となる。

 そんな、海にぽつんと浮かぶ楽園のような島を包むのは、世界でも類を見ないほどみどりをしたさやかな色の海――


 けれど、そんな景色の中でその建物だけがあまりにも異質だ。

 初めて目にする者ならば、そこが世界を司る四神の一柱ひとはしらたるイリス神に祈りを捧げるための場所だなどと絶対に信じないであろう。何しろ飾り気というものが何一つない。まるでぶ厚い石材をくみ上げただけの巨大な箱なのだ。

 もっとも外側の壁だけは丹念に磨き上げたらしく、元は光沢があったとの話である。だがそれさえも、長い年月風雨にさらされ、いまやこけに覆われていた。


 ここには数年に一度、祈りのために巫女が訪れる。

 そしてそれ以外の人の出入りはまったくない。

 神殿を美しく保持するための人材が派遣されていないのである。そのため建物の内部もひどく荒れている。まるで放置された廃墟はいきょのように。


 ラナーニャが初めてこの神殿を訪れたとき、共に父王もいた。優しき美の女神イリス神のための祈りの場に向かうと聞いていた幼いラナーニャは、建物を見て目を丸くしてしまった。


「イリス様、怒らないのか?」


 思わず父にそういてしまったのを覚えている。


 吟遊詩人が好んでうたうイリス神の美しさを、シレジア人はとても誇りにしている。ならばそれにふさわしく神殿を飾るべきではないのかと、おそらく今までに何人もの人々が言ったであろうことを、ラナーニャも父に進言した。


 しかし、父は否と答えた。


「イリス様は、そういうことは好まないのだ。ラナーニャ、お前が好まないのと同じように」


 自分の嗜好しこうを持ち出されると余計に不満になる。

 自分はイリス神ではない、とすぐに反論した。イリス神は女性のかがみともいえる神で、自分のようにむしろ紳士服を好むような人間ではないはずだと。

 父はそんなラナーニャの頭に大きな手をのせて、ゆっくりとさとした。


「女性の中の女性だからこそ……飾る必要がないのだよ、ラナーニャ」


 あの頃はその言葉の意味が分からなかった。もやもやとしたものを抱えたまま口をつぐんだ幼き日の思い出。

 ……でも。


「今なら、分かる気がする」


 ざぶん、ざぶんと水面が跳ねる音を聞きながら、ラナーニャは独り言のように語る。


「本当の美とは、きっと飾ることではない。本当の女らしさとは、女性らしくふるまうことではない。……そういうことなんだろう」


 背後に控えたリーディナは、黙って聞いている。

 反対に、陽射しに照らされキラキラ輝く水面が、返事をしてくれているようだ。


 ラナーニャは今、小さな小舟に揺らされていた。


 神殿に行くときの決まりごとなのだ。神殿のある島は神域。大仰な船で行くのはイリス神の気質に添わない。

 せいぜい五人乗るのがやっとの舟に、ラナーニャ、リーディナ、そして船頭のたった三人。

 リーディナは侍女としてではなく、護衛としてこの舟に乗っていた。彼女は魔導師の多いシレジア国でも五指に入る、強力な術者なのである。

 そもそも、おそらくはその力を見込まれてラナーニャの教育係になったに違いないのだ。


 リーディナは貴族ではなく、貴族の遠縁の娘であるらしい。そんな彼女を第一王女の世話係に指名したのは重臣たちだったそうだ。長じるにつれて、ラナーニャは重臣たちの思惑を薄々感じ取った。彼らはつまり、ラナーニャの近くにはべる人間の数を極力減らしたかったらしい――だからリーディナは若くして侍女であり、教育係であり、護衛役なのだ。

 だが同時に、それを許した父王の思惑も感じ取った。

 ラナーニャに必要だったのは、多くの侍女と教育係ではない。広い王城で生きるための目印となる、たったひとり確かな相手だったから。


 朝早くに城を出立した。まだ太陽は中天にほど遠い。今は初春、この国としては少し肌寒いほどだ。

 リーディナもそれなりの正装をし――正装をするのは、暖をとるためでもあった――ラナーニャの傍から離れない。

 シレジア王族が亡くなるたびに、シレジアでは巫女に定められた人間が御魂みたま送りを行う。


 神殿での御魂みたま送りは、丸一日を要する。

 

 王城のことはヴァディシスと二人の弟妹、そして高官たちに任せてきた。元々ラナーニャは国政にあまり関わってこなかった、いや、関わらせてもらえなかったから、不便はないだろう。


(その私が……王?)


 父王の遺言が、胸に響く。最後の力を振り絞って告げた父。

 長女の名を、高らかに。

 ラナーニャは微苦笑する。今までろくに国政にたずさわらなかった自分が、まっとうな王として働けるはずがない。王族としての最低限の知識はリーディナに叩き込まれていたけれど、自分より若いのに会議にも出席している弟のオーディなどとは比ぶべくもなく。

 それに性格的にも向いていないと強く自覚している。上に立つ者に何より必要な資質は、下の者を動かすための指導力や人望、そして覚悟だ。

 自分など、相手の人生がかかっていると考えてしまった瞬間に何も言えなくなるに違いないから。


 何より、自分には四神の《印》がない――


 間違いなく反対者が出る。たとえヴァディシス叔父が後見人となってくれても。

 最後の最後になって、父は賢王たるその才能を眠らせてしまったのかもしれない。そう思わなくてはならない事実が悲しい。


 小舟から眺める水面はキラキラと輝かしく、痛いほどにラナーニャの目を打つ。思わず顔をそらしかけた彼女の脳裏に、城での光景がよみがえる。

 まぶしく着飾る王室縁者や貴族や高官たち。彼らが近づいて来たときは、ラナーニャは隠れなくてはいけなかった。そうしなくては肌に刺さるほどの視線を浴びることになるから。


 ……父はラナーニャを日陰から救いたかったのかもしれなかった。

 王になれば、日陰から出られるのだろうか?――まさか。

 首を振る。王になっても変わらないだろう。きっと誰も自分のことなど見ない。力のない王など国には必要がない。自分にできることはせいぜい、イリス神の生まれ変わりと名高いこの容姿を使って、国のために虚勢を張り続けることだけだ。そしてそんな自分を盾にしながら、重臣たちは動く。


 国のために働く彼らを本当に護れるというのなら、そんな道も良かったかもしれない。

 けれどそんな茶番が長続きするとは、ラナーニャにはどうしても思えなかった。

 ――それに、同じ“護る”立場となるのなら。


「私は、兵士になりたい」


 ラナーニャがつぶやくと、リーディナの眉がと寄るのが分かった。


「姫様、戯言ざれごとをおっしゃらないで下さい。あなたは王なのです。先代の宣言がなされた瞬間から王なのです。それをしっかり胸に刻んで下さいませ」

「まだ、周りの者の賛成は耳にしていないよ」

「ヴァディシス様が後見人になって下さるとおっしゃっているではないですか」

「そうなんだが……」


 ラナーニャにはそれがに落ちない。あの、国政には関わりたくないと逃げ回っていた叔父が、なぜ今になって自分の後見人に立候補する?

 ヴァディシスは学者だ。自称ではあるが、学問における能力は自他ともに認めるところである。突然国政に関わると言い出しても誰も反対する者がいないのは、何も彼の持つ正当な王族の血のためだけではないのだ。

 しかし――


『学者は客観的にならなくてはね、真実など見えないのだよ――だからわたしは、中央には行かない』


 それが彼の口癖だったはずなのに。

 そう口にすると、リーディナはぴんと背筋を張って、


「ヴァディシス様は昔から、あなたをかわいがっておいでです。あなたを放ってはおけないのです」

「そうなのだろうか」

「ヴァディシス様は賢い方。心配なさることはありません」


 リーディナに説得されると、ラナーニャは弱い。ぐうの音も出なくなってしまう。

 そうなのか、とつぶやいて、視線を落とした。


 確かにヴァディシスは、ラナーニャにあの突き刺さるような視線を見せない数少ない人物だ。同時に腹の底が知れない不気味さを常にまとう人だから、どうしても心を開く気にはなれないが――彼のラナーニャに対する態度はおそらく、『優しい』と形容してさしつかえないのだろう。


 ラナーニャとて、あの叔父が嫌いなわけではなかった。

 否。嫌いな人物なんか城にはいないのだ。憎いのはいつだって――自分自身だけ。


 あおあおい色が広がっていた。

 手を伸ばせば、海はすぐそこだ。透き通るような、シレジア自慢の海。

 じっと見つめていると、吸い込まれそうになる。知らず知らず手が伸び、自分は母なる海に滑り込んで、そしてその中を遊泳するのだ。

 そこでは何もかも……胸のわだかまりもきれいに流れていく。

 そして悲しみも。

 ぎゅっと胸に手を当てた。


「父上……」


 胸の奥が痛い。腹の奥も痛い。涙が出そうなときの予兆。

 ぐっと押し殺した。

 自分は巫女。心を静かに保って、御魂みたまが安心して昇れるように祈る巫女……


「姫様、神殿です」


 ゆっくりと目を上げた。

 小さな島がある。小さいのに、とても緑豊かな島がある。

 そしてそこには神殿がある。

 ――神殿以外、何もない。


 舟が神殿に乗りつける。

 ラナーニャは船頭にエスコートされて、舟を降りた。

 続いてリーディナが。

 船頭は、これ以上先には来ない。ここから先は、許された者しか入れない。

 リーディナは護衛として、国から特別な称号をもらい、神殿に入ることも許されている。

 ただしそれは緊急事態のときだけで、通常建物内に入れるのは巫女だけだ。


 神殿の入り口には像が建てられている。この敷地内で唯一の、神殿らしい彫刻である。

 波打つ長い髪。ぼかされた表情が、却って神秘的な雰囲気をまとわせる。

 細い腕を、誰かに差し伸べるように伸ばしている、その像。


 美の女神イリスは、慈愛の女神でもあった。


 何より特徴的なのは、この像には本物の植物の蔓が巻かれているということだ。不思議なことに誰が手入れしているわけでもないのに、しげりすぎて像が埋まってしまうということもなければ、別の植物に侵されることもないということだ。


 神殿の入り口で、リーディナはまずその像に礼拝した。

 その後、ラナーニャに向かって跪拝きはいする。


「姫様、神殿内ではお気をつけて」

「ああ」


 微笑んだラナーニャの足下を、ふいに通り過ぎたのは小さなリス……


(こんな小さな島にも、生命は息づいている)


 青々とした周囲の植物と、それにひそんでいる動物たちの息吹を感じて、ラナーニャは目を閉じた。


(この島には、人間だけがうかつに入ってはいけないとされている)


 人間だけが、別種なのか。

 ――人間が主のようにふるまっている大陸、そして母国シレジア島を思う。

 そこにも、“迷い子”という、人間最大の敵がいて。

 ラナーニャはまぶたを上げ、身をひるがえし扉のない神殿の入り口をくぐった。


(神よ、なぜなのでしょうか)


 問いは絶えることがない。考える限りは生まれるのが問い。そして……

 考えずにいられぬのが、人。


(なぜなのでしょうか……亡くなった人々がたどり着く先は、月闇つきやみの扉の中)


 人間には思考があり、知恵がある。そのために生まれてくるのはいつだって狂おしいほどの悩みだ。


(だというのに、月闇の扉が開く時――)


 世界は怨念おんねんに包まれる。

 ――それはまさしく、月闇の扉へと送られた人々の魂。

 そして魂は変貌へんぼうし、獣の形を取って地上に降り立つ。

 人間の血肉を求める猛獣へと。


 なぜなのですか、静かに昇ったはずの魂たちが、今度は人間を喰らうために降りてくる。

 あの漆黒の扉が開くたびに。


 ――月闇の扉 開く時――

 ――世界は哀しみに包まれる――


 何もない、廃墟のような石造りの神殿。

 なのに、あちこちにある隙間から差し込む光がラナーニャの先をうっすらと照らす。神々しい“道”となって。


 一人の巫女の足音が、カツーン、カツーンと響く。それが神のくだす声に聞こえるのはどうしてだろう。


 やがてたどりつく、神殿の奥。

 巫女はすっと跪拝きはいする。

 ラナーニャの前に、鎮座する一体の像。


 どこかから差し込む、ひときわ太い一条の陽光が、像の表情を照らし出していた。


 入り口に建っていた像に似ているようで似ていない。なぜならこちらの像は、大切な何かを抱くように、かいなを曲げている。

 そして顔も、それを見下ろすように。口許くちもとが微笑んでいて。


 まるで、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて喜んでいるような。


 ――この神殿に来るのは、王族が亡くなったときだけではない。月闇の扉が開いたときも、行わなくてはならない正式な儀式と定められている。

 けれどそのたびに、巫女としてこの神殿に来てこの像を見るたびに、ラナーニャはさらに疑問を抱えるのだ。


 人の死につながるときにこの神殿に来るというのに、

 この神はいつだって、


「イリス様……」


 ラナーニャの囁く声さえ、この神殿では大きく響いた。

 祈らなければならない。

 けれど、肩が重い。それは衣装の重さか、それとも、


「教えて下さい」


 何を言っている? 祈らなくては。天に送ってくれる神のあの腕に、父の魂を、


「父は、あの扉の中にくのでしょうか」


 送らなければ、御魂みたまを送らなければ、


「そうしていずれ、獣となってこの地に降り立つのでしょうか」


 違う違う違う静かな心で何も乱れのない心で大切な父王が安心して逝けるように


「もしもそうなら――」


 ああ、心がうまく動かない。

 奥底にたまっていた思いが、何よりも強い思いとなってあふれてくる。


「私は、父の魂をあなたの腕に預けたくはない」



 ――なんてことを。

 シレジア中からの非難の声が、聞こえるようだった。


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