第四章 其れは憤りという名の―7
いつも優しげな伯母の声が、うつろだった。
「アリム……おいで。その……人たちは、悪い連中なんだ……こっちにおいで」
逃げなさい――と。
「エウト伯母さん……!」
叫ぶと同時、アリムは目を見開いた。目の前にふらりと立つ伯母の姿。寝巻きのまま、両腕はぶらりと体の横にさげられ――うつろな笑顔を、甥に向けている。
「お――伯母さんに、何をしたっ!」
少年は激昂した。抱きしめるトリバーの腕にさらに力がこもった。我知らず、その腕から脱け出そうとしたらしい。
目を閉じろと、青年はもう言わなかった。――無駄だと知ったのだろう。
『この術は、お前には解けぬな……マギサ・ニクテリス』
トリバーが歯噛みする。彼も瞼をあげていた。
『少年よ』
声は、初めてアリムに向いた。
どこにもないはずの、視線を感じた。全身があわだつような不愉快な感覚に、アリムは「姿を見せろ……!」と空中に向かって怒鳴りつける。
あまりにうつろな伯母の姿が悲しくて悔しくて、怒りがあふれて止まらない。
『案ずるな。私の狙いはこの女ではない』
声は言った。
「なら、何が望みなんだ……!」
「――当然、こいつなわけだな?」
傍らでトリバーが低くつぶやく。その言葉に、アリムは目を見張った。
それはたしかに、考えるまでもなく……『当然』なことだ。
けれど。
――僕が、狙い?
『共にこい。少年よ。女と引き換えだ』
―奥歯がかちかちと鳴った。それは“恐怖”だったに違いなかった。
だけど、それでも、伯母の姿がつらくて――
『行く先でお前の命が危うくなることもなかろう。誓ってもいいが?』
おどけたような声音。
震えて噛み合わなかったはずの奥歯が、ぎりと噛みしめられた。
こんな、こんなふざけたやつに、伯母を……いいようにさせてはいけない。
「アリム……?」
トリバーが何かを察して危機感をおびた声音で呼ぶ。
アリムは肩越しに青年を振り返り、
「トリバーさん。伯母さんを……護ってくれますよね」
かすかに笑った。
「―――」
青年は何も言わなかった。ただ、静かに何かをこらえるかのようにいったん瞼を下ろし、そしてあげる。
「どこの誰かは知らないが……」
視線は下に向けたまま、トリバーはつぶやいた。
「こいつに、何かあってみろ――『背く者』の報復。知らないはずはないな」
『無論。私も無駄に『背く者』を怒らせたくはない』
いずれその日は来るかもしれぬが――くっくと声は笑った。
「アリム。……後から必ず行く」
彼女は任せろ―と。視線を伯母に移しながらそう言って、トリバーはゆっくり腕を離した。
「……後から、必ず行く」
繰り返す。
――これからどこへ連れて行かれるかも分からないのに?
それなのに、アリムは無条件にその言葉を信じた。
「はい。……待っています」
アリムは伯母に向かって一歩踏み出す。
目の前で、糸が切れたようにどさりと伯母の体が崩れ落ちた。
「―――!」
駆け寄ろうとしたアリムを――割れた窓ガラスから急に吹き込んだ風がからみとって、ふわりと少年の体が浮いた。
どこかで、高笑いが聞こえた。
けれどアリムは、トリバーが迷わず駆け寄って様子を見てくれている伯母のことだけが気がかりで――
かけらも、考えていなかった。
これから先、自分の身に何が起こるかなど。
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