第一章 其れは森が見つめる光―4

 川面がはじけるようにしぶきをあげる。その中心が盛り上がった。蛇のような水柱が、振り上げられた女の腕に導かれるように天に向かって躍り上がる。

「………っ!!」

 しぶきを浴びて、アリムは思わず腕で顔をかばった。

 にげて――

 耳の横で、そう囁く声が聞こえた――気がした。

 反射的に、アリムは逃げ出そうとした。

 静かな森が、にわかに騒ぎ出す。

 視界の端に女が――母と同じ姿をした女が、かざした手を振り下ろすのが、見えた。

 急降下する水柱。螺旋を描き、すさまじい勢いとなって、狙いたがわず背を向けた少年に襲いかかる。

 背中に重い衝撃。ふいに浮遊感が襲う。――足が地面から離れた。そして次の瞬間には地面にしたたか体をうちつける。肺が引き絞られるように酸素を失って、アリムは激しくあえいだ。その彼の背中を再び水の衝撃――

 冷たい冬の水をまともにかぶり、肌が急激に冷える。

 けれどそんなことは、今のアリムには自覚できることではなかった。ただ、意識と体が分裂するような感覚に襲われて。

 くるしい

 その言葉だけが目の前にある。

 否、もうひとつだけ――向こう岸の女の姿が、残像となって脳裏に残っていた。薄笑いを浮かべるその顔……

 ふいに三度目の水柱に襲われて、体が地面を転がっていく。口の中に水と泥の感触がする。体が拒絶反応を起こして、彼は何度も咳き込んだ。

 かすむ視界に、水柱の立つ川と、その傍らに立つ女の姿がぼんやりと映った。

 おかあさん――

 洪水のように記憶がよみがえる。優しい母。天気が悪いときは川に近づいてはいけないと教えてくれた。もしどうしても水が欲しいときに川が荒れていたなら、川の精霊にお願いしなさいと――

(……だけどぼくには、精霊の姿が見えない……)

 川が荒れている。お母さんならこれをおさめてくれるだろうか。お母さんはどこにいるのだったっけ――

 ――あそこにいるのは、お母さん?

 向こう岸の女の指先が、すいと何かを促すようにこちらに向けられるのが見える。

 呼応するように、水柱が激しくうねりしぶきを上げた。迫りくる水の先端がたしかに自分を目指している――

 アリムは目を閉じることができなかった。

 水が、はっきりと自分だけを狙って荒ぶっている――そんな信じられない光景をただ見つめたまま。

 先端が迫っている。不思議なくらいゆっくりと、ゆっくりと……


 ――お母さんは死んだんだ。

 思い出した刹那、目の前で水柱が四散した。


「あっぶないなー……!」

 風に乗るような軽快な声。

 銀色に閃いた剣筋が、水柱から支配を断ち切りただの水に戻す。

「生きてるかー? おーい」

 視界に影が落ちた。アリムはぼんやりと、その人影を見上げる。

 目の中に川の水が入ったのか――それ以外の理由か、世界がひどくぼやけて見える。そんな中、傍らに立ったその人の短い亜麻色の髪が、なぜかひどく映えていた。

 だれ――

 その疑問を声にできた自信はなかったが、唇は動いたと、自覚があった。

「よし。意識はあるな」

 立ったまま、満足そうにうなずく気配。

 その背後に新たな水柱が迫っている。けれどその人物は、振り向きざまの一閃でまたもやあっさりと水を黙らせた。

「……妖精ハイマ、ね」

 悲しげな呟きが聞こえる。

「お前の元はこの川の主……かな?」

 見ている先は、きっと向こう岸に違いなく。

 ……何を……言っているのだろう。ハイマ。あやかしのせい。その言葉は、たしか母も口にしていた―決まって悲しそうな顔で。

 あれはどうしてだったか……

 思い出せない。頭の中がごちゃごちゃで―体の奥底から、何かがじわじわと這い上がってくるような気がする。

 とても、とてもいやなものが。

「……もち……わる……」

 忘れていた苦しさが舞い戻ってきた。呼吸が徐々に早まっていき、やがて呼吸の仕方が分からなくなっていく。

 アリムの異変に気がついたか、剣を手にした人影が振り向いた。

「お前――? おい!」

 その瞬間を狙って再び川面が水しぶきをあげる。

 迫った水柱は、察していたかのようにあっさりと剣に切り払われて四散したが、

「……逃げたか。くそっ」

 悔しそうな気配はほんの一瞬。

 追うことよりもアリムの様子が気にかかったらしい。傍らに膝をつく気配があって、気がつくと琥珀色の瞳が目の前にあった。

 男の人だ、とアリムはようやく思った。自分より少し年上くらいの……

 その青年が、こちらの様子を見て険しい顔をした。

「お前――水を飲んだろう?」

「………」

 口の中に泥が残っている。

 たしかに何度か水を吸い込んだ気がする。

「妖精が触れた水はもう飲み水にはできないんだ。ましてやあれぐらい強い妖精では毒になっていてもおかしくない――おい、しっかりしろ……!」

 どく、とは何だっけ――

 分からない。もう何も分からない。

 ただひとつだけ、

 母の面影だけが視界に浮かんでいて、

 ――困った子ね、と母が微笑んだような気がした。

 けれど、街に時おり出向くとは言え――アリムにとってこの森で彼を支えてくれたものは母しかなく、世界にはそれ以外に確かなものがないのだ――

 すがる相手は母しかいないのだ。

「おかあ……さん……」

 ――精霊があなたを守ってくれる――

 返ってくる声はただそれだけ。目の前が真っ暗になって、そしてアリムは気を失った。

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