第一章 其れは森が見つめる光―2
風の歌が聴こえない。
まだ日の昇らない空を、目を細めて青年は見上げた。
――精霊の気配がする。
(間違いなく
風精は歌うことが好きだ。歌と言っても言葉はない。旋律―あるいは、彼らが生み出すそのものが彼らの“歌”と言ってもいい。
けれど……
彼は常に眠たそうで不機嫌なその表情を、さらにしかめる。
――風がない。
風精の気配は、たしかにすると言うのに。
(どれだけ風精が気まぐれとは言っても……異常だな)
ただでさえ寒い冬のこの日だ。へたに風を起こしてさらに寒くしてくれても――困ったことにいたずら好きで知られる風の精霊は、しばしばそういうことをする――まったくありがたくないのだが。
――東のはるか彼方から、空が少しずつ白んでくる。
すでに街のほうでは忙しく働き始めている者がいるだろう。彼らの凍えを少しは癒してくれそうな、にごりのない太陽の気配。
青年がいる場所は、人通りをはるかにはずれた……彼の
これほど天候がよくてもやはり寒い。経済上の理由で厚着をしていないことに、胸中舌打ちをする。個人的に厚着があまり好きではないということもあるのだが、さすがにこの時期はつらい。
肩をすくめる――精霊にどんな異常を感じようが、自分にはどうしようもないのだ。
さしあたっては自分自身が暖を取りたい。そう思い、店内に入ろうとドアに体を向ける。
と、ふいに気配を感じて動きをとめた。
考えるより先に体が動いた。ほんの一歩分、横へ避ける。
一瞬前まで彼の居た場所に、すとんと誰かが降り立った。
「うおっ。よけられた!?」
上から落ちてきた人影が、嘆くように声をあげた。「ちぇー。せっかく肩にうまく着地してやろーと思ったのに!」
「………」
避けた青年は、無言で片足を上げた。
そして無言で、相手の横っ腹を蹴りつけ始めた。げしげしと。
「痛い痛いちょっとたんま! 暴力反対!」
情けない声を上げた相手に静かに返答する。
げしげしと片足は働かせたまま、淡々と。
「悪いが俺は、自分の身に害を与えようとする存在には容赦はしない主義なんだ。とりわけ人の上に着地しようなどという非常識な存在はこの世から抹消した方が世のため俺のため」
「待て! それはアレだ、地面におりるよりはお前の肩の方が降り心地がよさそうだったからついっ!」
「理解不能の理屈をぬかすアホも大嫌いなんでね」
「いいだろ頭に着地するよりは!」
「お前はいったん脳を手術したほうがいい。とりあえず治療院に送ってやるから、遠慮なく受け取れ俺の親切の足蹴りを」
相手がやっとで地面にしりもちをついて「降参ー!」と訴えたところで、ようやく蹴りつける足を止めた。 ふだんからこういう扱いを受けている身としては、この機会にもっとやり返してやりたかったのだが……まあそこは人として。
人道主義では決してないが。
地面に座り込んだ相手――自分より二つ歳下の青年は、何かをこらえるかのように、ううっと芝居がかった仕草でうめいている。
「無念……せっかく友情を深めようと必殺肩車の術を編みだして、ようやく実行に移すチャンスがめぐってきたと思ったのに――」
「必殺。お前は俺を殺す気か」
「くっ。ならば奥義でどうだ!?」
「……要するにお前、単に俺を踏みつけてみたかっただけだろうが」
冷たい目で見下ろす。
歳下の青年はへらっと笑って、
「分かる?」
――すかさず飛んだブーツの先端は、すっとぼけた友人の額をまともに打ち飛ばした。
「うう……ちょっとさすがにダメージがすごいんですが、癒してはいただけないでしょうかトリバーさん……」
額を真っ赤に腫らした友人が、ちょっと泣きそうな顔で懇願してくる。
まだ二十歳になっていない彼は、その表情だけを見ればどうしようもなく幼い。
短く切った亜麻色の髪は、あれだけ足蹴にされていながらまったく乱れていなかった。
それはまるで、絹糸のように細くてなめらかな髪だと、かつて知り合いの女性が言っていた。
とは言えそんなことに感動を覚えるわけもなく、泣きそうな顔の彼をトリバーは無視して、再び店内に入ろうと身を翻した。
訴える声はまだ続く。
「無視するなってばー」
「……自業自得って言葉は知っているか?」
「いやあの、謝るからさ。―真剣に今はちょっと、治してほしいんだけど」
軽薄な調子の声が、一瞬にして切り替わる。
彼特有の――風にまぎれるかのような、静かな旋律のような声。
トリバーは振り向いた。
亜麻色の髪の青年が、滅多にない静かな顔で彼を見返していた。ただそれだけで、トリバーは察した。
「……出かけるのか?」
「………」
「風精がここに来たのは……お前に会いにか」
「――ちょっと、頼まれごと」
歳下の青年は軽く目を閉じて続ける。
「今から北東の森に行く」
「北東の森だと? まさか進入禁止地区の――」
「呼ばれたんだ」
きっぱりと、トリバーの言葉を遮るように友人は言った。
トリバーは口を閉じた。目を細めて友人を見、それから……軽くため息をつく。
コートのポケットにつっこんだままだった右手を空気にさらした。意識を集中させる。――右手が熱を帯びるのを感じる。
そのままその手で、友人の腫れた額に触れた。
ほんの一瞬で、額の赤みがひく。続いて彼は、自分が何度もブーツを叩きこんだ友人の脇腹にも手を触れた。
すべての痛みを忘れて地面から立ち上がった友人に、苦々しく吐き捨てる。
「……せっかく少しは痛みを分からせてやろうと思ったのに」
「いや痛かったって」
「黙れ。どうしてけっきょく俺自身が力を消耗してまで癒してやらにゃならんのだ」
「うんまあそこは、お前の運と要領の悪さじゃないかなあ」
「……いつか殺す」
癒しの術の反動でひどくだるくなり、どこかにもたれかかりそうになる体を何とか保ちながら(絶対にこのバカの前ではそんな姿を見せたくなかったのだ)、トリバーは毒づいた。
亜麻色の髪の青年は、ふわりと微笑んだ。
「感謝。きっちり務めは果たしてくるよ」
「当たり前だ。――帰ってきたら何発か殴らせろ」
言外に“必ず帰ってこい”と告げて、トリバーは背を向ける。
ようやく押し開けることのできたドアの向こうに足を踏み入れると、同時に背後で友人が動いた気配がした。
精霊の祝福は揺るがなき証
我が心、精霊と共に
紡がれた言葉が、やがて空気にまぎれて消える。
背後に友人の気配がなくなったことを感じながら、トリバーはドアを静かに閉めた。
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