05 個人的な問題
薄闇に佇むセリーヌのシルエットを見ながら、胸が張り裂けそうな想いに駆られていた。
どうして信じられない。彼女を傷付けてまで得る情報に、どれだけの価値があるのか。
兄とセリーヌ。ふたつの大事な物が天秤に掛けられた。今の俺にとって本当に大事なのはどちらか。答えはわかりきっている。
「何もない、なんて言うなよ」
気付けば、頬を涙が伝っていた。居ても立ってもいられず、立ち尽くす彼女の肩を掴んだ。
「
薄闇の中、その大きな目を向けて、黙って見つめ返してくるセリーヌ。そこへ滲んだ涙を見付けた途端、頭の中は空っぽになっていた。
もう、何も考える事ができない。ただ、彼女が消えぬよう。壊れぬよう。それだけを願っている内に、その華奢な体を強く抱きしめていた。絶対に離さないと心に誓って。
「ごめん、俺が悪かった。セリーヌを信じる。だから、どこにも行くな。ずっと、ずっと側にいてくれ」
「リュシアンさん……」
俺たちのすすり泣く声だけが、この部屋を静かに満たしていた。
☆☆☆
「空が……明るい……」
翌朝、全身の痛みで目が覚めた。床で寝ていたのだから当然なのだが、生殺しにされた気分だ。きっと気持ちは通じ合ったはずなのに。行為をして良いのは夫だけなどという、妙な呪いを刷り込んだ長老を改心させたい。
悶々とした気持ちを抱え、浅い眠りを漂っている間に夜が明けてしまった。ベッドの中で、規則的な寝息を立てるセリーヌが恨めしい。このまま襲ってしまえたらどんなに楽だろう。でも、あいつを傷付けたくない。心から大切にしたい。そんな呪縛を自分自身にもかけてしまった。
「自業自得か」
苦笑と同時に腹の虫が鳴く。そういえば昨晩は結局、食事を摂らず寝てしまったのだ。
さすがに空腹には勝てない。掛け布団と、床へ敷いた
「はれ? リュシアンさん……」
寝ぼけ
「はわわっ! おはようございます」
ベッドの上に正座して、乱れた髪を手櫛で整える。慌てた素振りも堪らなく可愛い。
「おはよう。顔を洗って、出発の準備だ」
身支度を済ませ、宿の一階で朝食を頬張る。給仕に現れた宿のオヤジが、人の顔を見ながらニヤニヤしているのが腹立たしい。
どうせ俺は、チャンスを不意にした奥手男だよ。あんたにはすまないことをしたな。
宿を出て、足早に馬車乗り場へ。その最中、隣を歩くセリーヌが怖々と俺を伺ってきた。
「朝から気分が優れないご様子ですね? やはり、
「いや。そんなことじゃねぇ」
「では、昨晩のことが……私が、猶予を頂きたいなどと言ったばかりに」
「だから違うって。セリーヌのせいじゃないんだ。俺の個人的な問題だから」
セリーヌに手を出せなかったことへの不満と、宿のオヤジのニヤついた顔。まぁ、オヤジにしてみれば『うまくやったんだろ』という示し合わせの笑みだったんだろうが、俺には小馬鹿にされた
「どういうことなのですか?」
訳がわからないという顔で、大きな目をパチパチと何度もしばたいている。
「どうもこうもねぇ。そもそも、セリーヌがそんなに可愛いのが問題なんだ」
「へ? はわわっ! そんな……きゃあっ!」
真っ赤な顔で後ずさったセリーヌは石につまづき、派手に転倒したのだった。
☆☆☆
「どうしたんだよ?」
今度はセリーヌがおかしくなる番だった。馬車を待つ間、一言も発せずにうつむいたまま。馬車に乗ったら乗ったで、迷わず最奥の席へ腰掛けてしまう始末。何か怒らせるようなことでも言っただろうか。
とりあえず、次の目的地までそっとしておいた方が良いのかも知れない。そう思いながら、入口から一番近い位置へ腰を降ろした。
ぼんやりと、後に続いてくる乗客たちを眺めていた。最初に乗ってきたのは四十代ほどの中年夫婦。まだ若い見た目にも関わらず、酷く疲れている様子だ。続いて、腕に包帯を巻いた男性や、青白い顔の女性、苦しげに呻く子供を連れた母親まで。きっと、彼等も大司教の奇跡の力が目当てなのだろう。
ブリジットの情報が正しかったと悟り、安堵の息が漏れた。もしも奇跡の力が偽物だとしたら、他の方法を探す宛も時間もない。正直、思い切った賭けだった。
気まずさと安堵。ふたつの複雑な想いを抱えたまま馬車は走り出し、シャンパージェを出てから一時間。なだらかな草原が終わり、木々が生い茂る林道へ入った。足場も悪くなり、砂と石が車輪を擦る耳障りな音。そして微細な振動が座席を通して絶え間なく伝い始めた。この後は林道を抜けて山道へ入るはず。そこを過ぎれば、カルキエはすぐだ。
だが、林道を進み始めて数分後、
「どうしたんだ?」
アーチ状に天井を覆う幌のせいで、外の様子がわからない。席を立ち、御者の背中越しに前方を見ると、林道を塞ぐように佇む巨大な陰。あれは猪型魔獣のサングリエだ。
焦げ茶色の体毛が全身を覆い、体のサイズは馬たちと同等。まだこちらに気付いていないようだが、鋭い牙を突き出した突進を受ければ一溜まりもない。馬車は完全に崩壊だ。
「あいつは、討伐依頼の……」
昨日、シャンパージェの冒険者ギルドで魔獣の情報も仕入れてある。あいつも、討伐ランクCでリストに載っていた。
見渡せば、車内には怪我人や病人ばかり。戦えるのは俺とセリーヌぐらいだ。
そっと視線を向けると、顔を伏せたまま動く気配もない。どういうつもりか知らないが、ここは俺だけでやるしかない。
幌から身を乗り出し、御者である中年男性の肩へ手を置く。すると男性は、驚きに身を震わせて俺を見上げてきた。
「すみません。驚かせちゃいましたね」
「急いで引き返します。座っていてください」
「引き返したところで、追い付かれたら全滅ですよ。ここは俺が囮になります。魔獣を引きつけている間に走り抜けてください」
「お客さん!」
御者を無視して荷台を飛び降りた。前方の魔獣へ駆けながら、ベルトに差したスリング・ショットを引き抜く。
討伐ランクC程度なら、魔法石は温存しておきたい。魔獣と馬車の中間地点で足を止め、眼下に転がる拳大の石を拾った。
「てめぇはこれで十分だ」
放った石が魔獣の額を直撃。目を狙ったのだが、俺の技術ではこれが限界だ。
甲高い悲鳴を上げた魔獣。次の瞬間には全身へ怒りをみなぎらせ、俺を目掛けて突進してきた。ここまでは狙い通り。
「来いよ」
スリング・ショットをしまい、素早く魔剣を抜いて攻撃に備える。そのまま魔獣を寸前まで引きつけ、慌てて林へ駆け込んだ。
ベルトに挟んだ匂い袋から、血液を再現した臭いが漏れてきた。怒りと臭いに釣られ、魔獣も後を追ってきている。荒い鼻息と木々をかき分ける音が、すぐ背後に迫っていた。
振り向き様、左へ飛び退きながら剣を一閃。その一撃が魔獣の胴を切り裂いていた。
呪いの影響による腕の痺れに加え、飛び退きながらの一撃では致命傷に成り得ない。距離を取ったサングリエは、おぼつかない足取りで再び体勢を整えた。
前脚で土を掻き、俺に狙いを定めている。再び突進が来るだろうが動きは単調。その速度を逆手に刃を当てれば、次の一撃で決まる。
だが、そんな俺の期待を裏切るように周囲へ殺気が膨らんだ。そして茂みから現れたのは、数頭のサングリエたち。
「おいおい……本気かよ」
どうやら俺が相手をしていたのは、群れを離れた一頭だったらしい。しかも追加の一頭は、額に斜めの深い傷。ギルドの情報通りなら、この群れを率いるボスだ。下手に匂い袋なんてものを持っていたせいで、余計な奴等を呼び込んでしまったか。
「こいつはどうしたもんかね」
もう笑うしかない。道具袋へ手を伸ばしたが、四方を囲まれた状態では逃げ切れる確証がない。神竜剣を持ち、
「四の五の言っても始まらねぇか」
背後へ閃光玉を放ると、まばゆい光が周囲へ拡散。同時に魔獣の悲鳴が上がる。
少しでも林道から離れるため、更に茂みの奥を目指して駆けた。
「がっ!」
直後、体が宙を舞っていた。左肩から地面へ落下すると、わけがわからないまま地面を激しく転がった。
揺れる視界に映ったのは、茂みの奥に潜んでいた別のサングリエ。あそこにいたのが全てじゃなかったのか。
腕輪のラインが緑と黄色の中間である黄緑へ変わるのを視認しながら、ゆっくりと迫る一頭を見据えた。何としてもここを切り抜けてみせる。
打ち付けた左肩が疼く。痛みが激し過ぎて感覚がない。そんな俺の心をへし折るように、左方へ更に二頭が現れた。さすがに茂みでは閃光が行き渡らなかったのか。
「次から次へと沸いてきやがって」
もたもたしていると打つ手がなくなる。まずは正面の一頭へ斬り込み、その体を利用して、二頭の突進を避けるしかない。
「目に物を見せてやるよ」
剣を握ったその時だ。突如、頭上から降り注いだ一本の矢。それが見事に、正面へ立つサングリエの眉間を射貫いていた。
「
正面の魔獣が横倒しになった直後、左方向で展開した紫電の渦。それがサングリエどもを一網打尽にしていた。
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