人の形の猛獣と娘
助けた娘が栄子ではないと分かると、瞬はあらゆる興味をなくしていました。
が。相手はそうではありませんでした。豊かな金髪を揺らして、同じく豊かな胸を腕で押さえつけながら、娘は瞬にすがろうとしていました。
--お、おら、ドリス・ミドルトンって言うんです。あの、ありがとうございます。ありがとうございます。おら……
瞬は人の良い笑顔を向けました。
--気にしないで良いですよ。単に年下の女性に乱暴する男を見ると、ちょっと嫌な事を想像してしまう性質なんです。あなたが無事で良かった。それで、さっきおらは死にそうなので、というのは?
はしばみ色の瞳を瞬かせて、ドリスは口を開きました。
--ここがどこか、わかんなくて……
--なるほど。
瞬は優しく微笑みました。
--奇遇ですね。僕もここがどこか分かりません。
ドリスが泣いたりすると面倒なので、瞬はさらに言葉を続けました。
--まあでも、なんとかなりますよ。とりあえず後ろを向いてますから、服を整えてください。悪漢のマントで血とかついてないのがあれば、それを使うといいでしょう。あ、そっちは僕がやりますんで、待っててください。
さてどうするるか。
笑顔の下で瞬は流行る心を押さえつけました。心に思うのは、栄子のことばかりです。
--何年も待った。待ち続けた。我がことながら本当に待っていたのかな。諦めることができなかった、だけかも。でもまあ、それでもいい。栄子ちゃんが、この景色のどこかにいるかもしれない。探さないと。それで探し当てたら、僕はようやく一〇年以上も前に過ぎ去ったはずの小学生時代を、本当の意味で終わらせられる。
瞬はそう考えながら、血糊のついていない悪漢のベストとマントを奪い、ついでに金目のものをポケットに入れて軽く死体を調査して、もういいですかと声をかけました。
「はい。紳士さま」
紳士さまってなんだと思いながらも、瞬は笑顔を浮かべて服を持って行きました。ボタンの取れたブラウスを絞って縛ってどうにか胸を隠したドリスに服を渡し、瞬は頭の中で計算しました。
--少し話を伺っても? ここに至るまで、外の風景が変わったりしていましたか? あるいは黒い池に落ちたり、とか。
--すみません。カーテンが下ろされていて、おら……--
--なるほど。馬車に乗っていたのはどれくらいの時間ですか。
--鐘一つ分の時間もないと思います。
聞き慣れない表現ですが、時計がないか、高価なら考えられる話です。日本もかつては寺の鐘で時間を知らせていました。
--馬車にはなぜ? 無理矢理乗せられた、とか。
--いえ、ロンドンに行くはずだったんです。おらに旦那様が大学に行くといいよっておっしゃられて」
知ってる地名が出てきて、瞬は軽く目を見開きました。
--へえ。あー。時につかぬことを聞きますが、今日は何年の何月何日ですか。
--一九〇一年の四月七日……ですけども。
--なるほど。
瞬は、頭を軽くかきました。
--僕の主観する時間とまったく違うどころか過去から来ているとでもいうのか。いや、でも過去ならこの馬車や馬も納得できるな、連中の格好も。この娘の格好も。
瞬はドリスの目を見ました。
--あー、最後の質問ですが、この風景に見覚えはない。確かですね。
--間違いねえです。おら、ちっさい頃から野山をほっつき歩いてて、そんでもこの風景はもう全然違うというか草の形も色も違って……
--なるほど。僕と同じで”落ちてきた”みたいですね。落ちて、と言う話はまあ、おいおいしますよ。今は日暮れまで、可能な限り移動しましょう。轍があればそこをたどれるし、なくても日中なら見通しがいいですから。
瞬はそう言うと、行動方針を瞬間的に変更しました。
歩いて行こうと思ったものの、馬車に乗って移動するという話です。馬車や馬という盗品から足がつくかもしれないという危惧が遠のいたと判断したせいもありますし、助けた娘を半裸で歩かせたくないと思ったせいでした。
--この荒野を歩いてゴールに着くかどうかも分からない。渇き死ぬ可能性すらある。
まあ、馬を連れていけば、最悪馬を食べればいい。馬の綺麗な目を見ながら瞬はそう思いました。
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