その指先に触れるまで時間のかかるじれったい恋物語

時田唯

第一章 その指先に触れるまで時間のかかるじれったい恋物語

第1話 指先に触れない恋の、始まりです

 ―西暦2001年/大樹歴201年/白の国―



 月並みな言葉で恐縮ですが、私、城木恵は恋をしました。

 お相手はおなじ高校の同級生、柏原誠さん。

 私がまだ、人間であった頃のお話です。


 彼をはじめて意識したのは、高校二年になってすぐのこと。

 普段の彼は、教室の片隅でひっそりと生きる草花のような方でした。線は細く、どちらかといえば柔らかい顔立ちで、普段から文庫本を愛読する口数少ない男性です。

 一般的には、影が薄いと言われるのでしょう。

 でも私は密かに、印象に残ることがありました。

 たとえば、日直が黒板掃除を忘れたとき。彼は誰にも言わず、黒板消しを手に取りました。

 教室に無造作に放り出された箒とバケツも、彼が通りかかると掃除箱に戻っていました。

 私は最初、彼が苛められてるのではと心配します。そのような事実があるなら担任教師に伝えようと密かに決意したのですが、ある日、彼が友達に話した言葉がそっと記憶に残りました。

「べつに、誰かに頼まれた訳じゃないんだ。ただ黒板の消し忘れで、あとで先生に全員が怒られるとかさ。掃除道具を出しっ放しにして、みんなが嫌な思をするのが苦手なんだ」

 イヤ、ではなく、苦手。

 素敵な言葉使いだな、と。心をくすぐられた気分でした。


 彼との縁が繋がったのは、紅葉実る秋口のこと。美術の授業で互いの似顔絵を描くという題目にて、私は彼と組むことになりました。男女の組は、教室で余りものとなった私達だけでした。

 私はいくつかの生徒から男女関係を揶揄する言葉を投げられました。彼が申し訳なさそうに謝ったため、私は「気にすることはありません」と、はっきり宣言して続けました。

「いえ。城木さん。俺が謝ったのは、そのことだけじゃないんです」

「と、いいますと?」

 柏原さんが口ごもった理由は、すぐに分かりました。

 彼には、絵のセンスが……ありませんでした。

「すいません、城木さん。放課後、俺に時間を貰えませんか」

 とくに悩むことなく、はい、と快諾したその日から、私達はゆるやかな放課後を迎えました。

 いまでも思い出します。

 二人きりの美術室には、絵の具と溶液の香りがふわりふわりと漂っていました。窓からは熱心な運動部のかけ声と鈴虫の声が響き、夕日が高層ビル群の中へ、ゆっくりと姿を隠していきました。赤焼けの空を横目に、私達はただ静かに過ごします。彼は白紙のカンバスに筆を走らせては悩み、私は文庫本を開いて黙々とページを捲ります。

「城木さんの時間を取ってしまって、すいません」

 柏原さんはたまに謝りましたが、私はこの時間が好きでした。

 学校という窮屈な水槽の中で、ほっと息をつくことを許される、この時間が。

 ……ですが私達の時は、長くは続きません。

 秋を越えて冬を迎え、苦手なスケッチもついに完成の時を迎えます。

 彼は私に、逢瀬の終わりを伝えました。

 その爽やかな笑顔に、――後ろ髪を引かれた、その時でした。

「城木さん。……良ければ、この後なんですけど」

 季節は移ろい、吐く息も白く染まる十二月半。

 彼は暖房の効いた美術室で、頬を赤くしながら背筋を正しました。

「これから、……いや。俺も男だから、言い訳はなしにします」

 それは、前触れもなく。

「好き、です」

 ……?

 私は一拍遅れて、理解します。

「絵が好き、という意味ですか?」

「いえ。あなたのことが」

「はぁ」

「……すいません。本当は、もっと早く絵を完成させることも、できたんです。ただ、俺はこの時間が惜しくて。ああ、やっぱ言い訳がましく、なっちゃった」

 小首を傾げる私に、彼は熱心に打ち明けます。

「俺は、つまり柏原誠は、城木さんに一人の女性として好意を寄せています。……突然のことで、ごめん。ただ、今日言わないと、ずっと言えない気がして」

 そのときの私の顔は、誰よりも呆けていたことでしょう。柏原さんが説明していることは理解できるのですが、現実味に欠けていました。頭のなかで、物事が上手く当てはまらないのです。彼が。私に。好意を寄せているという。

 好き?

「あ、の。失礼ですが、それは国語辞典で表現しますと、告と、白を、繋げた言葉でしょうか」

 はい、と口にした彼の顔は、耳まで赤く染まり、恥ずかしさで俯きがちでした。暖房のせいとは思えません。それで私も理解し、どーん、と頭の中が大爆発しました。

「なにかの間違いでは……?」

 私はお世辞にも美人ではなく、また一般的な女子から感性がズレている自覚があります。

 たとえば同級生の女子との会話に「接吻の適正年齢について」という話題が持ち上がったところ「ヤダ城木さん接吻って何それ古い、キスだよキス! てゆうかチューくらい中学生であったり前じゃん!」と、言葉の修正及び私の思考の歪みを指摘された女です。そもそも私はいつも文庫本を熱心に読み耽る女であり、骨董品店の片隅に並ぶ埴輪のような、古風な女だという自覚がありました。

 そんな私への告白に、意識が追いつかなかったのです。

 めくるめく誤解を重ねた私は、ある結論へと到着します。

「柏原さん。これは噂に聞く“カラダ目当て”というものでしょうか。でしたら私は丁重にお断りさせて頂きます」

「ええっ!? いや違います、本当に! まあ、全部違うかと言われれば困りますけど」

「やっぱり身体目当てなんですか?」

「そうじゃないです! けど、俺だって、手を繋いだりはしたい、かな……」

 二人きりの美術室で彼曰く「城木さんのことが好きなのは本当です。あなたは俺の憧れでした。けど、お付き合いをすると、手を繋ぐこともありますし、その……色々ありますから、カラダ目当というのも本当かもしれません。けど、俺は本気です」という説明を、熱意ある言葉と共に頂きました。

 このように迫られた経験は初めてで、身体がこたつのようにぽかぽかして、もう口が回りません。世の女性方はこの手の告白を軽くいなすのでしょうが、私は石像のように固まり、埴輪のような目をして「ほえぇ」と……なんかもうダメでした。

 彼はその戸惑いを、否定と受け取り、焦ります。

「あ、もちろん城木さんの許可がなければ指一本触れません! 約束します!」

 恋人同士でも、指先ひとつ繋がない。

 それは大問題だと思うのですが、当時の私は混乱していましたので。

「分かりました。では、私が許可を出すまで絶対に触れないでください……」

 私は、念を押してしまったのです。

 それが私達の、指先に触れない恋の始まりでした。


 冬休みに迎えた初回のデートにて、私達は互いに針ネズミのような距離を保ちながら、手近なコーヒー店で顔を合わせることになりました。

 彼に案内されたカフェは、綺麗にライトアップされた今風のお店でした。聞けば最近欧米から上陸したコーヒー専門店らしく、休日のカフェにはお洒落に精を尽くした若者達で溢れています。ヒョウ柄のジャケットを羽織った男性が「マジやばい」と口を開けば、対面のウェーブヘアを流した大人の女性も「マジうける」と、何かがとにかくマジなのでした。

 私は子猫のように震えてメニュー表を受け取り、思わず、くらくらします。

 ……ごめんなさい。

 メニューが、理解できないのです。

 モカに、ラテに、……マキアート、とは芸術の一種でしょうか?

 私は今まで、カフェとは澄まし顔で「コーヒーを一杯。ブラックで」と注文をすれば大人のコーヒーが出てくると思っていました。今までの人生において、コーヒーを口にしたことがなかったのです。なんということでしょう。

 とはいえ、柏原さんに知らないフリを通すのも気が引けます。

 聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥。

「柏原さん。こちらのラテとモカとは、何が違うのでしょうか」

「え!? ……えーと。………………すいません」

 彼はすぐに、私の前で格好をつけようとしたことを白状しました。話を聞いた私はそっと胸をなで下ろし、普段通りに行こうと意気込みます。それが大失敗でした。

 店員様からご注文はと聞かれ、私はメニュー表にあった馴染みのものを。

「では、私はほうじ茶で」

 注文して、はたと我に返りました。

 お洒落な若者ご用達カフェにて、私、ほうじ茶!

 いけません。こんな出涸らしみたいな埴輪とお付き合いしては、彼が可哀想です。

 対面型のテーブル席についた私達は、はじめて恋人らしい会話を口にしました。

「柏原さん。別れましょう」

「ええっ!? すいません、次までにラテとかモカとか勉強しておくので!」

「そうではなく、私のことを嫌いになったのではと」

「何がどうなってそうなったんですか!?」

 私は自分がほうじ茶を頼んだ枯れ草のような女であることを伝えると、彼は混じり気のない笑顔でくすっと微笑みます。

「俺、城木さんって、少し遠い人のように感じてました。いつも超然としてるって言いますか。だから、普通の感じが見えて、ちょっと嬉しいです」

「すいません、私、不器用なもので……それに、古風で」

 私がイマドキの女でないことを伝えると、彼はふしぎと笑いました。

「それが城木さんらしくて、俺は、好きです」

 彼が私に好意を寄せている理由は、分かりません。でも、その笑顔は冬景色のなかでも優しく、私の冷たい指先をほんのりと温めてくれました。


 二度目からは背伸びをせず、私達は気楽な場所を求めました。それは路地裏の喫茶店であったり、図書館であったりと、およそ最近の男女とはかけ離れたものでした。

 実際のデートでは、会話の八割方を彼が担っていた気がします。彼が将棋部に属している話。最近読んだ文庫やライトノベルの話。学校の話。

「城木さん。俺の話って、面白い……ですか?」

 はい、と私は頷きます。むしろ私こそ面白い話ができず申し訳ない気持ちになって謝ると、彼は笑って「私と会えるだけで嬉しい」と応えてくれました。

 柏原さんは決して無理強いをしない方で、歩調の遅い私に、いつも足を合わせてくれました。

 ――四度目くらい、だったでしょうか。

 彼からお誘いを受けた前日、気づけば胸が高鳴り、眠れない時がありました。

 最近、母親に無理をいって買ってもらった携帯電話。 たわいもないメッセージへの返信を、待ち遠しく感じました。

 互いに『おやすみなさい』のメールを送り終えたあとの、名残惜しさ。

 ベッドの上で携帯をきゅっと握りしめ、何とはなくもう一度『おやすみなさい』と打ち込むと、彼からも再び『おやすみなさい』と届いて、じゃれあう猫のように『おやすみなさい』をやり取りしたの覚えています。

 年を越え、二月のバレンタインには普段のお礼を込めて、彼にお手製のチョコレートをお送りしました。大変喜んだ柏原さんは、三月のホワイトデーのお返しにと、恒例のお菓子……ではなく、透明な星型の、携帯用ストラップを私にくれました。

「城木さんには、透明なものが似合う気がしたんです」

「どうして、透明が似合うと?」

「城木さんは、真っ直ぐで、純粋な気がして。理想的に、見過ぎてるかもしれませんけど」

 その晩、私は指先でくるくると、携帯に下がったストラップを弄ります。透明という言葉が綺麗な水のように染み渡り、嬉しくて布団をもふもふと抱きしめました。

 とはいえ、貰ってばかりでは城木恵の名が廃ります。

 三日後、私は彼に、金色にきらめく太陽のキーホルダーを送りました。

「柏原さんは、私に新しい世界を教えてくれましたから。太陽のように、新しい世界を」

 それでも私達は、未だ指先ひとつ繋ぐことすら、ありません。

 この時にはもう、彼に対する拒否感はありませんでした。けれど……。

 私は、タイミングが掴めなかっただけなのです。


 ――迎えた終業式。私達は高校二年の全課程を終え、三年生への道を歩み始めます。

 桜のつぼみが花開く、八分咲きの花道にて。私達は人目を忍び、共に帰路についていました。子供が母親に手を引かれて歩くやさしい河川敷にて、彼はすこし緊張しながら、私に寄り道を提案しました。

 予感があったことを覚えています。

「城木さん」

 昼下がりの太陽が、私達を祝福していました。

 彼の声が、緊張で上ずります。私が気づいたことに、彼も気づいて足を止めます。柏原さんは誠実な話をするとき、人の目を見る癖があります。

 彼の唇がすっと息を吸う、息継ぎがはっきりと聞こえました。

「嫌なら、嫌といってください。……良ければ、手を、繋いでも、いいですか」

 言葉に白い吐息が混じり、私は彼を見上げ、彼は私を見下ろしていました。柏原さんはどちらかといえば草食系の細い顔立ちでしたが、その唇は真一文字に結ばれ、男の人の顔をしていました。

 彼とお付き合いを初めて、およそ四ヶ月。指ひとつの距離。

 普通の男女であれば、焼き切れそうな程にじれったい間柄だったかもしれません。

 でも、私にとっては大切な時間だったと思います。

 私はすこしだけ、彼の視線から逃げました。

 そのときには、覚悟を決めていたと思います。

 ……私は静かに「はい」と頷いて。

 彼の言葉に応え、その指先を触れようとした――……そのとき。

 空気を裂く悲鳴が響き、はっと顔を上げると、河原を歩いていた母親と子供が震えていました。目の前に、髭を生やした中年男が目をぎらぎらと輝かせていました。右手には、銀色の包丁がきつく握られていました。

 包丁男が何を考えていたかは分かりません。分かりたくもありません。ただ、男は銀の刃をもって子供を庇う母親にのしかかります。驚く私の横から、鞄が飛びました。柏原さんが、男の顔面に叩き付けたのです。

 男が柏原さんを睨み、

 柏原さんが私の手を掴んで「逃げよう!」と叫び、けれど、

「っ、あっ」

 彼の足が、逃げ遅れた私の足先にひっかかって、もつれて転びました。

 男が奇声をあげて迫ります。

 太陽の光が、銀色の包丁をにぶく輝かせて。

 私は。

 彼を庇い、刃をその身に受けました。

 じくりと響いた鈍痛のなか、私は、包丁を掴みます。

 刃が抜かれれば、男はまた人を襲う。私は自らの身体に突き立てられた刃を握り、歯を食いしばり耐えました。

 ――彼を守りたい。守らなくては。

 その一念を、貫いたのです。


 男はやがて包丁を手放し、逃げ出します。

 城木さん、という柏原さんの悲鳴と救急車のサイレンが聞こえるなか、私はとにかく彼が無事だったことに安堵して、倒れました。

 昼時の太陽は私達を眩しく照らし、川面に光が跳ねて綺麗に輝いていました。

 身体中から力が抜け、意識が薄れるなか。

 はじめて、私は死にたくないと。

 心の底から願いました。

 ……骨董品のような自分でも。

 私を、好いてくれる人がいる。

 彼と、もう少しでいいから話をしたい。

 手を触れたい。

 指一つで、いいのです。

 どうか、奇跡を。


              *


 気がつくと、私は宇宙のような場所に立っていました。

 真っ暗な世界に、沢山の流れ星が……魂が飛んでいくなか、ふわふわと、私の身体だけが幽霊のように浮いています。

 目の前には、薄いベールを顔に被せた、占い師のような女性。

「こんにちは、城木恵さん。――あなたに、もう一度の命と、恋を」

 彼女がなにかを言葉にし、私の意識は再び落ちていきました。


              *


 ……――それから、どれ程の時が過ぎたでしょうか。

 気がつくと、私は仰向けで寝転がっていました。病院のベッドにしては硬く、布団もありません。

 血まみれの制服を着ているのに、お腹に触れても傷一つなく。

 ……夢?

 不思議に思いながら、身体を起こすと――

 目の前に、一面の空がありました。

 雲の海、と表現すれば良いのでしょうか。飛行機から見下ろす鱗雲が、彼方まで続いている。

 それが私と、この世界。

 異世界『浮遊樹海群』との出会いでした。

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