エピローグ(2)


さざ波が白い砂浜へ軽やかに押し寄せる。





 今日も空は青く澄み渡り、海は微笑んでいるように穏やかで、繰り返される波の音は心を洗うように透明な音色を胸に残す。





 砂浜に自分以外の人影はなく、まるでプライベートビーチにでもいるように落ち着いた、そして微かに高揚した気分で、湧磨は水平線を眺めながら待っていた。





 ビーチパラソルで作った日陰の中でビーチチェアに身体を横たえ、言われた通りに大人しく待ち続けていると、やがて背後から砂を踏む音が聞こえた。





「お待たせしました……ユーマ」





その声に振り向くと、一人の天使がそこに降臨していた。





 毛先が緑色の青く長い髪をポニーテールに纏めて、純白のビキニを身につけたその天使――アルテを湧磨は呆然と見つめ、用意していたセリフが全て吹き飛んだ頭でかろうじて言う。





「あ、ああ……似合ってるよ、アルテ」


「ありがとうございます……」





 恥ずかしそうに腰の前で手を組み合わせながら、アルテは足元を見つめてモゴモゴと言う。





 湧磨の隣に置いてあるもう一脚のビーチチェアに座ろうともせず、転校初日の転校生のようにまごまごし続けているアルテに湧磨も思わずまごまごさせられるが、男ならこういう時にリードしてあげなければと気を引き締め、





「なあ、アルテ。海に入ったことはあるか?」


「いいえ、ありません。私がこの場所を訪れたのは、以前、あなたと一緒に来たあの一度きりですから」


「そうか。じゃあ、試しに少し――」





 アルテに手を差し出そうとした時、通知アイコンが点滅した。なんだこのいい時にとメールをチェックすると、着信していたアリシアからのメールには、





『10分』





 と、ただそれだけが書かれてある。





 異様な威圧感を放つその三文字に「うっ」と息を呑むと、同じくアリシアからメールが着信したらしいアルテもそれへ見を落としてから、





「『約束を破らないように』と、アリシアから怒られてしまいました。しかし、私にその意思はありません。ユーマ、あなたは早くあちらへと戻るべきです」


「あ、ああ、そうだよな。解った。じゃあ、ちょっと待っててくれ」





 言って、湧磨は慌てて駆け出す。砂浜をもと来たほうへと走り、階段を上って通りへと上がり、商店の並ぶその通りをやや進んだ所にあるポータルからエクスマキナをログアウトする。





そしてハッと目を開けると、そこは早くも南国の海の景色からはほど遠い、座敷牢のように貧相なホテルの一室である。





 小さな冷蔵庫以外は文字通り何もない、だがなぜかネット環境だけは立派に整えられているその一室を、湧磨はブレインスキャンを脱いで後にする。





 『オーシャンビューホテル』とは名ばかりの安宿を上半身裸の水着姿で駆け出て、道路を挟んですぐ目の前に広がる浜辺へと跳ぶように降りる。





 寄せては返す波の音よりも吹きすさぶ強風の音ばかりが聞こえ、辺りにはシートを敷いた家族連れがまばらに座っている、香ばしい焼きそばやイカ焼きの香りが漂うその浜辺を息切らせて駆け抜け、やがてとある水玉模様のシートの上にガクリと手と膝をついてうなだれる。





「遅いですわよ、湧磨」


「無茶言うなよ、これが限界だ」





 ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らすアリシアのその装いは、お前はどうして海に来たんだと思わずツッコまずにはいられないものである。





 サングラスはいいとして、頭には麦わら帽子を深々と被り、顔には大きなマスクを着け、上半身には真っ白なフードつきパーカーを着込み、下半身にはトレンカという黒いタイツのようなものを穿いている。





 肌が見えているのは、耳と手とサンダルを履いた足の甲くらい。真珠の肌をなんとしても死守しようとするその努力には頭が下がるが、





「……お前、そんな格好で暑くないのか?」


「ええ、至って快適ですわ。……けれど、もしもあなたが『見たい』と仰るのなら、脱いでさし上げてもよろしくってよ」


「え? い、いや、俺は別に……」





 本気でそう言ったわけではない。思わず反射的にそう言ってしまって、湧磨はギクリと口を噤んだ。待ってましたばかりにマスクを外し、それからサングラスを外したアリシアの目が、まるで子犬の目のように潤んでいた。うるうると涙を浮かべて、こちらに何かを訴えていた。





 ――う……。





 こんな目で見られては、強がることもできない。湧磨は気恥ずかしさをぐっと堪えて、





「あ、ああ、見たい……かな」


「そ、そう? でも、いいのかしらね」


「何がだ?」


「わたくしのような美少女がこんな過激な水着姿になってしまったら、きっとそこら中から飢えた狼たちが寄ってくるのではないかしら。それに、あなたはわたくしのあんな所まで皆に見られてしまっても、なんとも思わないのかしら……」


「ちょ、ちょっと待て。お前、まさかエクスマキナにいる時みたいな、ワケの解らない水着着てるんじゃないだろうな」


「さあ、どうかしらね? けれど、まあ、しょうがありませんわ。あなたが見てみたいと仰るんですもの、わたくしは――」


「や、やめろ、早まるな!」


「え? きゃっ!?」





 アリシアがパーカーの前ファスナーを下ろし始めたのを見て、湧磨は慌ててそれを止めにかかった。が、アリシアが逃げるように向こう側へ倒れたせいで、その肩を掴もうとして空振りした湧磨は、覆い被さるようにアリシアの上へ倒れ込んでしまった。





「――――」


「――――」





 声を失ってこちらを見つめるアリシアが開けかけたファスナーの隙間からは、シンプルな黒のビキニがわずかに見えている。布面積は確かに小さめだが、ただのヒモのような水着を着ていたわけではなさそうで安心する。





 がしかし、腕で身体を守ろうとしているその体勢のために、ちょうどファスナーの隙間の部分に、大きな胸がむにゅっと寄せられて谷間ができている。





 それを見て湧磨も声を失い、身動きが取れなくなる。





 乱雑に投げ出されたアリシアの金髪が、空を映したように青いその瞳が、薄桃色の唇が、まるで全て自分の物であるかのように、いま目の前に捧げられている。





 アリシア以外の何も見えなくなり、鼓膜を打つ心臓の音以外、何も聞こえなくなる。





 抗えない、吸い寄せられる――





 誰かに身体を操られているような感覚を覚えながら、湧磨はその手をアリシアの桃色の頬に添える。添えてしまう。と、





ぐ~っ。





 妙な音が鳴った。





 それは今、アリシアの腹辺りから聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。というか、気のせいということにしたほうがいいのだろうか。





 目を大きく見開いて、まさに『マズい!』という表情をしているアリシアを見てそう思ったが、なんとなくスルーするという選択肢も間違っているような気がして、恐る恐る訊いてみる。





「……腹、減ったのか?」


「~~~っ!」





 耳を赤信号のように真っ赤にしながら、アリシアは両手で顔を覆い隠す。





 穴があれば飛び込みたい。そんな心の叫びが聞こえてきそうなアリシアの様子を見て、湧磨は慌てて目を逸らしながら立ち上がった。





「の、喉が渇いたから、飲み物でも買ってくる。お前の分も買ってくるから、ちょっと待っててくれ」





 きっとこれが正解だろう。プライドの高いアリシアである。慰められでもしたら、恥ずかしさのあまり走って一人で帰ったりしかねない。





 短くも濃いつき合いから湧磨はそう察して、海の家へ昼食を買いに向かう。





 しかしそれにしても、今のは危なかった。あと一歩で、俺は何かをしでかしてしまうところだった。俺にはアルテという心を決めた少女がいるのに。なのに俺は……。俺というヤツは……。





 動揺の余韻が残る胸を押さえながら、湧磨はプレハブ造りの海の家へ入る。と、すれ違いでそこから出て来た二十代くらいの女性と、危うくぶつかりそうになってしまった。





「すみません」





軽く頭を下げて湧磨がその横を通ると、潮風の音と店内にいる客の笑い声の中で、その女性が囁いた気がした。





「いいえ、こっちこそ。キミが無事に帰ってきてくれて、ホントによかったみゅん」


「…………え?」





 店内のメニューをしばし見上げて、それから驚いて背後を振り返る。





 店の外へと駆け出て、周囲を見回す。が、どの人物が先ほどすれ違った女性かはもう解らない。『みゅん』と聞こえたあの語尾が聞き間違いでなければ、あの女性がゆりりんの『中の人』だったのだろうか。





 昼メシなんて買ってる場合じゃない。湧磨はアリシアのもとへ駆け戻り、まだ耳を真っ赤にしながら顔を押さえ、三角座りをしていたアリシアの肩を掴んで揺すぶる。





「おい、アリシア、大変だ!」


「大変なのはわたくしの心ですわ。もうイヤ……お嫁に行けない……」


「あれぐらい気にするな! 俺なんて、買ったエロ商品の説明を女の子にさせられたんだぞ! それより、おい! 今、ゆりりんかもしれない大人の女の――」





 シートに置いてある湧磨のリュックの中で、携帯電話の着信音が鳴った。





 もしかしてと思いながら取り出して見てみると、それはやはりアルテからの着信であった。『応答』を押すと、





『ユーマ、十分が経ちました。こちらへ戻ってきてください』





 画面一杯にアルテの目が映る。





 まるでホラー映画のワンシーンのようなその映像に湧磨が思わず驚くと、アリシアがその画面を覗き混み、





「……アルテ、ちょっと近すぎですわ。怖いですわよ」


『申し訳ありません』





 顔を後ろへと下げて、通り沿いに並ぶ椰子の木を背景に、アルテはただじっとこちらを見つめ続ける。それをどこか苦しげに見つめ返しながら、アリシアは言う。





「あの……アルテ? もうちょっとだけ待っていただいてもよろしいかしら? わたくしたち、これから少しだけ食事を――」


『これはルールです。ルールは守られねばなりません。……あ』





 厳粛な瞳でこちらを見つめていたアルテが、ふとパチリと瞬きして目を丸くする。





「どうかしたか、アルテ?」


『それは……そこに見えるのは、本当の海でしょうか』


「ええ、そうですけれど……ああ、あなたはこちらの海を見るのが初めてでしたわね」





 と、アリシアは湧磨の手から携帯電話を取り、海のほうへ、それから海の家のほうへもそのレンズをゆっくりと向ける。





「こちら側はこのようになっていますのよ。わたくしはよく存じませんけれど、あそこでは食べ物などが買えるそうですわ」


『とても賑やかな、楽しそうな場所ですね』


「……そうですわね」





 淡々としているようにも聞こえるアルテの声の中に、微かに暗い色が混ざっていたことにアリシアも気がついたらしい。どこか気まずそうに返事をし、それから湧磨へ目を向けて、『早く行ってあげて』と言うように大人びた微笑を浮かべる。





 湧磨はその微笑に頷いて、





「じゃあ、アルテ、今そっちに行くから、少し待っててくれ」





そう言って、つい先ほどやってきた道のりを再び駆け戻り、ホテルの従業員の男性に怪訝な目を向けられながら部屋へ駆け込み、サイトの管理者権限の一部を与えられ、常時ログインできるようになったアカウントでエクスマキナへ入る。



部分別小説情報

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る