Sorry.

 眠い。眠くて堪らない。身体が痺れているように感じるほど、頭のてっぺんから足の爪先まで眠気が充ち満ちている。





 しかし、ダメだ。いま寝てしまったら、放課後にひとっ飛びに違いない。そう思って、湧磨は二時限目が終わると運動代わりにトイレへと向かった。用を足して、くぁぁと大あくびしながら廊下を歩いていると、とある少女の姿が思いがけず目に入った。





 まるでハチミツのように綺麗な金色の髪と、女子の平均よりもやや背の高いその少女の後ろ姿は、湧磨にとっては中学時代から悲喜こもごもに見慣れたものである。が、今はどこかいつもと様子が違う。





 少女は壁に片手を突き、セーラー制服の真っ赤なスカーフをだらりと前へ垂らすようにしながらうなだれて佇んでいる。具合が悪いのか? そう今すぐ声をかけるべきなのだろうが、湧磨はそれを躊躇った。





 少女――アリシア・Kクラーク・ワーズワースは、純イギリス人の、そして噂によると貴族家系のやんごとなき身分のお嬢様である。





 生まれはアメリカで、小学生の頃に日本へ越してきたそうだが、その暮らしぶりはやはり英国貴族同然という噂である。否、中学時代に湧磨も、専属運転手に黒塗りの車で送迎されている姿を現に何回か見たことがあったから、どうやらそれは事実であった。





 が、ただ身分が違うというだけで声をかけられないのではない。湧磨が思わずその場で動けなくなってしまったのは、中学時代の手痛い経験がフラッシュバックしたためでもあった。





 一言で言うなら、湧磨は中学時代、アリシアに告白をして振られているのである。





 今もそうらしいが、あの時期のアリシアは特に身体が強くなかったらしく、学校をよく休んでいた。





 ――今日、彼女の体調はどうだろうか、学校に来てくれるだろうか。





 入学式の日に一目惚れをして以来、湧磨は毎日、そう気を揉みながら悶々として、夏休み開け最初の登校日に、もう我慢できないと勇気を振り絞って告白をして、結果――跡形もなく爆発四散した。





 アリシアは日本語がほとんど話せない。その噂は聞いていたから、日本語と英語の両方で書いたラブレターを手渡した。すると、アリシアはその場でそれに目を通し、それから英語で何かを言った。





 その時アリシアがなんと言ったのか、それは今でも解らない。なのに、なぜ振られたと解ったかと言うと、言葉の最後の、





「Sorry」





 だけはかろうじて聞き取れたからだった。またそれ以来、アリシアが明らかにこちらを避けるようになったからだった。





 だが、その時から、なぜかアリシアはあまり学校を休まなくなった。さらには少しずつ日本語が話せるようになって、友人も数人できたようである。





 が、湧磨はあの告白の時以来、アリシアとはほとんど目を合わせてももらえず、今もなお廊下ですれ違いそうになると一目散に逃げられ、露骨に避けられ続けている。





 だから、アリシアが具合が悪そうに俯いているのを目撃した今でさえ、湧磨は思わずその側に寄るのを躊躇ったのだった。





 しかし、いくら嫌われているとは言え、具合が悪そうにしているのを無視することなどできるはずもない。まだアリシアのことをよく知らないらしい生徒たちが、遠巻きにその姿を見守っている中に紛れている気にはなれず、湧磨は意を決してその背中に声をかけた。





「おい、大丈夫か?」


「え……?」





 アリシアは青ざめたような顔でこちらを見る。それから少し驚いたように目を見開いて、サッと視線を逸らす。





「え、ええ、大丈夫ですわ。ご心配、感謝いたしますわ」


「あ、ああ……」





 やはりアリシアは可愛い。その白磁のような肌、やや肩にかかるセミロングの金髪、宝石のように青い瞳、そして何より、高校一年生でありながら、成熟した女性のようにふくよかなその胸のふくらみ……。





 それらに目を奪われて思わず上手く返事もできなかった湧磨をその場に残し、アリシアは自らのクラスのほうへと歩き始めるが、またすぐに頭を押さえて壁に手をつく。





「おい、具合が悪いなら保健室に行ったほうがいいんじゃないか? なんなら、俺が保健室まで……」


「いいえ、大丈夫ですわ。というか……」





 ふと言葉を切って、アリシアは肩越しにこちらへ目を向ける。気の強そうなその目に、痴漢でも睨むような敵意を露骨に表しながら、





「わたくしに近寄らないでいただけます? 全く、汚らわしい……」





 吐き捨てるように言って、ふらふらとした足取りで湧磨のもとを離れていった。





「…………」





 やっぱり嫌われてたか。そうだよな。ああ、解ってたさ。





 思わず目に浮かびかける涙をぐっと堪えながら、湧磨は窓の外を見上げる。梅雨の季節の空は、まるで湧磨に同情するように静かに雨を降らせ始めていた。

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