(11)
地に伏していた吸血鬼が、よろりと動きを見せた。
その一メートルも離れていない位置に、片手を真っ赤に染めたまま、気を失い横たわる少女がいた。
「……これは、冗談では済まないなぁ……」
ゆらりと立ち上がる吸血鬼は、動作がどこかおぼつかない。
低く呟き、笑みが欠片もない顔を少女に向けて、再び近づこうとする。
しかし。
「これは面白い」
いつの間にか、その場所には、二名以外の誰かが現れていた。
突如響いた心底愉しげな声に、吸血鬼は足を止めた。声を元に、振り返る。
彼の後方に、立つ者がいた。
黒地に細い灰色の縦縞が入ったスーツを着た男だ。
互いの距離は七メートルほどか。音もなく、
対して、音も、気配もなく現れていた男はわずかに口角を上げ、口元から鋭利な牙が覗いていた。このスーツの男も、吸血鬼なのだ。
「……どうして、あんた、いや、貴方がここに」
黒いコートを着て黒ずくめの、先にその場にいた吸血鬼は、絞り出すような声を出した。彼は、後に現れた吸血鬼を知っていた。
それゆえに、顔が強張っていた。
「どうして? どうしてか。それなら、俺から聞きたい。なぜお前はこんな馬鹿らしいことをしてるのか」
軽く笑って見せたスーツの吸血鬼は、自分で口にした問いを面白がっている口調で、質問に対し、質問を投げ返した。
その目が、明かりがない中、鮮やかに光る。
先にいた吸血鬼よりさらに。より赤く、鮮やかに。
「なぜあんなに『過ぎたこと』をしていたのか、俺は聞きたいんだが。もっとも、正確には俺自身は気にならないことなんだがな」
同胞を前に、口は笑う形になっているが、その目の何と冷淡なことか。
「どうやら好みも偏っているらしい。人間、それも後半なんて女の血ばかり。ああそうだな……まるで、その子のような歳のものばかり」
「……何か、文句でもあります?」
「食い荒らすような下品な真似は、俺は別に気にしてはいない」
「……没収でもしに来たということですか」
「それほど欲しいか。その血が」
「悪いんですが、これは僕のものですよ」
敬う口調ながら、固執し、譲らない様子に、スーツの吸血鬼はやれやれというような仕草をしてみせる。
その様子は、聞くという最低限のことは行った、というようなものだった。
結局問いに答えが返って来ていないことには対しては、自身は何とも思っていない様子だ。
「さてと、俺としてはまだ長引こうと関係ないと思ったのだがな。周りが煩くて、偶々今夜散歩がてらに動いてみたというところで、だ」
『同胞』の後ろに転がっている少女を見、同胞を見、「こう易々と見つかるわ、中々面白いものも見れたわ。直々に来てやったかいは、まあ、あった」と、スーツ姿の吸血鬼は染々と呟く。
そうしながらも、後ろに回した手で、何かを持ち上げるような動作をする。
直後、黒ずくめの吸血鬼に勢いよく何かが飛んだ。
その勢いは、吸血鬼である者の目にもろくに追えないくらいの速さで、かつ予備動作も最低限であったことから、突然だった。
吸血鬼にぶつけられた『もの』の正体は、人間の男性。
──ハルカが、吸血鬼との間に割って入り、吸血鬼の牙から逃れたあの男性だ。
目は見開かれたまま、仰向けになった身体はピクリとも動かない。
それもそのはず。腹には、
一方、飛んできた人間を叩き落とした黒ずくめの吸血鬼──その目が再び目の前を映したとき、眼前に、スーツの吸血鬼が迫っていた。
「う、が……」
次の瞬間、吸血鬼の体に衝撃が走り、彼は目を自分の身体に落とす。
腕が埋まっていた。肘まで。
腕は身体を貫通し、その様を目にした黒ずくめの吸血鬼は、遅れて痛みを感じると共に、地面に崩れ落ちた。
スーツの吸血鬼は、崩れ落ちようとする吸血鬼の胸から手を引き抜いた。
地に伏した吸血鬼には目もくれず、血まみれになった腕を見る。
「ああくそ、ギリギリ汚れたか。血も飛んだな。盲点だった」
わざわざ肘の上まで袖を捲り上げていたが、少し血が染みていた。さらに、スーツの上着に血飛沫が飛んでいるのを見て、吸血鬼は失敗したと呟いた。
男はスーツの胸ポケットからハンカチを出して腕を拭い始めた、が、途中でびしょびしょになったハンカチに、追い付かないと気がつきハンカチを捨てる。
「礼儀のなっていない若造もいるものだ」
と呟きながら、結局、血がついているのにも関わらず、捲り上げていた袖をそのまま下ろす。
「それより俺の息子は、せっかく跡を残してきてやったのにまだ着かんのか」
自分が地に沈めた吸血鬼を横に、歩き出した男は、向かった先で倒れている少女を見下ろす。
「吸血鬼の意識を奪うほどの特殊能力、か」
男は、少女を軽々と持ち上げ、脇に抱えた。
そこで、何かに気がついたように視線を巡らせる。彼自身が現れた方向であり、また再び向かい去ろうとした方向だ。
やがて、その方向から、レイジが姿を現した。
屋根にまで及んだ血の跡を追い、ここまできたのである。
地面に降り立った彼レイジは、まず追っていたはずの吸血鬼がうつ伏せに倒れているのを見つける。
それの息を確かめる前に、この場で唯一立っていた者に目を向けた。
「……ここで何してんだ」
「お前もそいつも同じようなこと言ってるんだがな、まったく」
スーツの吸血鬼は、飽きた、というような声音で質問に答えようとしなかった。
「俺は、いつまで経っても解決してくれない事件を吸血鬼が起こしてるからって、せっつかれて来たんだ。お前にも道を残しておいてやっていただろう」
男が顎で示した先には、吸血鬼……と、人間の男性が倒れている光景があった。
その人間の腹が裂かれていることを認識し、レイジは自分が追ってきた血の跡を思い出した。そして、跡を故意に残したのが目の前の男だということも理解して、本日何度目かの舌打ちをしそうになる。
「動くならさっさと動けよ」
「『事件』を解決するのは、『組織』の仕事だろう」
「よく言うぜ。どうせ裏じゃあ、病院に運ばれた被害者……いや、成り損ないの回収も進めてんだろ」
「色々調べられては敵わんからな。その辺りの調整は後でお前に頼むことになるだろう。上手くやっておいてくれ、レイジ」
「おい」
「吸血鬼としての『仕事』だ。どうせお前も、後にゴタゴタするより、俺たちが動いて問題の吸血鬼を回収するのが一番良い道だと思っていたんだろう」
「……だからそれが遅いって言ってんだろ」
スーツの吸血鬼は肩をすくめてみせた。
「それより来るのが遅すぎる。一応言っておくが、
「──おい」
「あまり会話にならなかったんだ、仕方ないだろう。そうだな……狂っていた、とでも言っておけばいいんじゃないか? あながち間違いではなさそうだからな」
悪びれもせず軽く報告的なことをした吸血鬼に、レイジは咎める声を出した。が、それにも、対する方はけろりと言う。
「吸血鬼と言えば吸血鬼らしいと言えるが、好みの血を追いかけていたらしい」
「ふざけてんのか」
「どうやらこの子どもの血を欲しがっていた」
「子ども……?」
スーツの吸血鬼が持っているものを軽く上げて、見せた。
そのとき、はじめてそちらに視線を向けたレイジ。彼はそれに、いや、その人物に、目を見開く。
「糞親父、そいつを渡せ」
目にしたものは、ぐったりとした少女だった。
一転、それまでの話はどこへやら、レイジが低く声を発する。
「おいおい、俺は助けてやった側だからな。まあ、もっと早く出来たと言われれば否定しないが、お前を今か今かと待っていてな。息子の活躍は見たいだろう」
そんな声を出されるのは心外だ、とばかりに、軽く上げて見せていた少女を抱えた腕は下ろされる。
「んなこと聞いてねぇ。とっとと渡せ」
瞳に油断を許さぬ光を宿し、レイジは要求のみを突きつける。
それを見るスーツの男は、ふっと呆れたような口調になる。
「お前がそんなに執着してしまうとは。予想外のことが起きるものだな」
「執着だあ? 冗談だろ。ジジイが中途半端に置いていったからな。今は馬鹿みてぇに危険な場所にいるから、面倒みてるだけだ」
「本当にそれだけか」
このとにの男の声には、何の感情も読み取れなかった。面白げなものも愉しげなものも、呆れたようなものも。
声を境に、沈黙が落ちる。
しかしながら沈黙は長くは続かない。
「まあいい、返してやる。俺が持っていても仕方がない」
沈黙を作った原因の声の主が、沈黙を破った。
手に持った少女が、軽く放られる。
レイジは放られたハルカを危なげなく受けとめ、すぐに少女が息をしていることを直に確認する。ほぼ同時に、血と、手のひらの傷を目にし、かなり眉を寄せる。
「レイジ」
「あ?」
「あれはその子どもの血を求めていた。なりふり構わず、死者を出すほどに」
「こいつの……?」
レイジは一度顔を上げたが、またハルカに視線を落とす。「余程好みだったのだろうな」スーツの男は
「レイジ、その子は面白いなあ。さすがはサコンの孫か」
男は、声をかけるまでしばし傍観していたときのことを思いだしながら、口元に笑みを浮かべる。
「どういう意味だ」
「そこに転がっている我らが『同胞』を退けたぞ。これだから、人間の特殊能力は侮れん」
まさか、とレイジは呟いたが、スーツの吸血鬼が嫌に愉しげであることを気にし、言う。
「親父、こいつで遊ぶつもりならぶっ飛ばすぞ」
「出来ることを言ってくれ。そこの雑魚も処分出来なかったお前が」
ぞくりとするような殺気を帯びた目がレイジに向けられたが、レイジは目を逸らさない。
「俺の息子よ、お前ならそれくらい片付けられただろうに」
「……」
「それに遊ぶ、だなど人聞きが悪い。俺の遊び癖は外では出ない」
「たぶんな」と、男は会話を絶つようにレイジに背を向け、倒れている吸血鬼を担ぎ、屋根に飛び乗り──消えた。
男が去ったことを目で確認したレイジも、動き始める。
倒れている人間に息がないことを確かめ、この場を離れてもいいことを確認して、少女を抱き抱えて最短距離を行くために、彼もまた、屋根に飛び上がった。
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