第2話

 あれは6年前、僕が2年生の時、鶉里中学校で大変な事件が起こった。同じく2年の女子生徒荻原華蓮が、別のクラスの男子生徒神田俊一の上履きに果物ナイフを突き刺す器物損壊事件を起こしたのだ。その日、荻原の様子がおかしいのに気付いた担任が様子を伺ったところ、神田の上履きをどこかへ持ち去ったので、後をつけ、旧校舎の裏で果物ナイフを突き立てていた彼女を確保した。これが学年全体に共有されるあの事件のあらましである。

 実際の事件は少々異なるものだった。かかる場面を目撃し通報したのは、僕と僕の友人田中泰志だったのだ。

 

 生徒たちは厳格な身分制度の下に学校生活を送っていた。決して誰も蔑ろにしない不文律が、教えられるまでもなく浸透していた。僕のような下位の者には、大勢の前で堂々と振る舞う権利などなく、教室では常に目立たぬよう、似たような生徒と端の方に固まっていた。間借りしているも同然だった。

 弾き出されるかのように、自然と僕らは教室の外に居場所を求めた。廊下の端、トイレ、階段の踊り場などを転々とした後で、旧校舎という穴場を見つけた。静かで趣のある木造校舎を、明治時代の旧制中学のようだと感じ気に入った僕らは、昼休みや放課後になるとそこへ入り込むようになった。田中のほかに、白鳥、小宮山、佐伯なんかがだいたいいつものメンツだった。全員所謂オタク系だった。アニメとライトノベルと某動画サイトが僕らの生きる世界だった。作品それぞれの展開とキャラクターを把握し、気に入った作品の感想を言い合ったり、批評をしたりした。女子の前では聞かせられない卑猥な話もそこでなら平気でできた。僕らは教室でこそ静かにしていたが、状況が許せば大声で笑いあい大げさにふざけ合う、少年らしい少年たちだった。きっと教師も他の生徒たちも、僕らが本当はこんなにエネルギッシュであるとは知らなかっただろう。脆い音が鳴るガラス張りの廊下側の壁も、傷みきった古い床板も、大昔に本来の役割を終えて白く汚れた黒板も、埃っぽいにおいも、僕らだけが独占できる空間を彩っていた。毎日そこへ通って、自分たちだけで朝から夕方まで過ごすことが出来ないものかと本気で願った。旧校舎にだけは親や教師や乱暴なヤンキーなどという外の世界の住人はいなかった。


 あの事件は確か秋に起こったのだ。僕はいつものように田中と旧校舎にいた。そのうち他の連中も何人か来るだろうと思っていた。何を話していたのかよく覚えていない。当時流行していたアニメの、お気に入りのキャラクターの話であった気もするし、誰かクラスメイトの噂話だった気もする。とにかく何かを話していたのだ。すると突然会話を中断せざるを得ない事態が起こった。

 旧校舎の窓から20メートルくらいの場所には植え込みが位置していて、干からびた枯葉が地面を覆っていた。設備も何もない、気味の悪い雰囲気のその場所に、人が来ることはほとんどなかった。少なくとも生徒はただの一度も姿を見せなかった。

 ところがその時、急に人影が現れたのだ。カーテンは取り外されていたから外の様子は丸見えだった。来たのは女子生徒だった。僕はすぐに彼女が荻原華蓮だと気づいた。以前から僕が物珍しさと悪意を込めた視線を送っていた生徒だった。彼女は別のクラスの生徒だったが、僕のクラスにいた神野俊一に片思いをしていた。神野は大人しいわりにモテる男で、それでいてあまり優しい奴ではなかった。荻原のことは全く相手にしなかった。ほとんど無視していたように思う。荻原はそれでも諦めずに一方的なアプローチを仕掛ける大胆な女子だった。あからさまに観察をしたり、手紙をしつこく下駄箱に入れたり、待ち伏せをして話しかけようとしたりと、段々ストーカーじみた行動をするようになった。神野は完全に嫌がっていたらしく、荻原のことを周りに冷やかされたりするとひどく気分を害した表情を見せていた。

 ちょうどそのころ神野には、何人目かの彼女ができたらしかった。「神野をめぐる女子たちの戦い」の図を黒板に書く悪ふざけが横行した。一番執念深い荻原が何か嫌がらせをするのではないかと正直期待していたくらいであったから、不審な様子の彼女を見て僕は大いに心躍らせた。

 田中も同じ気持ちだったのか、単に驚いていたのかわからないが、自然と会話を止めて、2人とも彼女に注目した。

 荻原は植え込みの中に入り、しゃがんで何かをいじくっていた。次の瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、ポケットから取り出された短いナイフだった! カバーが取り外されると、刃先は嘘のように日光を反射させて光ったのだ! 

「やばくね?」

「やべーだろ! 先生呼んで来ようぜ」

 僕らは一目散に駆けだした。走りながら、大きな事件が始まる予感で胸が高鳴っていた。高揚感が大いに快感だった。自分は目撃者だ。何の被害にも遭うことなく大事件に関われるのだ。事情を知る関係者になれるのだ。嬉しくてたまらなかった。それでも緊迫して恐怖を覚えているのを装っていた。周りに対しても、自分に対してさえも。

 担任を見つけて伝えると、彼は非常に動揺していた。君たちは早く帰りなさい。夜になったら家に電話するから、それまで他の生徒にこのことを話してはいけないよ、とそれだけ告げ、慌ててどこかへ向かう様子だった。

 そして夕食の前に、言われた通り自宅に電話があった。安全のことを考え、生徒が目撃したことは伏せるから、君たちも他言しないようにと一方的に約束させられた。こうして僕と田中は教師達との間に一生の秘密をもつことになったのだ。

 次の日学校へ行くと、どこから漏れたのか、クラスは荻原の話題でもちきりだった。先に教室に来ている者が、登校してきた者に片っ端から我が物顔で説明していた。こうして事態を知らないものはいなくなっていった。廊下でふざけている生徒がいないことから察するに、他のクラスも同じようなものだったのだろう。

 午後、授業の予定が変更され、学年全体が体育館に集められた。初めて教師の口から説明がなされた。「昨日、この学校で危険なことが起こりました」と学年主任が言うや否や、誰かが「荻原華蓮」とわざわざつぶやいた。生徒たちに驚いた様子はなく、珍しく皆が素直に話に聞き入っていた。集会が終了するやいなや、ほとんどの生徒が意地悪い声で事実を確認し合っていた。

 しばらくの間、例の事件は生徒たちの格好のネタとなっていた。

 他はよくわからないが、僕がいた中学校は不思議なところで、生徒は男子も女子も、ヤンキー系かオタク系かの2種類しか存在しなかった。元々はそんな大雑把な分類には収まっていなかったはずだが、段々と、全員がいずれかのグループに分類されていった。そんな世界が他にあるだろうか。

 ヤンキー系もオタク系も、それぞれの方法で例の事件を娯楽にして楽しんだ。オタク系の女子は、無責任に悲恋の末の悲劇として感情を交えて語りたがり、わざわざイラストだか図だかに表してしつこく「物語化」していた。ヤンキー系は男女問わず、荻原を「キモ女」などと呼び、最悪に忌々しい存在として、姿の見えない彼女を嫌悪感たっぷりに罵った。そしてオタク系男子はその真似をして、静かに陰湿に彼女を蔑んだ。僕は――まったく例外などではなく、むしろ積極的に悪く言った部類であろう。

 とにかく荻原は、堂々と悪口を言っていい存在だとみなされたのだ。彼女は以後、全く学校に来なかったが、その名誉は徹底的に踏みにじられてしまった。実際にはどのような処分が下されたのか知る由もなかったが、学校での扱いは完全に犯罪者であった。

 やがて皆が飽きると、例の事件について話す者は見られなくなった。その代わり、「荻原華蓮」の名前は蔑称として使用され、いつまでも残った。使ってはならない最悪の罵倒語として認識され、だからこそ、頻繁に使われた。彼女の名前で称することがいじめの手段ですらあったのだ。

 

 中学校で過ごす間に、僕らの服も肌も価値観も、何もかもが薄汚れ淀んでいった。取り去ることのできない汚濁を全身にまとわりつかせながら、それをお互いにぶつけあって、狂おしく笑っていたのだ。馴れ合いと、飽和と、明日からも同じ生活が延々と続いていくという諦めが、僕らの認識を全て不純なものにしていた。きれいなものは何一つなく、あらゆる瞬間が、日常によって浸食され、削れていった。

 教室の床も机も僕らの荷物も、僕らの出した垢が染みついて見苦しく黒ずんでいった。腐敗から逃れられる者は誰一人いなかった。

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