12ハロンのチクショー道

野井ぷら

プロローグ:誰かの走馬灯

 思えば、結構上手くいった人生だったかもしれない。

 精々4、5年前の出来事であるはずなのに明瞭としないのはこの身が人じゃなく馬だからなんだろうか。


 馬。サラブレッド。


 そう、俺は確かに人間だったはずだ。日本の、関東に住んでいて、競馬が好きな、別にどうという事の無い男。どうしてか人としての名前を思い出せないが、確かに人だったはずだ。

 何か大きなものを目の前にしていたと思う。それでなにやら大仰かつ偉そうな声音で、『何を望む?』とか尋ねられた筈だ。

 だから素直に『女のケツを並べてパコパコ犯しまくる生活がしたい』と答えたような気がする。俺は若かったのだろうか。今となっては思い出せないが、生前精が有り余っていたのかもしれない。


 それで、どうなったんだったか。そう。気付いたらこう、ぬめぬめでぬるぬるで生臭い物に包まれてて、こう、にゅりゅん! ってなったんだよ。暗いし寒いしなんかくせーし訳わかんねーしで喚こうとしたら、俺の喉から「ひひ~ん」だよ。まぁそれでも暫く訳わかんなかったけどね。


 んでまぁ、ほら。馬だったわけよ。牡馬ね。落ち着いた頃にふと気付いたよ。

 『女のケツを並べてパコパコ犯しまくる生活がしたい』って、あぁ。なるほど種馬になれってことかってさ。あの偉そうな声は俺の願いを部分的にだが叶えてくれたらしい。

 あほかと思ったね。知ってるか? 種馬って春になると一日3、4頭と交尾するんだって。それを春のシーズンの2~3ヶ月ずっと。人間に直すと羨ましい様な、恐ろしいような生活だな。出来れば人間のままそういう生活が送れるようになりたかったんだけども。


 いやね、まぁ、たしかに俺はそう言ったけどね? 馬になる思わないだろ?

 やけになりかけたりしたけども、走らない競走馬の行く先なんてもう食肉なわけよ。コンビーフとか動物用の飼料とかにね。死ぬのはご免だからそら頑張るしかなかろうぜ。


 てことで頑張ったのよ、俺。最初牧場の人たちが知らない言葉で話すし金髪碧眼だったりとかしたから、馬になったついでに異世界転生でもしたのかと思ったよ。したらねーどうやらフランスだったらしいぞ。牧場のおっちゃんが読んでる新聞かっぱらって色々調べてよーやく分かった時はほっとしたぜ。とりあえず俺の知ってる競馬と同じものだった事が分かったわけだし。


 まー頑張ったね。調教も真面目にやったし、走り方も色々工夫してみたりしたよ。

 そしたら勝てるのね。人間だったころはあんま足速かったとか、そういうの無かったと思うんだけど、まーレースで勝つわ勝つわ。というか俺負けたことないしな。


 なんで負けないのかって? 都合よすぎ?

 そりゃあんた陸上部で鍛えてる奴とただ足の速い奴じゃどっちが速いのかって話よ。馬ってのはその馬が走りやすい走法で走るんだが、それが一番速い走り方って訳じゃないのよ。

 ところが俺は速く走れる走り方ってもんを意識してやれるわけ。

 気付いてからは楽勝じゃーんとか思ってたけど、やっぱ人でも馬でも才能ある奴はあるんだよな。俺でもそーとー必死にならなきゃ負けるような馬が結構いんのね。全部返り討ちにしてやったけどな!


 まぁそれも過去の話よ。ちょっと意識飛んじゃう位今現在ヤバいしね。

 ヤバイってか痛てぇ。腰んとこちょーいてぇ。つかこれアレじゃね? 死ぬ間際の走馬灯ってやつ? 走る馬が見る走馬灯って誰が上手い事言えってやかましーわ。

 あーあージョッキーくんも泣いちゃって。落とさなかっただろ? 痛いのお前じゃなくて俺なんだからそんなに泣くなって。あーやべちょっともー立ってられないわ。寝とこ。

こりゃ死んだな俺。腰だぞ腰。足ならまだしも腰いったら人でもヤベーよ。俺馬だぞ?


 わーったわーった痛てぇんだからそんな触んな。もーほらペロペロしてやるから元気だせ。お前これからも馬乗るんだろ? 予後った馬に一々泣いてたら切りねーだろ。こっちが引くほどドライにいけよ。

 おーおーお迎えがきたわ。そういや予後不良ってどうやって処置すんだろ。五寸釘で額をガツーンとかだったら嫌だな。無難に注射とか希望なんだが。

 あー、最後に牧場の皆に会いたかったなぁ。今日も見に来てたからスタンドには居るんだろうけど、もう間に合わないか。ごめんなミーシャ。凱旋門賞取れなかったよ。

 ごめんなジョッキーくん。怖い目にあわせてしまった。セルゲイのおっさんも、トレーナーのじいさんも、厩務員くんも、すまねぇなぁ。こんな幕切れで。


 しかし、なんだ。


 負けるってのは

 こんな形でも

 意外と、悔しいもんなんだ、なぁ――…………



-------



 愛らしい容姿だった。話題に事欠かない問題児だった。人懐っこい馬だった。誰もが驚いた。誰もが笑った。速いだけではない。ネジュセルクルという競走馬は様々な感情を我々に与えてくれた。彼に悲劇は似合わない。いまでも、シャンティイに行けば厩舎の影からひょっこり顔を出すんじゃないか。トラックを走り回っているのではないか。全てが悪い冗談で、彼は元気で暮らしているんじゃないか。そんな事を考えずにはいられない。


 それは、競馬に関わる者であるならば比較的ありふれた悲劇であった。しかし、それが凱旋門賞という晴れ舞台、誰に憚る事の無い現役最強馬の身に起こったモノであったこと。その事が当事者だけではなく、業界全体へ悲劇の波紋を広げた。


 腰椎断裂骨折。本来ならば競走馬にされるはずの無い診断。ネジュセルクルという競走馬が持つ特異な走りが予想以上の疲労を溜めていたためと思われる。

 レースの映像と照らし合わせ推察するに(映像ではネジュセルクルは腰から先の力が抜けており、前足だけで身体を支えていた)下半身不随を予感させる、走ることでしか命を繋げない競走馬として、どころかサラブレッドとして致命傷と思える、痛ましい故障だった。少なくとも、担当の獣医はすぐさま予後不良と診断し、処置を執った。


 鞍上クリストフ騎手は馬運車にクレーンで吊られて行くネジュセルクルへ向かって何度も呼びかけ、関係者には鞭を振り回して抵抗したという。彼らのタッグは新馬戦以前より始まっていたという。我々が考えている騎手と競走馬との関係より遥かに深い絆を結んでいたのかもしれない。


 その深い絆故であろう。ターフを遠ざかる馬運車とそれを見送りロンシャンの芝に泣き崩れるクリストフ騎手。『慟哭』と名付けられたこの写真は、サラブレッドと我々人間の関係性について、今一度立ち返らせるような、深い絶望と悲哀に満ちた一枚となった。


 クリストフ騎手はこのレース以後、精神的衝撃から立ち直る事が出来ず、騎乗を請け負っていない。

 盟友が砕け散る生々しい感触は今もって彼を蝕み、三年経った現在も彼の騎手免許は更新されておらず、受けた衝撃の大きさを物語っている。


 我々はネジュセルクルのような素晴らしい才能を再び見ることが出来るのだろうか。クリストフ騎手の鮮やかな手綱捌きを見る日は来るのだろうか。


 あの日、我々が失ったものは、あまりにも大きい。



 海外の名馬列伝:ロンシャンの慟哭~ネジュセルクル~




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