48.二百十四人目の私

 白地さんの死体が消えてからも少しの間だけ、僕は同じ部屋で休息を取らせてもらった。それからしばらく待ち、自分が精神的にも落ち着いた頃を見計らって室外へと忍び出る。


 月明かりに慣れてしまった目に、闇へと浸りきる廊下の薄暗さは少し不自然なほどに思えた。時計を見れば午前三時を過ぎた辺り。空腹に重ねて連日の無理ゆえか、いい加減そろそろ眠い。向こうの陣営も同じ条件のはずなのに、どうしてあぁも元気なんだと世界の理不尽に思いを馳せつつ階段を上る。途中で出会い頭に襲ってきた女子生徒の首を手刀で叩き折る。背後をごろごろと死体が転げ落ちていく。


 三階、階段正面に現れた渡り廊下を通過して教室棟へと向かうことにする。


 不都合なことに、この渡り廊下の窓は両手方向にあって、つまりどこから見られているかもわからないという構造上、知れず歩幅が広くなってしまう。


 ……。


 気付けば一人分だけのはずだった足音が、いつのまにか二人分の響きになっている。


「本来なら『忌み雛』の代わりに君の腕を切り落とすと約束したが」


 足を止めて振り返ればそこに、巳寅さんがいた。片手に掴み下げていた腕一本をこちらへ放り投げる。


「所属勢力の変更に伴い、仕方なく本人から取り立てた」


 窓ガラスの代償だ、と僕の足元に転がったそれを顎で指すのだから、恐らくは浮月さんの腕なのだろう。なるほど、あの時彼女が即座に追いかけて来ず僕に隠れる暇が与えられたのは、油断でも何でもなくちょうど巳寅さんの取り立てに捕まってしまっていたのかもしれない。


 消えない肉が久々すぎて、ついじっと見ていたのを物欲しげな視線と捉えたのか。


「食しても構わない」


 彼が疲れたようにそう呟くものだから、僕の空腹は指先の震えでその存在を主張し始めた。


 しかし僅差で、警戒心が勝利してしまう。


「地面に落ちたものを食べてはいけないと教わったので」

「……」


 どうして食欲が負けてしまったんだろう、なんて。無表情な内心で激しく後悔する僕の精一杯の強がりを完全に無視して、巳寅さんは踵を返す。


 このまま黙って行かせてしまうのも不気味だったから、思わず尋ねてしまう。


「何を企んでいるんですか?」、と。


 彼はこちらに背を向けたまま足を止めた。中立の立場から言えば、こうして食料を供給するような一方の側に利する行為は恐らくその矜持に反するところで、最悪、自身の能力にさえ矛盾するのではないかと。思えばこそ彼のこの行動は不可解の一言に過ぎた。


 いや、それ以前に。


「僕のことは、とっくに見限ったものだと思っていましたが」

「……君が何のことを言っているのかは不明だが」と、白々しく断った上で。「万が一贔屓するなら、俺は勝つだろう側にしか時間を投資しない」


 と、その言葉尻が宙へと消える次の瞬間には、相変わらずの神出鬼没具合で、彼は僕の目の前から消えていた。


「……」


 こうまで頻繁に消えたり現れたりをされると、こちらの視力に何かしら悪影響があるのではないかと多少不安にもなる。切れかけた蛍光灯じゃあるまいし、なんて。


 冗談はともかく。せっかくいただいた浮月さんの片腕を捨て置くのも忍びなくて前言撤回。拾い上げ、スルメイカのように咀嚼しつつ渡り廊下を渡りきる。


「何食べてるんですか、星田くん」


 と、左手側から呆れたような声。


 ……なるほど、だからあえてこのタイミングでの接触だったのかと得心するものを感じながら。ちょうど噛み切った分を、噛まずに飲み下して。


「もちろん君の腕だよ、浮月さん」


 思わずといった雰囲気でサトゥルヌス、と呟かれたらしいのが聞こえた。それは僕が思い付くイメージの中でも一番ひどいチョイスだった。


「……微妙に傷付くんだけど」

「なら歩き食いはやめてくださいな」


 みっともないですよ、と言いつつ。片方だけ袖の途切れている左手にナイフを取り出す闇堕ち浮月さん。改めて銃器のたぐいでないのは、これ以上ペナルティをもらわないためか。


 肩をすくめて、あとは手のひらを残すだけとなっていた彼女の腕を飲み込んでしまう。次いで、自身の左腕に巻きつけていた止血用の紐を外した。人肉を食べたことで怪我した箇所の修復が早まり、万全とはいかずとも血はすでに止まっていた。


 浮月さんは警戒を緩めないままの距離感で。


「ちなみに妹さんはそちら奥の教室にいます」


 と、僕の背後を指差す。


「……そんな情報バラしちゃっていいの?」

「構いませんよ、どうせ私が倒されれば。見つかるのは時間の問題ですし」


 なんて殊勝なことを言うものだから途端、それが嘘っぽさをおびてくる。


 今更に。僕は再び、浮月さんを殺さねばならないのだという当たり前の事実を思い出す。


 けれど。


「どうせ私に星田くんは殺せませんから」、と。

「……」


 浮月さんのその言葉はきっと本心からのものだった。もちろん彼我の戦力差のことなんかではなく。きっと彼女自身が用意し僕へと遺したあれのことを指して言っているのだろう。


 きっと『彼女』を使うことで、僕は即座に偽浮月さんを消し去ることが出来る。


 されど。それはつまり。


「そんな顔しなくても」と浮月さんは声音をやわらげた。「妹さんには話していませんよ」

「……それで浮月さんはいいの」


 僕の卑怯な問いに、彼女は一旦言葉を切って微笑む。


 そして、まるで聞こえなかったかのように。


「……これが最後の機会でしょうから言っておきます」


 ごめんね、浮月さん。


 忍び込ませるように呟いたささやきは、きっと本当に届かなかったのだろう。


 彼女はもう言葉を途切らせることもなく。


「私は星田くんと『普通部』を始められて楽しかったです。それから、私が死んでしまったにも関わらずまた立ち上がってくれたのも、もちろん嬉しかったです。今言いたいことはいっぱいあるんです。感謝したいことも謝りたいことも。でも結局、全然時間が足りませんでした。まだまだたくさん、話したかったのに。だけど本当の私の時間はやっぱり昨日終わってしまっていて、この私はただの影でしかなくて、こうして星田くんと話せていることだってきっと奇跡みたいなものなんです」


 彼女はもう、僕に言葉を割り込ませる隙も与えないつもりらしかった。


 涙を飲み殺すような息継ぎで続ける。


「ねぇ、星田くん。私、自分が死んでからの今日丸一日、何度も想像してみたんですよ。私たちが大人になったらどんな大人になれただろうって。ちゃんと『普通』の大人になれていたでしょうか。それとも案外なってみれば『普通』というのも大したことなくて、昔の私たちはこんなにも必死になって馬鹿みたいだったと笑うのでしょうか。でもそんな当たり前に用意されていた未来さえももう、消えてしまいました。個人的な話ですが、毎日いつ自分に殺されるかもわからない不安に苛まれながら、それでも同じ気持ちなはずの自分を何度も殺し続けてきた結末がこれなんて、ちょっと笑えます。ある意味相応しいとも言えるかもしれません。でもそんな私の最後の相手が何かの巡り合わせみたいに星田くんで、やっぱりあの日の決着をつけられるんだと思うと本当に嬉しいんです。だから」


 手加減したら殺しますよ、と。


 それが開戦の合図だった。


 間合いを詰めるように走り出す浮月さんを横目に、状況を再確認。今いる場所はちょうど渡り廊下突き当りの階段前で、彼女が塞いでいる廊下左手以外の四方向に逃げ道があった。


 そのうち僕が選んだのは最も走りにくい階段上方向。段飛ばしに三歩で踊り場まで。


「逃げてばかりは卑怯ですよ、星田くん」

「お褒めの言葉をありがとう、浮月さん」


 思った通り、彼女は安易に追いかけてきたりしない。高低差はこちらの攻めやすさに寄与して、僕は逃げる最中いつでも転身して奇襲を撃つことが出来る。ゆえに追いかける側は常に間合いを警戒しなければならないし、何より駆け上がりつつ距離を詰めるだけでも体力を浪費する。


 だからこそ、こちらが踊り場で立ち止まれば数段より上へはあがって来れず、攻めあぐねる。


「というかどうして、わざわざ妹さんのいる方とは反対に行くんです」


 そう尋ねる浮月さんは珍しくいじけたような声音で、やはり先の台詞は誘導だったのかと苦笑する。


「じゃあブラフだったの?」

「嘘じゃありませんよ失礼な。ただ、」上階の奥から足音が聞こえてくる。「廊下の方が、仕留めやすかったものですから」、と。


 思わず斜め上を見上げれば、ちょうど駆けてきた数人の生徒がこちらへと銃口を向けるところだった。浮月さんも僕が視線を外したと同時にナイフを捨て、拳銃へと持ち替えながら階段を駆け上がり間合いを詰めてくる。


 ペナルティ上等なその姿勢は見習いたいと思いつつ、一瞬の判断。下階の虎より上階の狼を選び、僕も駆け上がる。


 前方向から張られる弾幕から逃れる目的で、二歩目の足を手すりにかけて跳躍。可能ならそのまま彼らの頭上を飛び越えたかったけれど高さが足りず、右端一人の顔面に膝を入れる形での着地。そのまま残り二人の背後へ。倒した相手の襟首を掴んで盾にしつつ、慌てて銃口の向きを変えつつあった彼らの重心より少し上を力任せに蹴って階下へと突き落とした。


 ちょうど踊り場へとたどり着き振り返ってこちらへと銃口を向けた浮月さんが、落下してくる仲間を冷たく避けながら僕へと撃ってくる。


 盾役を続投してくれた身体で数発受け止めてから、お役御免とばかりに浮月さんへ向けて投げ飛ばす。今度は自由落下でない分の勢いがあって、流石の浮月さんでも避けるのに姿勢を崩さざるを得ない。


 その隙に僕は階段を半ばまで降り、されど浮月さんと正面対峙をする気はさらさらなく、踊り場へと至る前に欄干を乗り越え階下へ。


 着地した階段途中。見上げた先の踊り場で、浮月さんが体勢を直しながら見失った標的を探す一瞬。すでに僕は駆け上がっている。右手には着地と同時に拾い上げた、まだ浮月さんの体温が残るナイフ。


 これで決着だろう、と。彼女が僕の動きを視認。銃を構えて。


 ……。


 湧き出るアドレナリンに極限まで引き伸ばされる死合の時空。


 この距離なら僕がたどり着くまでに撃てる弾数は、三発が限度だろうと判断する。


 当てられれば浮月さんの勝ち。避けきれれば僕の勝ち。


 その一発目。むろん手首の腱の動きでタイミングは読めていた。


 されどその射線がこちらの最も嫌がる正中線上のみぞおちを貫いていて、跳んで避けるにも屈んで避けるにも不安が残る高低バランス。射撃難易度にしたって射線が斜め下方向かつこちらが前傾姿勢なこともあって、水平に撃つよりも標的は小さく見えているはずなのに、狙撃精度以上に、それを可能とする精密な身体感覚。やむを得ず、勢いと数歩分のロスを犠牲に体勢を傾けつつ手すりに足をかけてしまって。


 即座に後悔する。


 別人が相手だったとは言え一度でも、浮月さんに見せてしまった動きの軌道など完全に読まれていて、僕がバネのように力を込めた膝の跳躍方向にはすでに、彼女の銃口が先回りしている。


 二発目。背骨がイカれるかと思うほど上体を捻じ曲げることで、自身の軌道を無理やり射線から逸らす。背中を焼けるような痛みがかすり、ぎりぎりで弾道を躱したことを知る。


 されど。そこが僕の限界だった。もう次の弾は避けきれないとわかっていた。


 宙で重心を失い回転さえ始めている体躯。着地すらままならない不自然な姿勢。


 約コンマ八五秒。ここから地面に手が届くまでの。命のやり取りでは永遠にも等しい時間を。


 この間、僕はただ浮いているだけしか出来ないことがすでに運命付けられていた。


 一方で浮月さんは、すでに構えた状態からの射撃。もちろんこの距離で外すわけもなく。


 チェックメイトです、と。彼女の口元の形が描いた気がした。


 照準を合わせて、


 トリガーを。


 引き絞る。


 き絞る。


 絞る。


 る。


 。


 その瞬間を待っていた。


「……っ!」


 唯一足が届いた壁を蹴る。方向なんて考える間もなかった。すでに結構な高さまで飛んでいた僕の頭は力強く天井へと叩きつけられて、星が視界に明滅し涙で滲む。


 たった一回きりのチャンス。タイミングが合わなければきっとその瞬間にすべては終わっていた。


 されど僕はその糸のようにか細い可能性をどうにかつかみ取れたようで、再び宙を舞う軌道が変わる。それはちょうど浮月さんの銃が撃鉄を打ち下ろす瞬間。


 三発目。浮月さんは直前まで僕がいた位置へと最後の弾を放ってしまう。


 そうなるようギリギリまで引きつけることができた僕の心臓を手放しに褒め称えたい気分、なんて。


 勝利を確信する一瞬。反対側の壁にて片手で受け身を取って、天井を蹴る。


 彼女の目前に。


 人間の単純反応時間0.20秒。選択反応時間0.28秒。

 つまり、神経伝達を除いた行動選択処理に0.08秒。


 これを弾速で換算すれば理論上、人が選択を迷う心的瞬間は、約25メートルの間合い代償と等価になるはずなのに。


 浮月さんはやはり化け物だった。


 その左手からいつの間にか取り出された新たなナイフがこちらの眼球へと一直線に投擲されていて、僕は遠近感の焦点を捨ててでも弾かざるを得ない。


 その一瞬で、照準を合わせ直している。


 四発目。放たれるはずがなかった、浮月さん自身が引き出した隙間にねじ込まれる幻の銃弾は。正確無比に僕の手元にあったナイフを撃ち抜いていて。


 武器を弾かれた手ぶらのまま、僕は浮月さんを引き倒して。素手で振り上げた手刀を。


 止めざるを得なかった。


 組み敷いた下方から僕の額へとあてがわれた銃口の静寂を判じかねて、尋ねる。


「どうして撃たないの、浮月さん」

「撃って欲しいですか、星田くん」


 そう微笑んで、銃を降ろす。言ったじゃないですか。


「私に星田くんは殺せませんよ」、と。

「……冗談かと思ってた」


 答えないまま、唐突に。


「星田くんの目の前にいるこの私って、実は二百十四人目の私なんです」


 と、目を閉じた。対照的に僕の手刀は今も馬鹿らしく振りかぶったまま。


「今まで二百十三人もの自分を殺してきました。初めて分裂した時のことも覚えています。つい先週に学校をお休みした時だって、実はこっそりまた増えた自分を殺していたんです。何度も何度も、私はただ生き残るための最善を選択してきました。一度だって間違えたことはなかったし、自身を殺し損ねることもなかったんです」


 なのに、今。私は自分から死のうとしている。


「……」

「もちろん夢は見ちゃいましたよ。ここで星田くんを殺してしまえば、また一緒に、今度は妹さんの側でまた面白おかしくやっていけるかなって。ぜんぶ。矜持も誇りも理想も諦めて、流され続けるよう気ままに生きていけたなら、それもまた本当の幸せだったのかもしれないって。それが私の正直な気持ちです。でも。でもですよ、星田くん」


 私は、そんな未来を拒絶します。


「今ならあの時の答えを、胸を張ったまま言えます。私が『普通部』を続けていたのは誰のためでもなく、私の思想を残すためです。例えここで私の身体だけが生き残ろうとも、本当の意味での私はきっと死んでしまうんです。だけどあなたの中に残された私の欠片をあなた自身が繋いでくれる限り、私の本質はきっと残り続けます。それこそが私たち弱き者が誰かとともにあろうとする意味であり、人が集団に属して初めて人として形成されていく過程の本質なのだと思います」


 そして浮月さんは囁いた。



 『普通』って祈ることに似ています。誰かとともに生きていたいという切実な祈りです。



 だから。


「殺してください、星田くん」、と。

「……」


 僕は音を漏らさぬよう、静かなため息を吐く。もちろん彼女のその言葉の真意はわかりすぎるほどにわかっていた。彼女の求めている『死』は先に白地さんを殺した時のそれとは、根本から意味が違っていた。ここにいる偽浮月さんは元の自身が僕へと遺した『彼女』の存在を知っているのだから。それを使うことで、『忌み雛』としての再生能力を上回り、『影血鬼』の蘇生条件すらをも無効化するような方法で、僕は完膚なきまでに彼女を殺す。言ってしまうだけならこんな簡単なことなのに、それを実行へと移す想像はとてつもなく苦しいものだった。


 そんな僕を見かねたように微笑んで。


「殺されても。どうせ私は死ねませんよ」


 今までもそうだったでしょう、と。


 そんな言葉を口ににしてしまった彼女の内心を想像するだに苦しくなって。


 堪えきれず目を閉じる。


「……さよなら、浮月さん」


 暗闇の裏側。


 勝ったのは私だったのに悔しいな、と。


 聞かせるつもりもなく囁かれたそれが、彼女の最期の言葉だった。

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