4.ホシダはどうとくのつかいかたをわすれた
日常というものの本質は劇的で致命的な変革の一切を諦める、僕ら自身の集団幻想なのかもしれない、とか何とか。こうまで徹底した自身の間抜けぶりを思い返せば、自ずとそんなことを考えてしまう。つまり言葉を変えるなら、いくら待ち望んだって非日常はやってこなくて、その実、もう起こってしまっていることに当の本人だけが気付いていなかったり。
その時すでに物語は始まっていたのだ、なんて。
昨日の放課後、何も僕は帰りのホームルームが終わり次第即座に家へと向かったわけでもなく、一応の当初はそのまま律儀に屋上へ向かうつもりだったのだ。
これがまず浮月さんに伝え忘れたことのひとつめ。
もちろん続きもある。
素直に呼び出しに応じるつもりだった僕はしかし、一度立ち上がった自身の席へと改めて座り直した。というのも、白地さんが所属するA組の担任は頻繁にホームルームを長引かせることで有名だったし、指定された同じ放課後にしても校舎内の生徒数が少なくなってからの方が向こうも好都合だろうと気を利かせたつもりで、自身の教室で少し時間を潰すことにしたのだ。
言い訳するつもりもないけど、夕暮れ。春先のちょっと涼しい風が吹き込む一人きりの教室。窓際に位置する使い慣れた自分の机。
眠気を覚えない方が不自然ってものじゃない、なんて浮月さんの前で言うとまた正座させられそう。そのあたりの危機感もさっきは無意識下にあって、僕は詳細な事情を省いて報告してしまったのかもしれない。そう思ってしまうのももちろん後付けの言い訳というか、なすりつけだけど。
まぁ、それはともかく。昨日の僕は着古したセーターに包んで庭に埋められたマグカップのように、深く眠ってしまったみたい。
放課後どころか下校時刻ギリギリまでぐっすりがっつり。
そして起きた時のやってしまった感と適度な睡眠に由来する心地よい気だるさ。
「……絶句」
ひとまずそうは言ってみても、やってしまったことは仕方ない。遅くとも屋上へと向かうつもりで席を立ち。夕陽の沈みかけた窓越しの景色に向かって伸びをした。
その視界を縦に割るように。
真っ逆さまに落ちていく白地さんと目が合った。
窓越しの邂逅。ほどなくして、永劫の別離。
第一に僕が思ったことは困ったなだった。遅れて薔薇の踏み潰されたような音がして、それは白地さんが死んだ音なのだと気付く。窓から階下を見下ろして視覚でも確認し、もう一度困ったなと思った。こんなテンプレはあまり見たことがなく、対処法も上手く思いつかない。
「……びっくりしたなぁ」
言ってみただけのつもりだったけど、静かな教室の真ん中。その台詞は想像以上に白々しく響いてしまい、昨日の僕は肩をすくめた。
存外、凄惨な事故の瞬間なんてあまねくこんなふうに、結構呆気ないものなのかもしれない。少女だって空から降ってくれば物理法則に抗えず、ぺしゃんこに潰れて死ぬ。意識がばりばりと音を立てて現実から引き剥がされる一瞬に、適格な人命救助の手段を打てる人間なんて、予め落下の発生を知っていた突き落とした側の人間以外あり得ず、今し方まで談笑していた相手がこのままでは死んでしまうなんて現実感をラグなしに受け入れられる方がどうかしている。まぁ、とは言いつつ僕の条件反射の範囲でも、殺さなきゃ程度なら無意識に思って、思うのみならず目の前の相手の眼球に指をねじ込むくらいのことは実行できるかもしれない。むろん、その時になってみないとわからないけれど。
とまれ、そんな人間二級の僕は考えた(浮月さんは人間初段)。もしかしたら白地さんが屋上から飛び降りてしまったのは、呼び出し相手たる僕が待ち合わせに遅刻したせいかもしれない、なんて。いつまで待ってもやってこない僕のことを変に勘違いした白地さんはそれを苦に自殺した可能性がある。
……。こう言葉にしてしまうと、逆に当時の僕が目の前の事態に動揺して変な思考へと至ったように見えるのかもしれないけれど、僕の思考順序がおかしいのは普段からなのでそこは特に関係ない、つもり。いくらか冷静さを欠いていたことまでは流石に否定しないけれど。
ともかくその時点で僕が思いついたことは不義理にも、その時わずかに残っていただろう、僕と白地さんとの薄い関連をすっかり消し去ってしまおうなんて考えだったのだ。万一彼女の身の回りに、朝の僕へと届けられた呼び出し状の書き損じでもあれば、こちらは瞬く間に彼女の自殺の重要参考人へと格上げになってしまう。
いくらなんでも、それは『普通』ではないだろう、と。
うん。こうして客観的に思い出してみると余程気が狂っていたんじゃないかとも思うけれど、当の本人になってみればそんなものだ、と思いたい。思うくらい許して欲しい。そもそも僕は自身が十分なモラルなんてものを求められ得るほどの人間だとは到底考えておらず、だからこそ現行、浮月さんなんかに目を付けられて、『普通部』に引きずり込まれているのだろうし。
さて。
決断してからの僕の行動は早かった。もう人の残っていない校舎の階段を降りて、昇降口で土足に履き替える。白地さんの死体を検分する。救急車は呼ぶ必要がなさそうだったので(エスプリのきいた小粋な冗句)、指紋を残さないようにポケットを探って中にハンカチやスマホ程度しかないことを確認(迅速で漏れのない危機予測)。スマホは画面が割れていたけど、まだ十分動作するようだったので改めて丁寧に踏み潰して(冷静かつ適切な判断)、彼女のポケットに戻しておいた。
じっと死体の彼女を見ていても血が垂れる口の端は何も言葉を発することはなく、数分前の彼女は恐らく僕を呼び出して告白でもするつもりだったのだろうなと思うと、赤く眠る口元に口吻の一つでもしてみたくなったけど(白雪姫テンプレ)、それは感傷というより性欲というより食欲だろうと思った。
それから今度は屋上、A組とを順に回って、白地さんの鞄を見つける。彼女の机の上に置かれていたそれの中にも、別段僕との関連を思わせる品はないようだったので、下手に荒らさずそのまま放置した。
これで一安心だとほっと息をついた辺りで、すっと意識を切り替えた。
果たして『普通』の人間ならこれからどうするべきだろうかと。
死体を見付けて、「わぁ驚いた」。さて警察を呼ぶか、教師を呼ぶか。しかしそうしてしまえば、せっかく僕が謙虚に辞退した重要参考人の役を再び押し付けられてしまうだろうことは想像に難くなくて。
「あ」
と、そういえば見たいテレビ番組もあったのだった。まさか下校時刻ギリギリまで拘束されることはないと思っていたから、油断していた。なんて嘯きつつ、もちろん僕の家にはテレビなどという高価な娯楽品は置いていないのだけれど。他にちょうど良い逃げの種が思い付かなくて。
「……よし」
昨日の僕は、白地さんが死んでしまったことを忘れて帰ることにした。
自分の記憶を消すことなんて結構簡単だ。
1・2の…ポカン! ホシダはどうとくのつかいかたをきれいにわすれた!
……。元から覚えていなかったという説も一概には否定しない。
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