第4話

「あ~あ、とうとう朝になっちゃった。


 一睡もしないで一日体がもつかなあ。


 汗びっしょりだからお風呂入った方がいいかも」


 しずくはのそのそと寝床から這い出すと、


朝風呂を浴びに浴室まで歩いて行った。


白い湯気が立ち上る熱いお湯が入った湯船にどっぷりとつかっていると、


頭がぼうっとして、心の中で始終ざわめいている


雑念を締めだすことができるのだった。


 湯船からあがって、洗髪しようとしたしずくはふと鏡の中をのぞき込んだ。


大理石のような白い肌にくっきりと鼻筋が通った、


美女に、鏡の中から琥珀いろの大きな目で見つめられて一瞬たじろいだ。


しかしすぐに我に返って、それがほかならぬ自分の姿であると気付いた。


「ああ、わたしってこんな変わった顔してたんだ。


 どうりで小さいときから何もしていないのに


 目立っていやな思いばかりするわけだ」


と呟いて溜息をついた。


 風呂から上がった後、体をふいていると、


だしぬけに脱衣所の引き戸が開けられた。驚いた拍子に


肩からバスタオルが滑り落ちた。


 振り返ると、そこにいたのはしずくの母だったが、


その顔は恐怖で凍りついたために、こわばっていた。


「しずく!・・・あなた、いつからそんな風に・・・


 どうして今まで気付かなかったんだろう・・・」


と切れ切れに呟くと、母は苦しそうにうめいた。


「何?お母さん、どうしたの?」


としずくは驚いて呼びかけたが、母は無言のまま、


振り返りもせずに足早に去って行った。


あとに残されたしずくはわけがわからず、


大理石の彫像のような肌をさらしたまま、茫然とその場に立ち尽くした。


 着替えを終えたしずくが台所の食卓で朝ごはんを食べていると、母が険しい顔で


「今日は学校休んで一緒に病院に行きましょう。


 わたしも年休取って仕事休むから」と言った。


「何で?」としずくは聞いたが、母は眉間にしわを寄せて黙り込んでしまった。


その表情を見て怖くなったしずくはそれ以上食い下がることはしなかったが、


どこも悪くないのにどうして病院になど連れていかれるのかといぶかしく思った。


 しずくが連れてこられたのは整形外科だった。レントゲン写真を撮ったあと、


通された診察室で告げられた病名は「脊柱側湾症」という、


聞きなれないものだった。


レントゲン写真に白く映った背骨は緩やかにS字型のカーブを描いている。


その写真に赤ボールペンで印を付け、分度器を当てながら、


医者が「あなたの背骨は30度曲がっています。」と言った。


しずくは今まで背骨の写真など見たこともなかったので、


曲がっているのが異常なのだと言われてもピンとこなかった。


何より、その傾斜は緩やかすぎて、危機感を抱くことができなかった。


次にしずくは上半身にブラを着けたまま裸になり、


医者に背を向ける形でお辞儀させられた。


そして左右の高さが大分違う肩の上にプラスチックの透明な定規を載せられたが、


それはやじろべえのように傾いてカタンと音を立てて床に落ちた。


「思った通り。左右の肩の高さが違う。


 骨盤もかなり歪んでいて片方だけ大きくくびれている。こんなに歪んでいるのに


 今まで風呂に入った時やプールに入った時、自分で気づかなかったんですか?」


「いいえ。わたし目が悪いし、あまりじっくり


 鏡を見たことがないので気づきませんでした」


としずくは答えた。保育園児の頃、同い年の性格の悪い女子に


顔かたちについて悪く言われたことがあり、


自身がなくなったしずくは鏡をことさら見ないようにこころがけて


生活してきたのであった。


「何か原因はあるのでしょうか?」


と同席していた母が尋ねると


「いいえ。ほとんどの場合は原因不明で思春期以降の女子に多くみられます。


 成長期が終わると進行が止まります。それまで、


 装具治療で悪化を食い止めることができます。


 それでも角度が進んだ場合は手術という選択肢があります。


 いつも鏡を見て、姿勢を正しくするように心がけてください。


 重い荷物をもつと悪化する恐れがあるので


 学校の先生に許可を得て置き勉などしてください。」


と医者は言った。その言葉にしずくは血相を変えた。


「ちょっと待ってください。わたし今年小六で中学受験を控えているんです。


 置き勉なんかしたら家で勉強ができなくなってしまいます」


としずくはつい声を荒げた。


医者はその言葉には答えず、めんどうくさそうな表情になり、


カルテに目を落とした。


「しょうがないじゃない。今は体を大事にしなくちゃ。


 これ以上曲がったら大変よ」


と母が横から口をはさんだ。しずくは黙り込んだが、


その頭の中はかつてないほど混乱して


めまぐるしく思考がかけめぐっていた。


「どうしよう。私立に行って今までの生活をリセットして


 やり直そうと思っていたのに。今になって邪魔が入るなんて。」


としずくはすっかりうろたえていた。


 母親が「コルセットってどんなものなんですか?」と尋ねると、


「体を覆う鎧のようなものです。これを装着することで、姿勢を矯正して進行を


 少しでも食い止めることができます。かなり分厚いので


 ワンサイズ大きな服を着ることになります」


と医者は答えた。


「コルセットなんて使わなくても自分で姿勢に気をつけるので大丈夫です」


としずくはあわてて言った。まるで鉄腕アトムのような固い装具だ。


そんなものを着けたら、好奇の目にさらされることは火を見るより明らかだった。


ただでさえいじめられやすいのだから何としても、目立つことは避けたかった。


「三か月毎に、経過観察をするので来てください」


という言葉とともに、しずくは


ようやく診察から解放された。帰り道、母が運転する車の中でも、


まだ頭の中は混乱していて、


「姿勢を正しくするように心がけてください。」、


「コルセット」という言葉が切れ切れに


思いだされた。そういえば、小さいころから


「肩が上がっているね。緊張しているの?」


「背中が曲がっているね。姿勢が悪いよ」


とそんなつもりはないのに


事あるごとに周囲の大人たちから指摘され、うんざりしていた。


「あれもこれもすべて病気のせいだったのか。」


と思うとどっと疲れが押し寄せてきて、まもなく浅い眠りに堕ちて行った。




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