第10話『起承転結:結①』

「──林道倫一郎さんはあの日、悲願であったライブハウス『BUMP』でのライブ決定を高らかに宣言していました。あの時の彼の姿は今でも僕の目に、脳裏に焼き付いています。僕にとって彼は憧れであり、人生の先輩であり、恩人であります。そして何より、大親友だと今でも思っています。僕と林道さんの付き合いは正直、月日だけを鑑みれば、取るに足らないかもしれない。付き合いの浅さを指摘されても仕方がありません。でも林道さんと接した今までの時間は、僕が生きてきた二十数年間の中で何よりも変え難い最高の時間でした。本当はもっとその時間を噛み締めていたかった。だからこそ、僕は今本気で怒っている。林道さん──……いや、倫一郎。なんでこんなに早く死ななければいけなかったんだ。自分の両親への約束はどうしたんだ? そういった義理を何よりも大切にしている男だったじゃあないか。それを果たさず逝ってしまうなんて、お前らしくないぞ!」

 僕は後半涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、笑う林道さんに、怒り、そして縋った。逝かないでくれ、何度もその言葉が喉の最前列に立っていたが、言わずに済んだのが奇跡なほどだった。弔辞のために持っていた奉書紙はまるで役に立たず、御霊前に一礼した後、遺族の方へ向き直ると、僕よりも先に林道さんのご両親が深々と頭を下げた。頭を下げた際、口元が微かに動いたのが見える。僕にだけ聞こえる、「ありがとう」の言葉は、どの言葉よりも重く──そして、暖かった。その言葉にどう対応すればいいのかわからず、僕は逃げるようにその場から離れた。

 そのまま外に出ると、心地よい風が僕の身体をすり抜ける。まとわりついた汗や涙をそっと撫でるような優しいそれは、今の僕にとってなによりも暴力的だった。

「お疲れさん」

 僕の後をついてきた高藤さんが、缶コーヒーを片手にこちらに手を振っている。それを受け取り、プルタブを指にかけるが、上手く引っ掛けられず開けられない。

 くそっと毒突く僕を高藤さんは何も言わずに黙って見ていた。僕はしゃがみこみ、また泣いた。

 林道さんが交通事故で亡くなったことを僕はニュースで知った。その日に限って携帯がマナーモードから解除されて、バイブレーションに設定されていなかったため、高藤さんの連絡にも気付くのが遅れしまった。トラックの暴走運転によって轢き殺されそうになった児童から身代わりになった、と後から高藤さんに教えてもらった。

 結局のところ、林道さんは『BUMP』で演奏することは叶わなかった。あれだけ自分に正直で、誰よりもまっすぐ生きていた彼の命を神様は何故、簡単に捨ててしまうのだろう。林道さんの音楽は神様を震わすことは出来なかった。今でと、あの棺桶から笑いながら起き上がってもおかしくないと僕は思えてしかたない。まだ俺は約束を果たしちゃいねえ、と。なのに、林道さんはいつまで経っても起き上がろうとはしなかった。

 馬鹿野郎、と柄にも台詞を宙に吐き捨てる。

 自暴自棄になって周りが見えなかったせいか、隣に人が座り込み、僕にハンカチを寄越しているのに気付くのが遅れた。高藤さんではない、小さいな華奢な女の子の手だった。

 僕は顔を上げる。そこには見知った顔が作り笑いを浮かべていた。

「……──新田さん、なんでここに?」


「私もお葬式に参列していたんです。そしたら、小林先生が弔辞を読んでいらしたので、びっくりして……」

「林道さんと知り合いだったんだ」

 新田さんは頷いた。

「林道先生は、中学時代の家庭教師だったんです」

 林道さんが家庭教師をしていたなんて僕は全く知らなかった。しかし、新田さんの中学時代となれば、僕よりも知り合う前の話なので、それは仕方の無いことだろう。

 そこからぽつぽつと新田さんは、昔を懐かしむ老人のような優しい顔つきで、僕に林道さんの話を聞かせてくれた。


 新田さんと林道さんは家庭教師と生徒という関係以外の何物でもなかったが、こと音楽に関してはひたすら好みが合い、彼のライブにも時折、顔を出していたらしい。しかし、件の事故によって、彼女は心を閉ざし、家庭教師を辞めざるを得なかった林道さんは当時の入院先の病院に押しかけた。

 一家庭教師が入院先まで来るなんて、と初めこそ戸惑った。しかし、考えてみれば林道さんは家庭教師とかそんな枠にとらわれた人間ではない。あの人は来たかったら来ただけだ、と平然と言える人なのだ。だからすぐに家庭教師が来たのではなく、林道さんが来たと考えただけで、すぐに納得できたらしい。

「家庭教師はもう断ったはずですけど」

 新田さんは一応体裁的な台詞を告げる。

「家庭教師とか関係ないだろ。知り合いが入院してるんだ。駆けつけて何が悪い」

 この時には既に、彼女の聴力はほぼ失われており、林道さんの早口な言葉は聞き取れなかった。しかし、何故か新田さんには彼が何を言っているかがわかったらしい。

「林道さんは入院中は毎日のようにお見舞いに来てくれたんです。いろいろ難聴のことについて勉強もしてくれていたみたいで、私の顔を見て、たくさん話しかけてくれました。当時の私にはそれに答えられるだけの気力がなかったので、今となっては申し訳なかったと思っています。でも退院の日からぱったりと来なくなってしまいました。それ以来、会っていなかったんです。連絡先とかも知っていましたけど、なんか何話せばいいのかわからなくて」

 君が黙っていても、林道さんなら隙間を埋め尽くすように話してくれるんじゃないか、と思ったが、口には出さなかった。

「結局、私が一番家庭教師と生徒の枠に縛られていたんだと思います。あの事故の後、本当は悲しかったけれども、母が新しく一歩を踏み出すために、母方の旧姓に戻したので、あの頃にみたいに、秋月ちゃんって呼ばれることもないんだな、と思うと、もっと林道先生と関わっておけばよかった」

 彼女は僕に笑いかけるが、上手く笑えていないせいで、顔がしかめっ面になっている。

「そっかあ、林道さんが家庭教師とはねえ」

 僕はため息を吐くかわりに呟いた。

「私もびっくりしたんですよ。林道先生が、本当に教師になっているだなんて。私の約束を覚えていてくれたのか、と嬉しくなりました」

「約束?」

「病院から帰り際に行ったんです。林道先生みたいな教師のいる高校に行けたらいいのにって。そしたら待ってろって言ってくれたんです。約束だ、俺は先生になる。先生になって、お前達の道標になってやるって。可笑しいでしょ、道標なんて言葉、今時厨二でも言わないのに。真顔で言ってくれたんです。本当に教師になるなんて」

 僕は「中学校の、だけどね」と言ったが、彼女は「それが、林道先生らしいじゃないですか」と言い切った。どうやら新田さんは僕より林道さんのことを理解しているようだった。それが悔しくもあり、嬉しくもあった。

 この葬儀の弔問客には、彼が在籍していた中学校の生徒や先生らも多数参列していた。

 林道さん、あなたにはたくさんの人から愛されてますよ、と心の中で彼に話しかける。

 そして、僕はもう一つ納得したことがあった。

「新田さん──君がいたから、僕は林道さんと友人になることが出来たんだ。ありがとう」

 新田さんは、当然何を言っているのか理解しておらず、きょとんとした表情を浮かべた。

 あの時、駅のホームで林道さんと出会ったのは、偶然の出来事だったが、それからの彼との物語は新田さんによって紡がれていたのだ、と僕は思った。

 新田さんと同じ、難聴を抱えた僕にあれだけ優しく接してくれた彼の背景に新田さんがいてくれたから、僕は彼とここまで接することができた。

 いつも目を見て話しかけてくれる林道さん。

 電話ではなく、気遣ってメールをこまめにしてくれる林道さん。

 しっかり声が届くように、個室の席をいつも準備してくれた林道さん。

 やはり、あなたはまだたくさんの人と接し、笑い合う人生が似合っている。こんなにも悲しませるなんて、本当に不幸ものだ、と僕は心にもないことを吐き捨てた。新田さんもそうですね、と言いながら泣いていた。

 空を見上げる。雲ひとつない青空が広がっている。

 春はもうすぐそこまで来ていた。

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