Scene32 三日月

 透と明子は、シャワーを浴びた後、部屋の明かりを消してベッドに横たわった。

 年季の入ったベッドにもかかわらず、マットが分厚く、これはこれでなかなか寝心地が良い。

 エアコンをつけていたが、カビ臭いのと、窓を開けても十分に涼しいという理由から、電源を切ることにした。


 ホテルのすぐ前は海岸道路になっているので車の音がするものの、決してうるさくはない。それよりも由比ヶ浜に打ち寄せる波の音が断続的に耳に飛び込んできて、心からリラックスできる。


「お母さんの胎内に浮かんでいた時の記憶が蘇ってくるみたい」

 明子は小さく言った。

「お母さんは私を産んですぐに、妊娠中毒症にかかって亡くなったの。私、本当はお母さんの分まで生きなきゃいけないのに、こんなだらしない生活を送ってる」

 透は何も返すことなく、明子の少し濡れた髪を撫でた。

「あぁ、こうやって目を閉じると、いろんな記憶が次から次へと出てきて、頭がパンパンに膨れあがってくる」

 大丈夫だ、と透は思う。

 潮風を聞きながらベッドに横たわる明子は十分に落ち着いている。

 横須賀線の旅に始まり、円覚寺、寿福寺と、今日ばかりは実に長い1日だった。


 問題は明日だ。

 外に出て太陽にさらされた途端、いつ発作が起きるとも分からない。

 だが、そういうことにも慣れていかなければならない。今後明子と一緒に暮らしていくことを考えれば、彼女の全てを受け容れていくことになる。もちろん、それは望むところでもある。

 生きているだけで100点満点なんだ。

 風にそよぐレースのカーテンの向こうには、LEDライトのような三日月が出ている。


 ふと目を覚ましたとき、三日月は右の方に移動していた。

 明子は目を開けたままじっと横たわっている。


 おい、どうしたの、まだ寝てないのかい?


 言葉を発しようとするが、声にならない。どうやら金縛りになってしまったらしい。

 明子はまっすぐに天井を見たまま、人形のように静かにしている。

 もう考え事はやめよう。明日もあるんだ、早く寝た方が良いよ・・・・・・・


 次に目を覚ましたとき、三日月は姿を消し、水平線がうっすらと白くなり始めていた。

 波の音だけがかすかに響いている。

 明子の方に目を遣る。

 そこにいるはずの彼女は横たわっていない。

 咄嗟に起き上がり、彼女の名前を呼ぶ。


 照明をつけてみるが、姿は見えない。彼女のバッグも、クローゼットにかけてあったブラウスも、スニーカーもすべて消滅している。まるで最初から自分1人が宿泊していたかのようだ。

 その時、ベッドに備え付けられた小さな棚の上に封筒が置いてあるのに気づく。慌てて開封すると、中には一筆箋が出てきて、端正な字でこう書かれていた。


 透さん

 ほんとうにごめんなさい。

 どこまでも自分勝手な私など、切り捨ててください。

 透さんには透さんの人生があるし、それを邪魔することなど絶対にできません。

 これまで、ほんとうに、ありがとうございました。   明子


 封筒には1万円札が5枚入れられている。宿泊費と帰りの交通費に宛てろということだろう。

 透は一筆箋と紙幣を握りしめ、あぁ、やってしまった、と心の中で叫んだ。


 ベッドに組み込まれたデジタル時計は4:42を示している。まだこの時間だ。明子は間違いなく鎌倉の中にいる。

 部屋の明かりを全て付け、ジーンズを履こうとしたとき、サイドテーブルの上に並べて置いてある大きなワイングラスとワインボトルが目に飛び込んできた。その間にはチェーンの付いたルームキーと、パワーグラスが置いてある。

 どうやらこれを忘れてしまったらしい。

 あれほど大事にしていたものを放置して行ってしまうとは、だいぶ慌てて飛び出したのだろう。明子らしいといえば明子らしい。

 一般的なサングラスよりも重量感のあるパワーグラスを手にしたとき、彼女はこんなものを装着していたのかという驚きと、これがある以上、明子を近いうちに見つけ出すことができるという安心感を得ることができた。

 心を落ち着けながら、後頭部にできた寝ぐせを気にする間もなく、1階へと下りる。

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