Scene27 亡き恋人のシルエット《アーロンの場合2》
「どうかしました?」
北村ジュンは猫のように背伸びをした後、怜音の方を向いた。
「え? いや、ちょっと考え事をしてたのよ。それより1つ聞いていいかしら?」
「もちろん、ボクに答えられることであれば、何でも」
怜音は白い窓枠に置いた細いフレームの眼鏡を再びかけてから、夕暮れの菊ヶ浜に視線を遣った。
「こないだジュン君の実験台にされてから、頭の調子がおかしい気がするの」
「実験台って言うのはちょっと違うって、この前言ったんですけど」
「私の立場からすると、お試し体験だったかもしれないけど、あなたの立場からしたら、まぎれもなく実験台でしょう。だって、まだ開発途中のデバイスを私に装着させて反応を見たわけだから」
北村ジュンは口を尖らせ、不服そうに言い返す。
「なんだか、ずいぶんとロジカルなとらえ方をされますね」
掛け時計が夜の9時ちょうどを示した。
「まあ、そんなことはどうでもいいのよ。とにかく、記憶が混乱してるような気がするの。サングラスをしていないのに過去の記憶が蘇ってきたり、もう忘れているはずのことをふと思い出したり。眩暈もするの。大丈夫かしら?」
北村ジュンは手を無精髭の残るあごにあてがって考え込んだ。
「少なくとも、サングラスを外している以上、電磁波は流れていないですよ。脳には何も起こっていませんよ。考えられるのは2つですね。1つ目は怜音さんの気のせいです。船から降りた後も船酔いが続いているような気がするのと同じ原理です。もう1つは……」
北村ジュンはそこで口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「いや、これも考えにくいことだけど、1度エングラム細胞に電磁波を与えただけで、何らかの異常をきたしたということも、実は否定できないということです。脳の仕組みというものは医学でも解明されていないところが多いですから」
「もしそれが事実だとすれば、私は完全に実験台だったわけね」
北村ジュンは目をそらした。
この男は決して噓を言わないところがかえって信用できる。自分はどうなってもいい。夫を奪い取ったあの女に復讐ができればそれでいい。ほかに何もいらない。そのためには実験台にでも何にでもなってやるわ、と心に決めている。
「仮説を述べていいですか?」
「いいわよ」
「実は、その点について懸念はあったんです。それで、事前に医学の研究者にメールで意見交換していたんです」
「それで、結果は?」
「1度きりの短時間の電磁波照射なら脳細胞を破壊することはないとの見解です」
「でも、世の中に絶対なんてない」
「そこなんです。同じことを繰り返しますが、脳の仕組みなんて、最新の医学をもってしても、まだブラックボックスです。記憶がエングラム細胞の中で、何らかの規則的な配列に従って記録されているようなものだと仮想すれば、電磁波によってその秩序が壊される可能性だってある」
「つまり脳内の情報が、プログラム言語みたいにデジタル化されているというイメージね」
「そうです。まだ人類が解読できていない特殊な記号により配列されている可能性だってあるわけです。逆に、脳内がただの肉体の一部であれば、仲間の医学研究者が指摘するとおり、影響はないはずです。傷は自然治癒されるわけですから」
怜音は大きなため息をついた。やはり頭の奥が響く。
今日1日でずいぶんと疲れを感じてしまった。
そのうえ、アーロンとの記憶を蘇らせるだけで、心に大きなダメージを受けてしまう。
雪の上に飛び散る真っ赤な血。
非常に衝撃的な前衛芸術のように、心を鋭く突き刺す。
愛する夫の壮絶なデスマスク。あの血はまさにマグマだった。
自分の心を守るためにもその記憶だけは封印しておきたい。だが、アーロンとの幸福に満ちあふれた日々の余興に浸れば、必ず最後にはマグマが蘇ってしまう。
「今日は、酔いたいわ」
怜音は白いブラウスを脱ぎ、タンクトップになった。北村ジュンは静かにパソコンを閉じ、ソフトケースの中にしまう。
あの日から脳の中に異常をきたしている。たった1度だけ実験した自分でもこの状態なのだ。まして、ずっと電磁波を受け続けている明子の脳の中は一体どうなっているのだろうと想像すると、様々な思いがコールタールのように心にまとわりつく。
いいかい、お前は報いを受けるのだ。幸せだった私たち夫婦の中を切り裂き、私の胎内にいた子どもも殺してしまったのだ!
ふと振り返ると、赤ワインのボトルを持った北村ジュンが立っている。怜音は思わず声を上げた。それが一瞬、アーロンに見えたからだ。
あの人に会いたい。もういちどあの人の腕の中で眠りたい。
アーロンは、真冬のアイルランドの湖のような青い瞳でこっちを見つめている。
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