第17話 どうも犬君です、再びG(虫ではない)をぶちのめします。
「私が皆様に頼みたいのはただ一つです。それだけ、行ってください」
「何を言い出すの?」
「この頬に、何もないというそぶりを。それだけです」
腫れあがって赤くなった、痛みを感じる頬ですが、これが見えないふりを。
それだけを言えば、女房の皆さまも、葵上さまも、戸惑いながら頷いた。
「そして、もう一度お詫びを。……これから葵上さまや皆様に、かなり不愉快な物を見せることになると思います。それだけ、お許しを」
言って私は、懐から扇を取り出し、顔の下半分を隠した。
先ぶれの童が現れ、にこにこと笑顔で、上機嫌の左大臣、そして屑野郎が現れる。
屑は意外そうなそぶりで私の方を見てから、葵上さまを見る。
「まあ、葵上。藤壺様の女房に何か悪い事をしていたのか?」
「……」
葵上さまは何も言いません。言えなかったのでしょう。いましがたひっぱたいたので。
私はぱちん、と目立つ音を盛大に立てて、扇を閉じました。
屑は私の顔に浮かんでいる、あまりにも赤すぎる痕に目を見開きます。
「いったい何なんですかそれは。犬君、その顔は。葵上、あなたが何かしたのですか!? ……義父上、これほど嫉妬に狂う妻ではとても、これから共に生きることはできません。離縁を申し出たいのですが」
見開いた後、まるで台本があるかのようにべらべらと喋る屑。あまりの事にざわめく女房達のなか私は、言います。
「おや、驚いた。見えないものが見えるようになったとは、まるで狂気に侵されたよう」
「なっ……!?」
この暴言に周囲が絶句します。屑も左大臣も同じでした。私は彼等を微かに侮蔑を浮かべて見ながら言います。
「殿方にだけ見えるのでしょうか? 皆さま私の顔に何か?」
「いえ、何も」
「何も見えませんけれど」
女房の皆さまは、葵上さまの行った事を隠すために、私の頬に対して言及しません。
言わないように口止めしていますし。
彼女たちを見て、微笑み、それから屑を見ます。
「もしも私の顔にそんなものが見えるのだとしたら……きっと光の君が無碍にした数多の女性の怨念が、私の頬に痕跡でも残したのでしょう」
カワズさんとか多方面から、屑の下半身のだらしなさは聞いていますので。
嘘偽りではありませんし、最近最も心を痛めているのは六条の御息所だとも聞いています。
年上の美しい、教養ある愛情深いかの女性。
きっと最初は母の面影を求めて言い寄ったのに、優しすぎる事を疎んじて、遠ざかっているという。
恋人としても世間に広められていない女性です。
公にしていない恋人は、ないがしろにしていいという風潮のせいで、彼女は原作では心無い仕打ちを重ねられるのです……結果葵上を取り殺す。
「数多の女性の苦しみが、手っ取り早く現れているのでしょう。苦しみや嘆きは、耳を傾ける人の元に届くのですから」
「な、なっ」
男性陣は青ざめています。まさかの反撃、そして彼等にとってとても身の置き所がない言葉。
そして彼等には、女房達が嘘を言っているという事を断言できないのです。
「私、葵上さまがお会いしたいという事で来たのですが……まあ当たり前ですよね」
周囲が怪訝そうです。しかし私は微笑み言います。
侮蔑と嘲笑を込めて。
「裳着の際に私の帯を締めたのは陛下。後見と言う形にもなっていますから、そんな私が光の君と契れば、正妻としても生きていけない苦しみを味わうのです。私の意思を確かめたいと思うのは当たり前」
「!!」
その事実……私の裳着の際に、これから面倒を見たりすると表明した貴族はなんと、帝なのです。
そこが示す、私の立ち位置は葵上の生まれを飛び越えかねない。
そう言った視点からの事を思った事が無かったのでしょう。
左大臣が目に見えて青くなりました。
自分の一番血統の正しい娘が、正妻だったはずの娘が、犬君が屑と契ればそうではなくなる、と言う可能性に思い至ったのでしょう。
それは屑が、左大臣側でなくなるという事も示します。
更には、場合によってはですが……左大臣右大臣、双方の力を無視する面倒くさい、第三勢力になる可能性だって示しました。
「おやまあ」
左大臣の顔を見て、私はもう少し悪い顔で笑います。
懐の手紙を意識して、いかにもさかしらぶった風で。
「左大臣ともあろう方が思いつかなかったとは。あなたの娘に対して、地獄の底のような不安を抱かせる男をいつまでも大事に大事にしてまあまあまあ。見る目がありませんわね」
ぱちん。私は扇を開いて閉じます。手遊びのような、しかし威圧感がすごいものを。
「左大臣殿は、己の娘をないがしろにする婿殿に対して、もっと厳しくなれると言うのに甘やかして。その甘やかしが最低の気質を助長するのですよ? 貴方の力添えなくして、帝が退いた時身を守る事も出来ない男なのに」
「……」
葵上さまが黙っています。驚いているのは女房の皆さまです。
この視点は、女性が見なかった場所なのでしょう。
女性が見えないように教育されいているだろう、部分でもあります。
「東宮のお母上……弘徽殿の麗しい人が、光の君を大変に嫌っているのを、どちらも存じない? 己の危険も察知できないでよくぞ、ここまで何も起きなかったものですね」
「何が言いたい!」
左大臣が私に怒鳴りますが、私にそんなものが通用すると思っているのでしょうか? 懐の手紙の朱色の訂正以上に、心をえぐられやしませんよ?
「臣籍降下した光の君は、いまだに御父上桐壺帝の優しい父性愛に守られていると言っているのです。それの力でほかの場所からの悪意をぶつけられていないだけ。それに気付かず我儘三昧好き放題。心から大事にして、お互い支えあえば立ち向かえる女性をないがしろ。それでも、いつまでも自分が一番だと思っている。まあ愚か愚か」
左大臣が光の君を見て、自分の娘を見て、慌てふためいています。
彼は私の指摘で、光の君の立場の弱さを、やっと思い至ったのでしょう。
そして、自分の娘が蹴飛ばせば、この婿殿は落ちぶれていくのだとも。
「桐壺帝が守り切れなくなった時が、光の君の凋落の始まりですね」
ばらり、ばちん。手慰みのように扇を開閉させて、私は彼等を見ました。
周りはぞっとした顔で犬君を見ています。今を盛りとする青年が落ちぶれる未来、と言う物を予見したように喋る犬君は、さぞ不気味に見えたのでしょう。
にこり。楽しそうに笑って見せて、犬君は彼等に言いました。
「この頬に向かった、数多の女性の苦しむ心が、守る力が無くなった時一体全体どうやって、光の君に不幸をもたらすのでしょうね?」
ばたん、とそこで屑がぶっ倒れました。己のキャパシティーを超えたのでしょう。犬君はさっきから、彼にとって心臓に悪い事ばかり言っていましたから。
へなへなと座り込んだのは、左大臣でした。
「何という事だ……なんたることだ……こんな事をこんなうら若い娘に言われるとは……」
「葵上さま、この殿方にまだ優しくして差し上げるやさしさがあるのでしたら、何処か寝かせられる場所に運ばせるように指示を出してくださいな。犬君はそろそろ帰ります」
「……あなたに何とお礼を言えばいいの?」
葵上が呟きます。
「お礼?」
「私たちが思いもしなかった穴を教えてもらえたのです。私たちが、見ようともしなかった場所、そんな事はありえないと思い込んでいた盲点……左大臣家にとってとてもとても、大事な視点のお話」
「そうでしょうか? 誰か気付きませんか?」
「気付かなかったから、お父様がああなっているのですわ」
「そうですか。間接的に守った事になるようですね、そこの屑野郎の事も」
「あなたかなり……光の君を嫌っているのね」
「前触れも何もなく、予想もしない時に発情されて襲い掛かられて、嫌わないでいられますかね」
「まあ……」
葵上は、しばし屑を見た後、父を見た。
「お父様、私は知りませんでした、光の君がそんな男だと」
「葵」
「縋る事も嫌になる男ですね、この方」
「葵、だめだ、考えを改めて……」
「ふふ」
葵上が緩やかに、とても美しく微笑みました。
「駄目な殿方を叩きなおすのは、面白そうですわ」
え、そちらの趣味ですか葵上さま……
私はその時、葵上さまの瞳に、だめ犬を躾け直すのを楽しみにする、凄腕の狩人の炎を見ました。
「なんでも完璧で、私が見劣りする殿方の近くにいるのは、とてもとても気づまりですが、これからはそのような物を感じなくて済むでしょう」
微笑みを見て、父親が頭を抱えていました。
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