第10話 散り際の桜のような人

兄の求愛を蹴飛ばすような、大変に作法のない女の子がいると聞いた。

蛍はその噂を聞き、首を傾けながらも面白がった。

父上である桐壺帝から溺愛されているこの光という兄は、大変に我儘で自分の思うままに行動する短慮な部分があるやつである。

欠点が何もないよりも人間味はあるし、話していて風雅な事ではわりと話が合うため、蛍はそこそこ気に入っている兄だ。

少なくとも、その母親の気性の激しさのために、近づけない朱雀兄よりは遥かにとっつきやすい兄である。

だがこの兄は欠点を隠すのが上手で……そして何より見た目がいい。

それのせいで誰もかれもが、この光源氏を称賛するのは、仲のいい弟であっても面白い物ではない。

さらに蛍の恋を、ことごとく邪魔する兄でもある。

何故かあの兄は蛍が見つけ出した美しい女性を、嗅ぎ付けるのがうまく、先を越すのだ。

何べんもそれで恋に破れてきた蛍は風雅な感性とひねくれた性格を持つようになってしまい、その結果として今、愛すべき奥方に巡り合えていない。

一度、弘徽殿の女御の姪を正妻にもらったのだが、愛を育てる前に死別され、それ以来すっぱりと女性関係を切っていた。

いかんせん先立たれるのは辛いのだ。手が徐々に力をなくし、気丈に微笑む姿も苦し気になり、息がゆるりと絶えるあの瞬間を何度も味わいたいとは、とても思えないのだから。

女性関係を断った事で、一度や二度、衆道のけがあると噂されたものの、その噂を声を荒立てて否定しなかったため、誰も面白く思わなかったのだろう、噂はすっかり立ち消えた。

そんな蛍は鼻が抜群に優れており、香道で右に出るものがいないと言われていた。

更に管弦の才能も素晴らしく、何かしらの宴で判定を求められる事もたびたび。

当代一の風流人と言われるほどの人物だった。

そして絵画の才能が際立った兄光源氏と、その風流な側面で話題に事欠かず、光源氏を冷たく見つめるほかの兄弟たちとは違い、交流を持っていた。

弘徽殿の女御に睨まれてばかりの兄としては、親しい弟という扱いに違いない。

あの兄は意外と同性の友人がいないのだから。

しかしそれはさておいて。

蛍は管弦仲間の話に耳を傾けた。


「光の君はそして、御簾の中に入る事も許してもらえなかったそうだ、裳着をしたばかりの十四か十五くらいの子に!」


絃を調整している友人が面白そうに言う。

この友人も、兄に片思いの相手を奪われた被害者である。


「痛快だよな、あの女性たちに絶大な人気を誇る光の君が、麒麟の導きで宮中に入った奇跡のような女の子に、突っぱねられるなんて!」


もう一人の友人が、笙の具合を見ながら言う。


「それも痛快だったっておれの恋人が言っていたよ。何でもよその女全部と縁を切れって言ったらしい」


「うわあ、女性関係すごすぎるあの光の君にそんな事言ったのか、勇気があるというかこの後の縁談なんてものを何も考えていないというか」


「聞けば藤壺の御方の前世の娘様の幸せを、見届けるのが使命なのだとか言ったとか」


「忠誠心に厚いんだなあ。そんな乳兄弟欲しい」


「お前乳兄弟に裏切られたんだっけな」


「そうだよあいつに先を越されるとは思わなかったよ!」


男たちは言いながら楽し気に話している。

蛍はそこで、一つの事に興味を抱いた。


「その女の子は、兄上と契りを交わしたわけじゃないんだな?」


「その前に思いっきり拒否したんだと。うちの奥さんの情報によれば」


藤壺に妻が女房仕えしている、年上の友人が言う。


「なら少し垣間見ても非難は受けなさそうだな……よし、いまは時間もいい頃合いだ、少し覗きに行かないか」


蛍はそんな事を周囲に提案した。男たちは実際に大変珍しい少女に興味津々であり、口々に賛同するかと思ったら。


「いや、私たちは垣間見たいっていうのではなく、あなたの兄が痛い目を見ているのが痛快なだけですので、のぞきに行くならあなた一人でどうぞ」


一人が代表のように言い、周囲が頷いた。


「うちの奥さん情報によると、藤壺の御方の娘さまは目を見張るほど美しく、藤壺様の幼い頃の様らしいけど、その乳兄弟……はたいした顔じゃないらしい」


「絶世の美女なら見に行く価値もありそうなんだけどな」


うんうんと頷いた友人たち。その少女の事に強く心惹かれたのは、どうやら蛍だけらしい。

彼は苦笑いをして、言った。


「なら私だけ見に行ってくる」


「おう、その間に俺たちは絃の調整終わらせておくわな」


「蛍の宮がいないとやっぱり、判別者がいなくてつまらないものな」


立ち上がった蛍を見送る友人たち、蛍はするりと笑い、足を忍ばせて問題の場所を目指した。

後宮は男子禁制というわけではなく、殿上人の宿泊所になっている殿舎もあるくらいで、さらに恋人に会いに行く男も多いため、割と誰でも侵入可能なのだ。

そこで蛍は少し顔を隠し、ほかの誰もを邪魔しないように足を忍ばせ、藤壺殿に向かった。

そこは他よりも華やかな声に満ちている。

それは新しく可愛らしい女の子が来た事で、女房達が浮足立っているからだ。

更に、光の君が問題の少女に会いに来るかもしれないとざわめいているのだ。

しかし、女性関係を全て清算しろと無茶難題を要求されたからか、兄の姿や香りはどこにもない。

今日は来ないらしい、と思った矢先だ。


「あ。これだわ!」


「また若紫の勝ちだわ」


「犬君はこれ本当に苦手よね」


「どうしても覚えきれないんですよね、困った事に……」


藤壺殿で軽やかな笑い声が響き、女性たちの楽しげな声と、幼い声、やや大人びた声が響いた。

女性の声はおそらく藤壺の御方の優美な声であり、幼い声は引き取られた娘御だろう。

だが。

蛍は最後に響いた、やや大人びた声に心臓を打ち抜かれたような気持になった。

声を聞いた瞬間に、心臓を何かが貫いたのだ。

見事な程まっすぐに、ほんの一瞬で。

それは背筋が寒くなるほどの何かであり、蛍は目を見開きしばし動けないでいた。

そして。


「今日は月が大変にきれいな夜の様ですよ、姫様。眠る前に月でもご覧になりますか?」


「まあ、それも素敵だわ、犬君、御簾をあげてちょうだい」


大人びた声の提案に喜ぶ藤壺の女御、そして開けられた御簾。蛍はとっさに建物の柱に隠れた。

御簾を上げた事によって、それを上げたのが噂の少女だとわかった。

彼女は月を見て喜ぶ主人たちを見やり、軽く微笑んだ。

柔らかな笑みだった。

胸をかきむしられる笑みでもあった。

儚くて、脆くて、あまりにも宮中では見られない笑み。

視線の先に主人がいるのだろう。娘へ向ける視線の温かさ。

笑顔を、華が開くようと例える人々は多い。

だが彼女の笑顔は違っていた。

華ではなかった。

彼女の笑顔は。


「散り際の、桜」


恐ろしいほど美しいのに、一瞬で失われてしまいそうな危うさがある、そんな笑顔だった。

時をとどめて彼女の笑顔をとどめておきたい、と痛切に感じるような笑顔。

蛍は衣類の上から、心臓の部分を抑え込んだ。

そうしなければ、心が飛び出してしまう気がしたのだ。

彼女はしばらく主人に月を見せた後、不意に視線を蛍の方に向けた。

偶然か、と隠れたまま思っていれば。

彼女が笑った。

にやり、と少年のような悪戯小僧の唇で。

そして秘密というように、指を一本唇の前にあてがった。

それもほんの一瞬で、彼女は向こうに去って行った。


「……気付かれていたのか」


気付いていて、彼女は、自分の主人を害さないと判断し、蛍を見逃してくれたのだ。

あの笑顔はそれだった。

散り際の麗々しさをたたえたかと思えば、悪童さながらの笑顔を見せる少女。

どちらが本質なのか、いや、きっとどちらも本質だ。

そっと足を忍ばせて、元来た道を戻る間、蛍の心臓は高鳴り続け、脳裏から彼女の笑顔が離れる事はなかった。

そして仲間の元に戻ると、彼等は仰天した顔になった。


「どうしたんだよ蛍の宮、耳まで真っ赤だ!」


「まさか問題の少女はそんなに美人!? いや奥さんはそんな嘘はつかない!」


「……」


蛍はずるずるとその場に座り込み、耐え切れずに呟いた。


「桜の君……」


「はっ!? そんなにしっかり顔を見られたのですか!?」


「それって突っぱねられた光の君よりも、脈があるって事じゃないか!」


「良し蛍の宮、一筆手紙を送るんだ! お前ならできる!」


どうやら友人たちは、兄である光の君が求愛している相手でも、蛍を応援してくれる仲間であるらしかった。



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