第二十話 居場所
今から四年前、《新加納の戦い》において、信長と重治は出会った。
一五六三年(永禄六年)四月、美濃弾圧を目指す信長は五千七百もの兵を率い、美濃に進攻。この時、父斎藤義龍の死後直ぐ家督を継いだ十六歳の龍興には采配を振るうことは難しく、対し斎藤家の兵は三千五百と織田家に大きく劣っていた為、家臣の動揺も甚だしかった。信長はこれを好機だと悟り進軍したのだ。
しかし、織田の勝利と思われた矢先に、計算を狂わす思わぬ事態が起こる。
美濃三人衆の強さはもちろんのこと、龍興の家臣である若干十九の青年。その男の策によって信長は翻弄される。
旗色の悪さを悟る信長は、織田兵に撤退を命じたのだった。
「義龍……あの様な者を隠しておったとはな……」
《美濃の策士、竹中重治(たけなかしげはる)》。彼は信長(このおとこ)よりも一歩上手だった。
「ふ……ふふ……」
信長は頭に手を置き、笑う。家臣は言葉を無くし、ただ信長の様子を見ていた。
殿は、本気で悔しがっておられる。
あんな信長(との)を、家臣の誰一人として見たことは無かった。
竹中重治、後の《竹中半兵衛(たけなかはんべえ)》は、竹中重矩の兄である。
信長は弟でさえ、油断できない存在だと認識していたのである。
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「重矩……?」
家臣の間で静寂が広がる。重矩は家臣の一人から地図を貰い、床に広げた。
「稲葉山城は森に囲まれた城。兵を隠す場所なら幾らでもあります。」
「確かに、不自然ではあるな……」
「兵を少なく見せ、我等をこの稲葉山城から誘き出そうとする、信長殿ならやりかねないことです。」
全ての家臣の目が重矩に向く。重矩の言葉には説得性があり、全ての者が彼の意見に頷く。否、たった一人を除いては。
「待て、重矩。」
ただ一人、重矩の意見に牙を向けた者。稲葉良通である。
「それは其方の一意見でしかない。もしその兵が織田の全軍であれば如何する?我らに比べ格段に少ない兵にも関わらず籠城を構えるなど、近隣の笑い者じゃ。」
「確かに、全ては私の持論にございます。しかし稲葉殿。貴方様はあまり信長殿を見くびらない方が宜しいかと。」
「何……?」思わぬ発言に、稲葉は眉間に皺(しわ)を寄せる。
「貴方様もご存じの筈。四ヶ年前の新加納での戦、信長殿は有利な状況と読み、隙を見せておりました。あの時、我が兄がその隙を突いた伏兵策を用いねば、我らは確実に負けておりました。恐らく此度は、信長殿も本気かと。」
「……兄の自慢をしたいのか……?」
「自慢などとんでもない。私は事実を語ったのみにございます。」
重矩はそう言って、稲葉の耳元で囁く。
「……全く、稲葉殿は頭が固(かと)うございますなぁ。」
その重矩の言葉が、引き金となった。
「こ……っのぉ若造がぁぁぁ!!!」
怒りが頂点に達した稲葉は重矩の頬を思い切り殴った。重矩はその場に倒れ、全員が稲葉を止めようと立ち上がる。しかし稲葉は止まらず、怒り狂ったようになお襲い掛かろうとする。
「や......っ!やめんかお主ら!!」
突然のことに動揺を隠せない龍興は、どうにかして事態を止めようとする。こんな所でバラバラになってしまっては元も子もない。
重矩は家臣に支えられながらゆっくりと立ち上がる。彼のその表情は、うっすらと笑っていた。
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空は徐々に明るくなってきている。先導している丹羽達は立ち止まり、振り返った。
「良し。この先を行けば恐らく辿り着ける。此処からは其方らのみで向かってくれ。」
「……はい。ありがとうございました。」
丹羽達は俺の肩を叩き、笑みを浮かべる。まるで、戦場に向かう戦士を称えるかの様に。
「清重くん、必ず帰って来るんだ。危ないと思ったら逃げても良い。良いな。」
三鷹はそう言って、拳で俺達の胸を叩く。俺達はその言葉に頷き応える様に、胸に叩き返す。
(これなら大丈夫そうだな。)
俺は覚悟を決めていた。これから何が起ころうとも、生きて帰ってくると。三鷹はそんな俺達の目を見て、頬を緩ませた。
【織田陣中、瑞龍寺山】
(清重……無事でいてくれ……)
陣に留まる遠藤は平然と座っている。しかし心の中では強く、清重達志の無事を祈っていた。
「険しい顔をしておるな。」
「……っ!?」
話しかけられた遠藤は瞬時に振り向く。そこには帰還した丹羽長秀が立っている。
「あ……いえ……別になんでも……」
遠藤の反応を見て、丹羽はふと笑みをこぼす。
「先(さき)の其方の反応、瞬く程に早うござった。それに加え、身体の揺すりが止まっておらぬ。それこそ落ち着いておらぬ証じゃ。」
遠藤は驚く。丹羽(かれ)は人を見る目が鋭い。丹羽は遠藤の肩に手を置く。
「清重のことは心配せずとも良い。儂が見る限り、あの者は何処か殿と似ておる。このような所で死ぬ様な男ではないわ。」
遠藤は彼の言葉に目を細めた。
〈またそれだ。〉と歯を食いしばる。
清重達志は殿(オダノブナガ)に似ている。
じゃあ、俺は?
清重が持っているものを、自分は持っていない。だから清重と共に敵陣に向かうことが許されなかったのかもしれない。そう思うほどに、この世における自分の存在価値が少しずつ薄れているように感じた。
この世界は、どうして未来から自分を呼んだんだろう。
「殿、只今戻りました。」
佐久間が直々に行った信長への報告。信長は振り返ることなく砦から城を眺めていた。
「雑兵は居たか?」
「いえ、我らの前には一人たりとも。」
「足止めも付けぬとは、道三殿の孫とは思えぬ中々の愚采よ。」
信長は鼻で嗤う。この時、信長は既に気づいていた。単純に城外に兵を付かせていないという有り得ない状況から、主君斎藤龍興が焦っている、そして稲葉山城内に何やら不穏な空気が漂い始めていることを。
「サルに伝えよ。明日朝には出陣出来る様に支度をせよと。」
信長は振り返る。佐久間から見たその姿は月光に照らされ、恐ろしさを感じるほどに不気味なものだった。
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三鷹達と離れ、俺は残った五十人の兵と共に、闇の広がる山道を進む。
(あれか……?)
遠くで火の揺らめきが見える。俺は遂に敵陣に辿り着いたのだ。俺は兵の一人に訊ね、自分たちが行うべき役目について再確認する。実を言えば敵陣へ向かうまでに信長の考えについて丹羽達に訊ね、様々な意見を合わせた末に俺は一つの結論に至っていた。
それは敵の旗印を持つ俺達を敵陣に向かわせ、味方だと思わせることで隙を作り、一気に城を包囲するという考え。一見シンプルの様にも思えるが、この策は、自分たちがいかに味方だと思わせることが出来るかにかかっている。
「清重殿、今は此処で待機するのが宜しいかと。」
御付きの者の殆どは何度か戦の経験がある。俺は彼らの言葉を聞き、森の奥深くで様子を見ることにした。
(あの三人は、今頃どうしているんだろうか。)
俺はふと三人衆のことが頭に浮かんだ。御付きの者によると、先日織田宛に三人衆から密書が来たという。氏家と安藤は人質を差し出す為に美濃を離れているが、稲葉は美濃に残っているという。やはり稲葉殿は織田に来る気が無いのだろうかと、俺は少し残念に感じた。
しかし、織田が攻め込んできたことは稲葉には知られている訳で、もし秘密裏に氏家、遠藤に伝えられたら、彼らは美濃側に味方するかもしれない。そうなると城を落とすのはより困難となり、彼らが二度と味方には付くことは無いだろう。俺は稲葉がそれを二人に知らせないこと、もしくは二人が味方をしないことを切に願っていた。
「見ろ。夜明けだ。」
一人の男が立ち上がる。太陽が東の山からゆっくりと顔を出し始めている。この太陽が沈む頃には、きっと勝敗が決している。そう信じ、俺は立ち上がる。
一五六七年、八月一日。それは、稲葉山城の戦いの戦況が大きく動く日。
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【斎藤家 陣中 稲葉山城】
「急げ!信長が攻めるならば恐らく今日じゃ!奴が体制を整える前に支度せよ!」
龍興が指示を出す所に、一人の男がやって来る。
「殿。何やら兵が此方に到着しておりますが……」
「……敵か?」
「いえ、分かりませぬ。しかしながらその者等(ものら)は撫子の旗を差しております。我らの家紋です。」
「……まあ良い。今は確かめる暇も無い。その者らを後方に付かせよ。」
この龍興の行動が、運命を分けることになることを、何人が予想できたものだろうか。
【織田家 陣中 瑞龍寺山】
「清重、遠藤隊、敵軍の後方に付きました!」
信長はそうかと呟き立ち上がる。
「戦端を開く!今こそ敵城を奪う時じゃ!!」
家臣は返事をし、動き始める。気合を入れ刀を振るう者、信長の策を今一度確認する者、戦は出来ぬと飯を食す者。様々なものが思い思いに動き始めた中で、三鷹だけは何もせず、じっと座っていた。
「如何しました?森殿。」
男の声に我に返る三鷹は、顔を上げる。傍に立っていたのは、木下秀吉。
「清重達を案じておられるのですか?」
「……あぁ。案じては居らなんだが、あやつらなりに良くやったと思うてな。」
三鷹は頬を緩ませる。秀吉はその様子を見て、三鷹の横に座る。
「森様はあの時、清重達と何を話したのですか?」
三鷹は何も言わなかった。しかしそれは秀吉にとって予想通りの反応だった。秀吉は諦める様に俯く。
「……先の世の話をしておった。」
秀吉は驚くように三鷹を見る。
「先の世……?」三鷹は頷き、暁の空を見上げる。
「一年、十年の話ではない、何百年という先、此の日本(ひのもと)は一体如何(どう)なっておるのか。それを語り合っていた。」
「ほぉ、森様はどう御考えで?」
「戦が無く、誰も争わず、人が死なず、誰も傷付くことのない世が、待っておると思う。」
三鷹の言葉に、秀吉はふと笑顔を見せる。
「そのような世が、早く来ると良いですなぁ。」
三鷹は秀吉を横目で見る。
「秀吉。ひとつ聞いても良いか?」
「?」
「戦が無く、誰も争わず、人が死なず、誰も傷付くことのない、そのような平和な世が訪れたとしたら、其方は其処(そこ)に、我等の居場所があると思うか?」
問われた意味に気づいた秀吉は、黙り込んでいた。
「居場所が無ければ、創れば良い。」
返答に驚いた三鷹は、秀吉を見る。秀吉(かれ)は笑みを浮かべていた。
「森様が創れぬならば、拙者が創ります。拙者が創れぬならば、誰かが創ります。其れだけのことにございましょう。」
三鷹は目に涙を浮かべる。それを隠す様に頬を緩ませ、そうだなと呟き、立ち上がった。
「生きるぞ。秀吉。」
秀吉は彼の言葉を可笑しく感じたのか、少しだけ笑い、頷いた。
この時代に生きる誰もが、いつかやって来る筈の太平の世を夢見る。
そして、人を殺さない世界がいつか、当たり前になってしまう時が来る。
其れを当たり前ではないと言える日が、やって来るだろうか。
三鷹昭二はその日初めて、生きる意味を見出した。
いつか誰かの〈居場所〉と成り得る存在になりたいと、そう願って歩き出したのだった。
続
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