第25話 VS化け猫④
「おかしいよなァアア。
「…………」
櫻子は雑草の生い茂る地べたに坂本を押し付け、馬乗りになって彼を睨みつけた。おでことおでこをぐりぐりと押し付ける。坂本はただぽかんと口を開けたまま、至近距離で威嚇してくる櫻子の様子を無表情で見つめていた。櫻子は腹の底から響いてくるような、低い唸り声を上げた。
「つーかそもそも、最初っから怪しさ満点なんだよ。誰も姿を見た事ないなら、その正体が”化け猫”なんて言い切れるハズねーんだ」
「…………」
「今朝、初めて私たちに”でいどろ”の話を振った彼方さん。彼女は”でいどろ”の姿を見たことがないはずなのに、”化け猫”だって言い切った。今思えば、彼女の姿に化けた”でいどろ”だったんだ」
「…………」
「だけどその時も含めて、坂本は”でいどろ”の話にずっと耳をふさいでた。昨日やって来たばかりの坂本が、”でいどろ”の正体なんか知るハズがねぇ。”化け猫”なんて、知ってなきゃ出て来ねえ言葉だぜ」
櫻子は坂本が逃げ出さないように彼の両手首をがっちりと掴み、瞳の奥を光らせ白い歯を浮かべた。坂本が少し驚いたようにピクリと眉を動かした。
「とうとう尻尾出したな、”化け猫”さんよぉ……!」
「…………」
「テメーが、山之上兄妹を丸めて殺した”でいどろ”だ!」
森の中を、冷たい風が通り過ぎて行った。ブナの枝先がしなるように揺れ動き、ざわざわと葉の擦れ合う音が、地面に倒れ込む二人の周囲を包み込んだ。
「……やれやれ」
「!」
「正解と褒めてやりたいところじゃが。まだ半分じゃ」
不意に坂本の口から、嗄れた老婆のような声が漏れ出した。櫻子が驚いて目を見開くと、その目の前で坂本の顔が奇妙に歪み変化していった。瞳孔はまん丸と眼球全体に広がり、頭頂部からは耳のような三角形が生えてきて、ほっぺたには髭のような亀裂が走った。正に猫と人間を掛け合わせたような形相だ。櫻子は思わずぎょっとなって仰け反った。坂本がにぃい……っと唇の端を釣り上げた。
「青い。青いのお」
「なんだと?」
両腕を抑えつけられ、身動きの取れない状態で。それでもケラケラと高笑いする”でいどろ”に、櫻子はさらに眉をひそめた。
でいどろは、今でこそ正体を現してはいるが、なるほどさっきまでは確かに全く坂本本人と見分けがつかないほどだった。顔や背格好だけでなく、喋り方からしぐさに到るまで……坂本と言う人間そのものを完全にもう一つ再現したかのように……坂本にそっくりに変身していた。でいどろがその気になれば、周囲に気づかれず本人と入れ替わることなど容易いだろう。櫻子は目を細めた。いつの間にかお尻の辺りから茶色い尻尾を生やした坂本が、毛むくじゃらのそれをふわふわと櫻子の目の前で漂わせた。
「いかにも。ワシが”でいどろ”と呼ばれとるのは、間違いないがのう」
「!」
「じゃが、あの二人を殺したのはワシではない。女子の方を殺したのは、そこの男じゃ」
坂本の姿をした妖怪が、歪な形に手足を捻じ曲げられた恒雄さんの死体を指差してそう告げた。
「は? 彼方さんを殺したのが、恒雄さんだってのか?」
でいどろが満足げに頷いた。
「左様。昨日の晩から、二人でこの森の奥で揉めておったよ。それで、男が女を崖から突き落とした」
「なんで……」
でいどろは首を振った。
「理由は知らぬ。金銭にしろ悪縁にしろ、人間同士のあれやこれやは、ワシには正直理解できぬ。じゃが男は、この山を無益な殺生の血で汚したのじゃ」
その口調は穏やかだったが、でいどろの口振りには静かな怒気が含まれていた。でいどろがゆっくりと上半身を起こした。今度は櫻子が覗き込まれる番だった。櫻子の視線はでいでろの妖しく輝く瞳に吸い寄せられた。
「人には人の
「アンタ、私の正体を知って……?」
「じゃからワシは死んだ小娘に化けて、今朝あの男の前に姿を見せた。あの男は、そりゃあ驚いとったよ。何せ昨日の晩殺したはずの女が、朝方けろっと現れたんじゃからな」
「……悪趣味なヤローだぜ」
そう吐き捨てた櫻子を無視して、でいどろは可笑しそうにケラケラと嗤った。
「その後、己が埋めた死体を確かめに来た男を殺した」
「…………」
でいどろは、まるで「今日は朝食にパンを焼いた」くらいの調子でさらりとそう言ってのけた。櫻子はでいどろの手首を掴む両手に力を込めた。
でいどろの話によると、やはり昨日の晩、既に彼方さんは殺されてしまっていたようだ。
それも兄の恒雄さんの手によって。
山を汚されたと判断したでいどろは、殺されて森に埋められた彼方さんに化け、今朝コテージに姿を現した。恒雄さんの方は、もちろん仰天したに違いない。殺したはずの妹が、普通に朝食の席に座っているのだから。今にして思うと、彼の挙動がどこかおかしかったのはそのせいだったのかもしれない。
先ほど櫻子が部屋の窓から確認した恒雄さんの後ろ姿は、妹の死体を確かめに行くところだったのだ。でいどろは彼方さんに化けたまま、何食わぬ顔で櫻子をリビングで見送り、それから先回りして恒雄さんの頭上から丸めた死体を落とした。それから慌てて逃げ出す恒雄さんを殺し、でいどろは今度は坂本に化け、部屋で櫻子が来るのを待っていた……。
「わざわざ見せしめみたいに、死体をこんな形にして……制裁ってワケか? 人を殺した罰を与えるために、お前が殺人を犯すのか?」
櫻子は小さく首を捻った。
「なんだそりゃ」
「若いの、ちと違うのう。これは”自然”じゃ。
でいどろはそう言って櫻子の顔を覗き込んだ。その冷え冷えとした目に、櫻子は口を噤んだ。
きっとこの妖怪にしてみれば、今こうして山之上兄妹の死体が丸められて転がっている事は、自然現象と何ら変わらないのだ。薄暗い雲から雨が降るように。太陽が東から昇り西へと沈むように。その方角に向かって向日葵が顔を傾けるように。
この泥土山では、山を”汚した”者は泥団子のように丸められるのが”自然”な事なのだ。
制裁を知らしめるために、でいどろはわざと自分たちに接近した。
そして櫻子の前に二つ目の死体を落とし、その姿を晒して見せた。
「ところで……」
「!」
でいどろが手首をしなやかに捻り、櫻子の拘束をいとも簡単に振り解いた。それからすっと手を伸ばして、お返しとばかりに櫻子の顔を両側から包み込んだ。櫻子は、警戒していたにもかかわらず反応できなかった自分にまず驚いた。それほどまでに、素早く無駄のない動きだった。櫻子はでいどろに見つめられたまま、思わず固まった。でいどろの手のひらはひんやりとしていて、櫻子の頬から体温を奪った。でいどろが櫻子の鼻先に顔を近づけ、にっこりとほほ笑んだ。
「若いの。こんなとこでぼーっとしてる場合かのう? ほれ、お主の連れの男……」
「!!」
でいどろの言葉に、櫻子はギクリと顔を強張らせた。
「坂本のことか?」
「今頃、団子かもよ?」
「何!?」
櫻子が目を見開いた。でいどろは櫻子の目の前で瞬く間にその体躯を変化させ、坂本の姿から猫のような姿になった。櫻子が呆気に取られたのもつかの間、でいどろはそのまま驚くような跳躍力でブナの木の天辺まで飛び上がると、一目散に森の奥へと駆けて行った。
「また会おうぞ! 若いの!」
「……!」
冷たい風が、またしても森の中を吹き荒れた。去り際にそう叫ぶと、でいどろはあっという間に見えなくなってしまった。一瞬逡巡した後、櫻子は踵を返しコテージの方角へと走り出した。
□□□
「坂本ォ!!」
コテージに戻るなり、櫻子は宿泊していた部屋に飛び込んだ。
だが、返事はない。
最悪の事態が、一瞬櫻子の頭を過ぎる。静まり帰った部屋の中で、櫻子は思わず唾を飲み込んだ。坂本の姿を探し、櫻子は必死に部屋中の家具をひっくり返して回った。
「坂本……おい、坂本ォ!!」
「……な、何!?」
「!」
櫻子が部屋の押入れの扉を勢い良く開けると、ダンボール箱と一緒になぜか青い寝袋が押し込まれていた。青い寝袋の開いたファスナーの部分から、寝ぼけ眼の坂本がすっぽりと顔を出していた。
「坂本……テメー……!」
「どうしたの? 何かあった?」
ついさっきまで寝てました、と言う表情丸出しの坂本を見て、櫻子はガックリとその場にへたり込んだ。考えてみれば、坂本は山を血で汚した訳ではないので、でいどろの言う”
「……坂本だよな?」
「え?」
「……よくサバンナとかに住んでる、お鼻が長くてみんなに大人気の巨大な生物といえば?」
「天狗?」
「やっぱ坂本だわ。坂本、いいから来い!」
「うわああ! 何なに? 急になに!? 何があったんだよ??」
芋虫のように丸まった坂本をそのまま押入れから引っ張り出し、櫻子は探偵をフローリングに叩きつけた。顔面を床でしこたま殴打した坂本探偵は、寝袋の中でもんどり打った。
「ぐああああ!!」
「殺人事件だ! 今すぐ吉継さんと警察にも連絡しろ」
「さ……殺人事件?」
助手の高校生の鋭い言葉に、坂本は鼻からドクドクと血を流し床を汚しながらも、何とか反応した。
「ああ。犯人は……もしかしたら、見つかんねーかも知れねーがな……」
「どういうこと?」
「…………」
櫻子は渋い顔で黙ったまま、部屋の窓の外に広がる森を振り返った。
□□□
死体は、どこにも見当たらなかった。
櫻子が、今度こそ正真正銘の坂本探偵の手を引いて現場に戻ると、死体は忽然と姿を消していた。しばらく森の中を彷徨い歩いたが、同じような景色がどこまでも広がるばかりで、櫻子の嗅覚を持ってしても二人の死体はとうとう見つけられなかった。森の中で立ち止まり、櫻子は流れ出る汗を拭いながら、黙って辺りを見渡した。
でいどろが隠したのか……あるいは、”山”が片付けてしまったかもしれない。
あの死体は、山の戒律を破った二人への”制裁”と、櫻子への”見せしめ”だったのだ。
”山を汚すと、お前もこうなるぞ”、と。
「…………」
人間の警察にでいどろを捕まえるのは、困難なことのように彼女には思えた。二人はきっと、遭難者か行方不明者として扱われることだろう。
泥土山の、哀れな犠牲者として。
不意に冷たい風が、櫻子の頬を撫でて通り過ぎて行った。誰かに呼ばれたような気がして、櫻子は木々の隙間から顔を覗かせる山の頂を見上げた。もちろん、山が返事をするはずもない。山の頂上は、ただ黙ってそこに聳え立っていた。
”マタアオウ”
そう言い残した山の妖怪・でいどろの言葉を思い出して、櫻子はぎゅっとつないだ坂本の手を握り返した。
《続く》
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