第6話 VS透明人間④

 合流した田中と櫻子はともに、死体が発見された現場へと戻った。

 階段を登りきった場所から、既に管理人室には黄色いテープが貼られているのが見える。現場ではたくさんの警官たちがカメラやピンセットを片手に忙しなく蠢いていて、中には入れそうになかった。


「相変わらず、すごい匂いだね……」


 漂ってくる血の匂いに、田中は鼻をつまんだ。警官の焚くカメラのフラッシュと同時に、廊下が真っ白に照らされる。櫻子が眩しそうに目を細めた。線香花火のように浮かび上がった熱と光の残像の、向こう側の闇に田中は目を凝らした。

 あの暗がりの向こうに、まだ妹のハルカが眠っている。もう二度と起きることのない、物言わぬ肉塊となって。そしてその肉塊を作り出したのは、他ならぬ自分自身だった……。


「見つけた!!」

「うわっ!?」


 急に田中は頬に冷たいものを感じ、倒れるように仰け反った。田中の悲鳴に、数人の警官が振り返った。

「これは……?」

 困惑したまま田中が頬に手を伸ばすと、その部分がしっとりと濡れていた。いつの間にか田中のそばに誰かが近づいて来ていて、濡れた液体を頬に吹きかけられたのだ。

 坂本虎馬だった。

 突然の出来事に何が起こっているのか分からず、田中はしばらく呆然とした。視線を上げると、探偵が狭い廊下の隅に隠れてコソコソこちらを伺っていた。


「坂本!」

「やあ」


 突如姿を見せた坂本に、金髪の癖っ毛少女が敏感に反応して振り向いた。一体どこから調達したのか、探偵は霧吹きスプレーを手に持っていた。これは何のつもりなのか……探偵の謎行動に、櫻子が烈火の如く吠えた。

「やあ、じゃねー! 何してんだテメー!」

「なんだ……田中さんか」


 これまたどこに隠し持っていたのか、暗がりから姿を現した探偵は、丸いサングラスにサイズの合ってない巨大なマスク、『安全運転』と書かれた黄色いヘルメットを被っていた。

 右手には霧吹きスプレーを武器のように構え、もう一方には何やら『先端についた赤いランプが奇怪な音を出しながら点滅する謎の棍棒』が握られていた。田中は何と声をかけて良いのか分からず、顔を引き攣らせた。いつ通報されてもおかしくない、時代に取り残された哀れな変質者のような出で立ちだった。これが探偵と知っていなければ、警察に通報しているところだ。探偵が首をかしげた。


「あれ……? 僕がさっき開発した『透明人間センサー』によれば、確かにここに反応があったのに。おかしいな……」

「何が『透明人間センサー』だ。馬鹿なこと言って無えで、お前が消えろ!」

「ひ、ひどい……! 櫻子君、待って……ぎゃああああ!」

「はは……」


 櫻子がものすごい剣幕で坂本の霧吹きを奪い取り、顔とサングラスの間に突っ込んで容赦なく噴射させた。目に『対透明人間用特殊発光液』を浴びた探偵の、甲高い悲鳴が廊下に響き渡る。再び警官たちが顔を上げた。自らの用意した武器で撃退された探偵が、叫び声を上げながら暗がりの向こうへと逃げ去っていく。廊下の先まで走って追いかけていた櫻子が、しばらくして鼻息を荒くしながら戻ってきた。


「スンマセン田中さん。ッたく、あンのアホが……!」

「楽しそうだね」

「ハァ?」


 櫻子がポカンと口を開けた。なんだかんだ言って、坂本と戯れ合っている櫻子の姿が一番生き生きとしている。田中がそう指摘すると、金髪の少女は石のように固まったまま、口から棒突きキャンディを零した。なおも笑みを浮かべる田中に、櫻子は大げさに首を横に振って見せた。


「全っ然、楽しくないっス! アイツ、何にも役に立たないんで!」

「でも、実際楽しそうだよ。君はあの探偵と、どういう関係なのかな? どうして彼の下で……」

「もういいでしょ……! それより田中さん、さっきの話の続きなんスけど!!」

 赤いジャージ姿の少女が慌てて田中を睨みつけ、話題を逸らした。

「吉村さんが犯人じゃないって、どうしてそう思うんスか?」

「ああ……」

 櫻子の刺すような鋭い視線に、田中は少し考え込むような素振りをして見せた。

「そうだな……。吉村さんがいくら奥さんとうまくいってなかったからって、殺人を犯すような人には見えないし」

「…………」


 ただそれだけ……なんとなく、勘だよ。

 そう言って田中が肩をすくめると、櫻子が横で小さく頷いた。

「衝動的な殺人なら、寝室にあるものを凶器に使うはずっスよね。でも被害者は、外から持ち込まれたナイフで胸を刺されていた」

「しかし、密室の中、奥さんが殺されてしまったのも確かだ……。ちょっと推理してみるか」


 櫻子が頷いた。二人は階段を下りながら、待機場所の大広間へと向かった。田中はもう一度考え込む、ような素振りをして見せた。


 ここが肝心だ。


 何とか無理のないよう議論を誘導し、この少女に『犯人はやはり吉村以外ありえない』と思い込ませなくてはならない。

 とは言え、それは然程難しいことではないように田中は思えた。真犯人は自分だが、その真相に辿り着くにはまず『透明人間が存在する』という前提を証明しないといけない。よっぽど頭が御花畑ファンタジーで出来ている探偵でもない限り、そんなことは思いつきもしないだろう。思いついたところで、誰にも相手にされないのがオチだ。 


 つまり、どうあがいてもこの事件、犯人の勝利が確定している。

 犯人の、犯人による、犯人のための推理ショーの始まりだ。


 大広間の扉を開けながら、田中は目を細め、不敵な笑みを浮かべるのだった。


□□□


 大広間に入り、田中が探偵の助手を振り返ると、櫻子はポケットから新しい紫色の棒付きキャンディを取り出していた。田中は櫻子を中にエスコートしながら、わざとらしく彼女に切り出した。


「それにしても、透明人間ねえ……」

「……まさかさんも、本当にこの世にがいるとッスか?」

「まさか……」


 ほっぺたを小さく膨らませながら、櫻子が口をモゴモゴさせた。はここぞとばかりに呆れた顔を作り、大広間のソファに腰をかけ彼女の言葉を鼻で嗤って見せた。

「さっきも言ったけど、仮に自分の体を透明に出来る人間がいたとしても、壁をすり抜けられるとは限らないじゃないか。『透明人間』とはどういうものか、というところから議論しなくちゃいけなくなる」

「確かに」

「人が殺されてるんだ。もっと真面目に推理しようじゃないか」


 実際の透明人間も、壁抜けなんてできないしな。ま、そんなこと教えるわけないけど。

 透明人間・田中は内心ではそんなことを考えつつも、神妙な面持ちで冷蔵庫からコップと麦茶を二人分取り出しテーブルに並べた。


 発見当時、現場は完全なる密室だった。

 中から鍵がかかっていたのは、坂本とこの少女が証明してくれた。何より田中は、あの時二人と一緒にトランプをしていたのだ。この状況、どう考えても犯人は吉村以外ありえない。常人なら誰しもがそう判断するだろう。


 お前も早く、そう結論づけろ。


 ソファに腰掛けると、田中は目を細め、対面で胡座をかく癖っ毛の少女を見据え心の中で念じた。無駄だ。表になることのない証拠の手札は、ずっと真犯人の手の中だ。残念ながら犯人は吉村で決定。もう勝負は見えている。諦めろ、諦めろ、諦めろ……。


 まだ少し幼さの残る女子高生はしかし、妖しげに八重歯を光らせ、不敵な笑みで田中を見据えていた。その自信ありげな表情が気になって、田中は首を傾げた。


「どうしたんだい?」

「勝負を焦ったな……」

「え?」

「いや……でも、仮に『透明人間がいる』としたら、この事件は解決できるんスよ」

「なんだって?」

 静かな、だが少女の淀みない台詞に、大広間の空気がシン……と静まり返った。


 少し間を置いて、田中はコップに手をやると、そのまま麦茶を一気に飲み干した。それからもう一度、微動だにしない櫻子を見据えた。


「なんだい? まさか君まで、透明人間が密室をすり抜けたと?」

「いえ……仮に透明人間がいたとしても、さっき田中さんが言ったように、ソイツが自分の体を透明にできるだけなのか、それとも物体をすり抜けられるのか……。どっちにしろ、そんな事を議論する意味はないっス」

「じゃあ……なんだってわざわざ、君はそんな意味のない仮説を?」

「そうじゃなくて、この場合、犯人は私らが知ってる極々普通の人間だった、と考えるのが妥当っス。壁抜けなんかじゃなくて……犯人は普通に鍵が閉まる前に部屋に侵入し、はるかさんを殺した」

「おいおい……」

 櫻子の言葉に、田中の顔が歪んだ。


「じゃあ何か? 吉村さんが寝室に戻ったとき、奥さんは既に殺された後だったっていうのか?」

「ええ。犯人はまるで透明人間のように、誰にも気づかれず奥さんを殺した。そして布団を膨らんだ形にして寝ているように偽装した後、堂々と鍵を閉めずに出ていったんス」

「…………」

「そして何も知らない吉村さんが寝室に入り、死体になっている奥さんに気がつかず鍵を閉めて寝た。犯行時間は、吉村さんが死体を発見する遙か前だった。それなら密室は崩れ、誰にでも犯行は可能です」


 私にも、坂本にも。……もちろん田中さんにも、ね。


 そういって小柄な少女はじっと田中の目を見据えた。田中はゴクリと口の中に残っていた液体を飲み込んだ。

 

 この少女は一体、何を言っているんだ?


 犯行時間。

 こちらの手の中にあるはずの証拠の一枚を、この少女はどうやって……?

 まさか、私の秘密に気づいたのか?

 有り得ない。

 彼女の言葉は、事件の真相に気づいていなければ、出てこない。

 もしかして、真相に辿り着いたとでも言うのか? だが、一体どうやって?


 頭の中でぐるぐると言葉が渦になって、田中は思わず立ち上がった。


「……待てよ。それをいうなら外部の人間にも、だろ? 自分を擁護するようで悪いけど、私のアリバイは崩れないよ。吉村さんの悲鳴が上がった時、私は君たちと一緒にトランプをやっていたんだから」

「…………」

「それに、君もあの寝室を見たろ? あの血の量と匂いだぜ。いくら何でもあんな酷い死体が部屋にあったら、入って気がつかないなんて、有り得ないだろう」

 

 先ほどから櫻子は、両手を胸の前で組んだまま一切田中の出した麦茶に触れようともしない。なおもその場から動かず、一歩も譲ろうとしない少女に、田中は一気に捲くし立てた。

「自分の奥さんが横で殺されてるのに、『寝てると思った』なんて、そんな言い訳通じないよ!」

「言い訳じゃないっスよ。犯人には、吉村さんが絶対に死体に気がつかない自信があった」

「そんな馬鹿な……何を根拠に」

「例えば……」

 金髪の少女が田中を見据えて言った。


「殺されたが……仮にだったとしたら?」

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