本人登場、そして
びくり、と大きくセリウスが震える。クルトもヘルツも、目を見張って顧みた。
優雅に歩く人影が見えた。その人物は、姿が見えるところまで歩くと、ぴたっと立ち止まって、セリウスを睨んだ。
乗馬する時の格好で、髪型も一つに括られているが、間違いない。
エマ・トリューゼだ。
「トリューゼ嬢、どうしてここに」
「グレーウェンベルク侯爵が、ここだと教えてくださいました。表にいる警備兵たちにも、話はつけてあります。それよりも」
エマはクルトを一瞥しながら答えると、再びセリウスの方を睨む。そして、クルトよりも前のほうに歩み寄り、おこりんぼうたちとクルトたちのちょうど真ん中のところで止まった。
「セリウス様、これはどういうことですの?」
「これは、その、君の幸せのために」
「わたくし、そんなこと一言も頼んでいませんわ。わたくしを免罪符にしないでくださいまし」
エマがふん、と鼻を鳴らす。
「クルト様の言うとおり、たとえクルト様の婚約者になっても、わたくしが幸せになることはありませんわ」
「え……?」
「セリウス様、貴方が本当にわたくしのことが好きなら、分かるでしょう? 好きな人が別の誰かを好いて、その人しか見ていない、どれだけ努力しても振り向いてもらえない、その辛さが」
ぽた、と頭の上に滴が落ちる感触がして、仰いだ。顔の位置からして、セリウスの体液ではない。雨漏りだろうか。真上にはあの十字架によく似ているオブジェ。
再びエマを見る。相変わらずセリウスを睨んでいるが、その瞳には哀惜の念があるように見えた。
「クルト様には、忘れられない方がいらっしゃいますわ。クルト様は、ずっとその方を見ている。そんな方の傍にいるだなんて、かえって惨めな気持ちになるだけですわ」
クルトの目が大きく見開かれる。ヘルツは感心したように、ほう、と息を漏らし、セリウスに至っては言葉を失っている。
「だから、こんなことはお止めになって。アンジェリカ様を解放してくださいまし。そして、話し合いましょう? これまでのことも、これからのことも」
「ぼ、僕は……」
拘束された腕の力が抜けていく。ゆっくりと刃が下ろされ、胸を撫で下ろした。
クルトと目が合う。クルトが安心したように、目元を緩める。アンジェリカも微笑む。
そのとき、ミシッという音が上からした。
アンジェリカは再び天井を仰いだ。
雨漏りが酷い。オブジェから雨水が滴り落ちている。ミシ、ミシ、という音があそこからしているような気がした。
天井から? 違う。これは耐えきれない悲鳴のような音。天井は雨漏りしているが、塔で見た限り、屋根の上には重い物がなかったはずだ。
(あ……)
そういえば、あのオブジェは何で支えていただろうか。たしか、ロープだったような気がする。
元にいた世界では、ロープには色々種類があることをテレビで言っていた。化学繊維か、天然繊維か、大まかに分けるとそうなるとも。
(この世界には、化学繊維がなかったわね。と、なると天然繊維)
天然繊維のロープは確か、水に弱かった。
導き出した答えに、アンジェリカはセリウスを見た。
「はやく、ここから離れましょう」
「え、どうし」
セリウスが言い終わる前に、それは落下した。
スローモーションに見えた。ゆっくりと、それが落下してきているような錯覚に陥ったのだ。
エマが悲鳴を上げる。おこりんぼうとかなしんぼうも驚いたように、立ち尽くしているようだった。
ヘルツが動く前に、クルトがこちらに向かって走り出したのを、視界の隅で捉えた。
クルトの黒曜石みたいな瞳が、まっすぐアンジェリカを見据えている。
かつて、あの瞳に抱かれながら死にたいと願っていた。
けど、今は。
(死にたくない……っ!)
無意識に手を伸ばす。
クルトも、必死に手を伸ばした。
オブジェが迫ってきている。
クルトが口を開き、叫んだ。
「珊瑚――――――――っ!!」
それは、こちらに来て埋めてきた、記憶の一つ。
もう、呼ばれることはないと思っていた、本当の名前。
その瞬間、アンジェリカの中で何かが弾けた。
アンジェリカの身体から、閃光が走った。
一瞬にして、礼拝堂に眩い光に包まれ、オブジェも吹き飛んだ。
光が消えて、アンジェリカは呆然と立ち竦んでいた。
何が起こったのか、よく分からない。
目の前には、吹き飛んだオブジェの残骸。辺りを見渡そうとして、はた、と気が付いた。
(あら……? 金髪に戻っている)
染めていたはずなのに、一瞬で色落ちしてしまった。
何故だろう、と思いながら、改めて周りを見渡す。誰もが、アンジェリカを呆然としながらも、食い入るように見つめていた。
「クルト様ぁ!」
扉の向こうで、ベルベットの声と複数の足音が聞こえる。そして、ベルベットと警備兵数十人が、礼拝堂の中に入ってきた。
「一体なに、が……」
ベルベットも警備兵も、アンジェリカの姿を見て、立ち尽くし、食い入るように見つめる。
金髪に碧眼。それが示すのは、一つしかない。
ばれちゃったなぁ、と他人事のように思いながら、アンジェリカはゆっくりと段差を降りて、クルトの許へ歩み寄る。
金髪に戻ってしまった理由は、思い当たる。その原因であるクルトは、目を見開いたまま、アンジェリカを見ている。
クルトの前で立ち止まる。アンジェリカは、クルトに向けて笑みを浮かべた。
「小太郎」
名前を呼ぶと、我に返ったのか、びくっと肩を震わせた。
「名前、呼んじゃったね」
告げると、一瞬にしてクルトの顔が青ざめた。
思い出したのだろう。聖女の真名を呼んだ者は、強制的に聖女の伴侶になることを。
「ご、ごめん!」
クルトが手を合わせて、謝る。
「あら。小太郎の伴侶になったことは、気にしていないけど」
本心だった。伴侶になったことは怒ってもなければ、気にしてなどいない。
「それよりも、小太郎」
「な、なんだ?」
「どうして、ずっと黙っていたのかしら? あなたが小太郎であることを」
これは勘なのだが、小太郎は自分が珊瑚であることを、早い段階で気付いていたのではないかと思う。それなのに、どうしてとっとと告白してくれなかったのだろうか。
「その……歌を聴くまでは、自信がなくて」
視線を逸らしながら、たどたどしく答える彼に、アンジェリカは首を傾げる。
「なら、遠回りに聞けばいいのに」
「だ、だって、なんかストーカーみたいで、引かれるんじゃないかと」
それを聞いて、アンジェリカは目を軽く見張らせた後、小さく笑った。
「馬鹿ね、小太郎は」
「ば、馬鹿って」
「馬鹿な子とは思っても、ストーカーって思うわけがないじゃない」
そこでふっと、思い出す。
彼の忘れられない人のことを。
「ねぇ、小太郎」
「なんだ?」
「小太郎の忘れられない人って、もしかして、わたしのこと?」
その直後、クルトが盛大に吹き出した。図星のようだ。
真っ赤になって、あわてふためくものだから、アンジェリカはおかしくなって、鈴のような笑声を上げた。
周りも、アンジェリカに釣られて、笑い始める。その中心にいたクルトが、さらに真っ赤になってそっぽ向いてしまって、さらにおかしくなった。
いつの間にか、雨は止んでいた。
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