第75章 涙

「かあしゃま?」


 舌足らずな少女の小さな手が、彼女・・の、弱々しく、か細い指を握る。


 かつては「騎士であった」。と、彼女は誇らしげに笑っていた。

 が──少なくとも、自分・・の知る彼女は、妹を産んでからといういもの、一年の大半を、寝台の上で過ごしていた記憶しかない。


 彼女は娘の黒髪を、優しく撫でる。

 そして、その優しい視線を、彼女の後ろに立つ自分に向け、凛とした威厳のある声音で口を開いた。


「ユーディン殿下を……そして、ルクレツィアを、頼みましたよ。チェーザレ」



  ◆◇◆



 これは、このからだの主の、記憶だろうか?


 何やら、躰が火照ったような、思考に靄がかかったような、ぼんやりとする感覚に疑問を抱く。

 鼎を解いたエロハは、たたんだ巨大な金の翼を広げながら、ゆっくりと起き上がった。


「おはよう」


 突如声をかけられ、警戒するよう、エロハは動きを止めた。


「あなたのは、ここにあるわ」


 自分の腕に、ずっしりと重たいものがのしかかる。

 手探りでそれを、エロハは自分のに置いた。


 すぐに安定はしないが、急速に繋がる・・・感覚。

 重たい頭を手で支えながら、ゆっくりと、エロハは目を開いた。


「おはよう。エロハ」


 最初は真っ白な視界だったが、慣れるにつれ、ぼんやりと明るい光に包まれた、可愛らしい、幼い少女の顔が、自分を見上げていた。

 つぶらな明るいオレンジの瞳を細めて、彼女は無邪気に、にっこりと笑う。


「おはよう……エロヒム・ツァバオト」


 ほっと、安心したように、エロハは口を開いた。

 お互いに、肉体を得た姿を見た・・のは初めてだったが、それでも、彼女・・が、エロヒム・ツァバオトであるということは、気配で解った。


 未完成のエロヒム・ツァバオト彼女をかくまい、二千年もの長き間、共生・・というを選んだのは、なにより自分エロハだ。


 エロヒム・ツァバオトが、嬉しそうに、ぎゅっと自分エロハに擦り寄る。

 お互いの躰を包む、白銀の鱗が触れて擦れ、金属質の鈴のような音を鳴らした。


 ──あの黒髪の少女は、もう少し、小さかっただろうか──。


 金色のやわらかな彼女の髪を、そして頬を、エロハは撫でる。

 彼女はくすぐったそうに笑い、そしてふと、顔を上げ──。


「エロハ、泣いてるの?」

「え……?」


 エロヒム・ツァバオトに言われ、初めて、自分の両頬を伝う涙の存在に、エロハは気がついた。

 

「なんだろう……これ……頭部の接続不良バグ? 誤作動エラーかな……?」


 ごしごしと目を擦るが、なかなか、涙が止まる気配はない。


 の完全な修復もあり、エロヒム・ツァバオトに促され、再度、エロハは鼎でもうしばらく眠ることにしたのだが、結局、涙の理由は、エロハには、理解でき解らなかった。



  ◆◇◆



「はいはい! どいたどいたどいたーッ!」


 混乱する城内。

 そんな中、バタバタと力任せに人を押しのけるように、アックスとギードが走る。


「陛下、お加減は、大丈夫ですかぃ?」

「え……う、うん……大丈夫……」


 背中のユーディンに、ギードが問いかける。


 炎の勢いは弱まっていたが、燃えて、破壊された帝都──。

 これまでも散々強がってはいたのだが、元々本調子ではなかったところに、その光景は想像以上にショックが強く、さすがのユーディンも、限界を超えてしまったようで──。


 建前上、義足が壊れたことにしてくれてはいるが、実際は義足があったとしても、ユーディンは今、立つことができない状態であった。


「ったく、宰相殿も、何てことしてくれてやがんですかねぇ」


 ブツブツぼやきながら、ギードがユーディンの私室を目指して走る。


 ムニン=オブシディアンおよび、チェーザレ=オブシディアンをはじめとした、旧トレドットの皇族と、その一派を捕らえ、宮殿を占拠した宰相一派だったが、現在は大混乱に陥り、とても統制が取れている状況ではなかった。


 そんな状態だからこそ、ユーディンたちは何事も無く、しれっと城内に入ることができ、次々と城内を宰相派から取り返すことができたのだが。


(まさか、操者不在・・・・であるハズ・・の精霊機から、攻撃を受けるなんて、思いもしなかっただろうからね……)


 きっと、宰相ベルゲルは油断していただろう。


 情報は、徐々に正しいものが入り、パズルのピースも揃ってきた。

 詳細な経緯も、わかってきて──。


 宰相は、ムニン=オブシディアンをはじめとした、旧トレドットの血をひく皇族六名・・を、でっちあげの罪状で、処刑した──ということになっている。

 余談ではあるが、その六名の中には、ユーディンの外祖父に当たるブラウン=シャーマナイトや、その息子であり、ユーディンの母ライラの兄で、シャーマナイト家の当主であったパロマーも含まれていた。


 が、しかし。その中に、チェーザレはいない。


(チェーザレは……)

「お帰りなさいませ。陛下」


 ギードが私室のドアを蹴り上げるように開けると、窓を背に、一人の女性が立っていた。


「あ、姉貴ぃ?」


 素っ頓狂な声を上げるギードに、女性はじっとりと睨むような視線を向ける。


「……っとぉ、神女長カミコオサ様」

「陛下。ご無事で何よりです。エヘイエー様も……あと、愚弟」


 おい……と、雑極まりない扱いに顔を引きつらせるギードを無視して、神女長カミコオサキーラ=ザインは、双子の弟ギードに背負われたユーディンに跪く。


「申し訳ございません。陛下不在のもと、宰相派の暴挙を止められませんでした」

「……神女長カミコオサシャファットの伝言神託って、知ってる?」


 シャファットの伝言神託──デウスヘーラーと交戦したカイから報告を受けたが、その内容までは、皆わからなかった。

 淡々としたユーディンの言葉に、キーラは短く肯定する。


「はい。聞き及んでおります」


 ギードに頼み、ベッドに降ろしてもらったユーディンは、そのままぱったりと、倒れ込むように仰向けになった。


神女長カミコオサシャファットの伝言神託の、内容を教えて」


 神女長カミコオサは、一瞬、言葉を詰まらせるが、淡々と、事実・・を皇帝に報告した。


「これより七日の後、光の神エロハに奉げる、七人の生贄・・・・・を望む……と」

「はは……あははははは!」


 突然、けたたましく笑いだすユーディンに、ぎょっと三人は目を見開いた。


「ははは……チェーザレ・・・・・が、復讐それを、望むって? ははは……それじゃぁ、ボクは、その彼のお願い・・・、是非とも叶えてあげなきゃ……あはははは……」


 ユーディンの口から発せられたチェーザレの名に、キーラは目を見開く。

 思わず見上げた弟が視線をそらし、皇帝の言葉が真実であることを、神女長カミコオサは察した。


「ははははははは……あーははははは……ああああああああああッ!」


 笑い声に涙が混じり、次第にそれは、慟哭となる。

 ギードは姉とアックスに、そっと、室内を部屋を出るよう促した。


「ちょっと、一人にさせてやりましょうや」


 そっと扉を閉めたが、ドアの向こうから、堰をきったような悲痛な叫びが、しばらく止むことはなかった。

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