Case.5
大衆食堂常連客のスリ事件
1
蝉が鳴くにはまだ早く、梅雨の終わりを感じるはじめる時分。
わたしは一年の中でこの時期が一番嫌いかもしれない。薄雲を通して降り注ぐ太陽光線は、まだ夏本番の苛烈さこそないものの、地表をベタ塗りするかのように重くてしつこい。そして、汗がじっとりと全身にまとわりつく気持ちの悪さときたら、これ以上嫌なものない。
その暑苦しさに拍車をかけるのがこのごろ始まった選挙の宣伝カーだ。文政大学にいるあいだは、周辺に附属高校や市立中学校があるおかげでその気配を感じないで済むものの、通学中などにはよく鉢合わせる。駅前に群衆を作って演説をしているならともかく、道端で出会うそれらは候補者の名前を連呼するばかりで、鬱陶しくてならない。
投票は今週末だったはずだ。期日前投票を済ませておかないと。
大学の掲示板にも投票を促すポスターが張られている。わたしが中学生くらいのときまでは、投票できる年齢が二〇歳から引き下げられるとは思ってもみなかった。
そういえば、わたしももうすぐ二〇歳になるのだった。
何も変わらないな。お酒も煙草も好かないだろうから。
「待たせた、遙。このバカ暑い中ごめん」
攸子が駆け寄ってきた。通りがかったサークルの人に捕まって何やら打ち合わせをしていて、わたしを待たせていた。
「どうした? ああ、インターンね」
攸子はわたしの視線が選挙ポスターの隣、インターンの募集に向けられていると思ったらしい。大学の就職支援事務所が掲示しているもので、ほかにも合同説明会のビラなどが貼られている。
「あ、インターン……」
「何だよ、ハトが豆鉄砲を食ったみたいに」
だって、インターンなんていまのいままですっかり忘れていたんだもの。
意識しだした途端にドキドキしてきた。まずい、インターンや就職のことを何も考えず、のうのうと過ごしていた。夏が近づくにつれて専門科目の教室ではそういう話をする人がちらほらいた。旅行や合宿の話題に比べたら目立たなかったかもしれないけれど、確実に。ひょっとして、ぼやぼやしていたのはわたしだけ?
二年生の夏、出遅れた!
「攸子はどこか行くの?」
「うん、いくつか応募したよ」
「嘘、てっきり攸子は行かないものと!」
攸子の表情が歪んだ。
しまった、つい焦ったからといって偏見が口をついて出てしまった。
「ごめん。店を継ぐとしたらあまり考えなくていいのかな、なんて」
彼女は笑った。安堵とともに、恥ずかしさが噴き出す。
「口を滑らせるほどには遙も焦っていたんだな」四軒寺の老舗食堂の看板娘には、わたしに対してリードをとった優越感があるのか、どこか自慢げだ。「あたしはどこかの企業に就職する気でいるよ。イマドキ普通さ、せっかく大学でキャリアを積むわけだし」
普通、という言葉に胸が痛い。
「そっか。ご両親も応援してくれてるんだね」
「まあね」
一度は肯定したが、「いや」と翻す。
「うちの親は、大学か、どこぞの会社で結婚相手を見つけてくると算段しているらしい。娘の人生に図々しいよ、まったく」
「そういう愛情もアリじゃない?」
「たとえそうだとしても、そうだとしてもだよ? 大学を結婚相談所みたいに言ってもらっちゃ困る。ここはそういう場所じゃないんだよ。そもそも、娘は結婚してナンボってんだから、うちの考え方は古いんだ」
兄さんが学生結婚をした手前、これにはあまり意見できない。
選挙やインターンのことを考えて焦りはしたけれど、結婚までは考えていなかった。三〇歳くらい、いや、四〇歳くらいでも幸せに結婚できればそれでいい。第一、何にせよ、自分でお金を稼げるようにならないと。何があるかわからないのだから。
正門を出てすぐには交差点があり、赤信号にぶつかって足を止める。角のコンビニでは飲み物やアイスが売れているらしく、学生が激しく出入りしている。
ところで、と攸子は話題を切り替えた。
「来週一週間、遙の代打の人とは話がついた?」
「うん、オッケーをもらったよ」
攸子には先日、来週のアルバイトを休ませてほしいとお願いしていた。今週末に法事で東京を離れなければならず、しかもそのせいでレポートの提出期限が危うくなっており、ちょっとわがままを言わせてもらった。
さほど忙しいシフトではないこともあり、彼女や店長は快諾してくれたけれど、念のためと言って、わたしの代わりをしてくれる人を紹介していた。
代わりとはつまり、赤石さんだ。
いくら彼が困窮生活をエンジョイしている変わり者だとしても、生活費は稼がなければならない。しかも土地と家を持っているから、税金も結構かかる。時々アルバイトをしてお金を得ているそうなので、少しだが「きよたけ」で働かないかと提案したのだ。
数日前に彼の家を訪問したとき、ようやく彼もアイスコーヒーを出してくれた。また金銭絡みのトラブルで相談があるものと思ったらしく、わたしからそういう話がないと知ると「征吾の差し金か」と機嫌を悪くしかけた。「お願いがある」と言い直すと態度を改めたところは彼らしい。
しかし、と思った。
そういうプライドの高い元探偵様のことだ。「仕事がある」と言っても「余計なお世話」と断りはしないかと危惧する。そうならないためには、とにかく下手に出るしかなかろう、とひたすら懇切丁寧にお願いした。
実際の反応は予想と違った。
『そうか、大学生は大いに学びたまえ』
快諾だ。
どういうわけか、赤石さんは大学生が好きな気がする。初めて会ったときも女子大生というわたしの肩書きに喜んでいた。それとも、首が回らなくて仕事に食いつくさまを恥ずかしがって見栄を張ったのか。
おこがましいことをしたとは思うが、赤石さんは収入を得、わたしは時間を得、結果としては両者とも得をしたはず。
「で、その人はどんな人なんだ?」
攸子の問いかけに我に返る。まもなく攸子と別れようという角だ。
「ええと……変わった人だよ」
これなら、許容範囲の広い無難な言い方だろう。
わたしの代打が年上の男性だとは知らせていなかったから、攸子と英里奈からは大学で一緒にいるあいだしつこくからかわれた。兄さんと親しい遠い親戚ということにして、現在は専業主夫のため定職には就いていないと偽った。
当然、信じてもらえていない。
不真面目とか軟派とか、店での振る舞いや働きぶりについては何も言われないから、どうやら仕事は手堅くこなしているらしい。アルバイトには慣れているようだし、探偵も大きく括れば客商売といえるから、飲食店でもそれなりに働くだけの経験は充分なのだろう。
「いやあ、遙の親戚か。面白そうだなあ」
「期待しないほうがいいよ……」
約束の一週間が過ぎるまで、あと一日。赤石さんが「きよたけ」で働く最後の一日は、レポートの提出が済んでしまったこともあり手持無沙汰だった。
それを知って英里奈が「きよたけ」に行こうと言い出した。面白がられるだけなので断ったのだが、「久しぶりなのにつれないなぁ」と口を尖らせたのは、ちょっとずるい。確かに、最後に彼女と外食をしたのはいつだったか思い出せない。ここ一年の彼女の生活の変化を知るわたしには、久しぶりの誘いを断り切れなかった。
混雑する時間帯を避けるため、三限が始まってから店を訪ねる。正面切って客として暖簾をくぐることもまた久方ぶりで、小恥ずかしい。
「いらっしゃい」
エプロンを身にまとった赤石さんが来客の女子大生ふたりを迎えた。
へえ、なかなか愛想がいい。
「感じのいい人だね」
英里奈は面白がる気が失せてしまったらしく、呆けたように感想を述べた。
確かに、働くにあたり小綺麗に見てくれを整えた赤石さんは、一見しただけでは至極まっとうな人に見える。薄汚い恰好をしたり軽々しい言葉を並べたりしなければ、彼は自分の立派なお兄さん――征吾さん――にも似た、感じのいい男性になることができるのだ。
「席には余裕がありますけど、テーブル席でいいですか?」
しかし見慣れない。
丁寧に案内されると、笑ってしまいそうになる。
「カウンターに座らせてください」
カウンター席からは厨房が見えるようになっているから、手が空いた攸子と話せるのだ。
狙い通り、店は混雑していなかった。わたしたちのほかにカウンター席に座る人はいないし、テーブル席のほうに目を向けてみても、お客さんは四人だけ。そこには、わたしも見慣れた常連さんもいる。
最も入り口に近い二人掛けのテーブル席には、襟がくたびれた深緑色のポロシャツを着た男性、
そこからひとつ飛ばした奥のテーブルには、お気に入りの茶色いハンチングが白髪に映える
「後ろ、ちょっと失礼」
「あ、すみません」
背後を通ろうとする
駒沢さんは近くの病院で事務として働いて、診療が午前中だけの日に来店することがある。外見からするに三〇代半ばくらいだろうか、職場が職場だけに知的で清潔感があり、クールな人だ。
彼女ももう食事を終えていて、増嶋さんの席の通路を挟んで反対側の席に、空いた皿と薄いピンク色のハンドバッグが置かれている。
「なんだ、覗きに来たのか」攸子がカウンターに乗り出してこちらに声をかけてきた。「注文はどうする? 厨房はいま暇だから、何でもすぐできるよ」
見ると、ほかのお客さんの前には皿がある。わたしたちの注文がお昼の営業では最後になるだろう。ホールも仕事を終えているので、赤石さんはすでに空いた席の掃除を始めている。
メニューを眺めるまでもなく、注文を伝える。
英里奈は醤油ラーメン。この店で一番安いメニューだ。
わたしは唐揚げ定食を頼んだ。この店で一番人気のメニューだ。
合わせて一二〇〇円……おっと、きょうは気にしなくていいのか。
「赤石さん、評判いいよ。丁寧で感じがいいし、手際がいい。ミスもしない。飲食業に慣れているっぽいね。遙が心配するまでもない」
「ふうん、それはよかった。別に心配していたわけではないけれど」
と、攸子が視線を客席に向けた。
「……おっと、お会計かな」
出入口そば、レジのところに藤巻さんが立っている。会話を切り上げた店の看板娘は、ぱたぱたとレジまで駆けていった。
「最近はさ」攸子の背中を見て、頬杖をついた英里奈が呟く。「券売機を置いた店も多いから、ここは珍しいほうかもね」
英里奈の言う通り、このごろ券売機で食券を売る仕組みのお店が増えてきた気がする。学校の食堂かラーメン屋さん、それか店舗の狭いファストフード店か、それくらいしかイメージのないものだったけれど、気が付けばぐっと身近になった。
「店員とお客さんの距離が近くていいよね。まあ、ここも導入を検討しているらしいよ。この前店長が話してた」
「へえ」
そのほうがお店にとって楽ということだろう。オーダーのミスは減るし、レジ打ちも要らなくなる。先払いだから食い逃げもなくなる……それはそれほど心配していないか。
「きよたけ」は常連さん中心、アットホームな雰囲気があるお店だ。きっと券売機が導入されても、心の距離が離れてしまうことはないだろう。むしろ、それで店が長く続くならいいことだ。
「『きよたけ』にも券売機か……あ、でもそれって」
英里奈の言葉は、唐突に発せられた大声に遮られる。
「ない! 財布がない!」
声の主は藤巻さん。レジの前で福屋ズボンのポケットに手を入れては、「ない、ない」と悲痛な声を上げている。
財布がない? 何事?
藤巻さんと攸子のやり取りに店内の注目が集まる。
「まさか忘れてきたとか?」
攸子はお客さんに向けて失礼なことを訊くようだが、相手が常連さんだからこそ。ちょっとくらいなら怒られないで済むのは、彼女の愛嬌ゆえだ。
「攸子ちゃん、勘弁してよ。持ってきたはずなんだ」
財布を見つけられない常連客は、自分の座っていた座席に戻って確認する。椅子の上、メニューの下、調味料の瓶の物陰、テーブルの下の床――目を皿にして探しても見つからない。異変に気が付いた増嶋さんも席を立つが、やはり見当たらないらしい。
厨房から店長も出てきた。
「藤巻さん、きょうはツケとくかい?」
「いや、ツケにはしたくないなぁ」
彼の生活が楽でないことは、店員も常連客も、「きよたけ」のみんなが知っている。職を失う以前の彼のことも知っている。だからこそ、プライドがあって彼はツケ払いには絶対にしない。
ついに彼は探すのを諦めたのか、腰に手を置いて、大きくため息。
「なあ、盗まれちゃいないか? 持ってきたのに見当たらないってことは、ひょっとして盗られたんじゃ……?」
ううん、ちょっとまずいかも。
彼が財布を探していたのは見ていたし、その様子は真剣だったのもわかっているけれど、さすがに「盗まれた」とは、言い訳がましいというか、自分がお金を持っていないのを誤魔化そうとしているように見えてしまう。
店長は藤巻さんが冷たい視線を浴びせられていることに気づいたのか、努めて朗らかな口調で以て彼を窘める。
「そんなことあるわけないだろう? ここにいる誰が盗むって言うのさ。きょうは運悪く、家に置き忘れてきたんだよ」
店長にしてみれば、まさかここで「荷物検査だ!」というわけにはいかないだろう。今回に関しては、財布が盗まれたというより、藤巻さんが最初から財布を携帯していなかったというほうが、ありそうな話だ。
「でも、確かに持っていたんだよ! どうして信じてくれないかなぁ?」
藤巻さんも少し気が立ってきたようで、声が大きくなる。見かねて、増嶋さんが立ち上がって肩を叩いた。
「落ち着きなよ、少なくとも僕は持っていないから」
彼はポケットから持っていたものをすべて出して見せた。小銭入れと煙草、家の鍵くらいのもので、藤巻さんが探しているものはなかった。一緒にいた禿げ頭のご友人も同じように荷物を見せたので、わたしたちも仕方なく、鞄を開いて中を見せた。もちろん、藤巻さんの財布はどこにも見つからない。
「どうしたの? 何の騒ぎ?」
そこに、駒沢さんがお手洗いから戻ってきた。「財布を忘れたらしい」という店長からの説明に「ああ」と声を漏らし、同情とも呆れともつかない笑みを浮かべる。盗まれたと思っている本人は当然その表情が気に障ったようで、
「財布を盗んだ奴がいないか確かめていたんだ。そんな顔をするなら、鞄の中を見せてくれよ」
と駒沢さんを煽る。好戦的な物言いに駒沢さんのほうも癪だったのか、顔を引きつられせて自分のハンドバックをやや乱暴に取り上げた。
「忘れたんでしょ? もう、入っているわけないじゃない……あれ?」
彼女が取り出したのは、生地のくたびれた黒い長財布。見るからに男物だ。
ああ、どうしてそんなところに。
「俺の財布じゃないか!」
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