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西の空は黒く澱んでいて、夜には雨が降り出しそうだった。気圧の低下を暗示する冷たい風も吹いている。鳥肌が立ちそうだ。
またカッパを着るのは面倒だな、と自転車での帰り道を案じつつ、自宅とは別の方向、駅の南側の住宅街を航大くんとともに歩いていた。
「はあ、お金の探偵……?」
赤石さんのことを航大くんに話しながら――四月に電話で彼を頼ったことは伏せた――彼に似合わないメルヘンな洋館を目指す。紹介にあたってわたしの主観的な意見が混じったこともあり、航大くんは赤石さんを胡散臭く思っているようだった。あの人は推理をして見せない限り、残念なところしか見当たらない。
わたしには皆目見当もつかなかったけれど、お金の探偵なら航大くんの疑問も晴らすことができるだろう。ついでに、気がかりな彼の生活ぶりも見ることができる。征吾さんも次の近況報告を心待ちにしているはずだ。
ところが、彼の洋館に着いてみると、誤算に出会うことになった。
「征吾さん、来てるんだ」
「征吾さん?」
「赤石さんのお兄さん」
例の真っ黒な外車が庭先に停められている。忙しいとはいえ、彼も彼で弟の生活を案じているのだ、こういうこともあろう。
庭や玄関に彼の姿は見当たらない。家に上がっているのだろうか? だとしたら、赤石さんは何を思って兄と話すことにしたのだろう? もし兄弟が話し込んでいたら、わたしたちが「依頼」を持ち込んで邪魔をするわけにはいかない。
帰ったほうがいいかも、と航大くんに言いかけたとき、玄関の扉が開かれた。
「ああ、青山さん」征吾さんだ。例のごとく紺のスリーピースが華やかないで立ちだ。「弟に用事かな? 私の用件は済んでいるから、上がってくれて構わない」
客人であるお兄さんがそう言うなら、お言葉に甘えてしまってよさそうだ。航大くんは慇懃に「お邪魔します」と頭を下げ、わたしたちは失礼することにした。
「きょうは会えたんですね」
玄関で靴を脱ぎながら、こっそりと征吾さんに声をかける。
「ああ、久しぶりにね」
「何の話をしていたんですか?」
「他愛無いことさ」
彼は苦笑をたたえて肩を竦めると、身を翻してリビングへと続く廊下を歩いていく。和解には至っていない、という具合か。それで久しぶりに会って話題が「他愛無いこと」とは、兄弟だからそういうものなのだろう。
「やあ、遙。きょうはもうひとり連れてきたようだね。依頼人かい?」
リビングに足を踏み入れると、赤石さんは相好を崩してわたしたちを迎え入れた。テーブルにはコーヒーカップがひとつだけ。兄に対してこの弟は性格が悪いというか、大人げない。
「はい。五十嵐航大くんです。四月の件を憶えていますか? また、不思議なことがあったようで」
赤石さんは航大くんのことを憶えていたらしく、名前を聞いてわずかに眉が動いた。
「そうか、話は長くなりそうだね。コーヒーを淹れよう。あいにく菓子も角砂糖も置いていないが、いいね?」
はい、と強張った声で航大くんが返事をした。緊張に加えて、赤石さんの埃まみれの格好に唖然としてしまったようでもある。初対面では致し方ない。
征吾さんなら後輩男子を任せてもいいと思い、赤石さんに手伝うと申し出て台所に向かう。コーヒーを四つ用意しないと。
手入れされていないガス台、ごく一部の食器しか使われている様子のない食器棚、インスタント食品の包装や容器で溢れるゴミ箱――以前見た英里奈の家の台所と似ている。そのくせコーヒーを淹れるための道具類が一式揃っているのだから、彼の気が知れない。そういえば、好き好んで貧乏生活をしているようなことを言っていた。
「征吾さんとは何を話していたんですか?」
「実りのないことを」
顔色ひとつ変えることはない。
自分が首を突っ込むことでもないということだ。
征吾さんから近況報告を依頼されてから、少し調子に乗っていたかもしれない。
コーヒーの香りとともにリビングに戻ると、征吾さんと航大くんは多少打ち解けた様子で話していた。航大くんはわたしに気が付くと、少し顔を歪めた。自分を征吾さんとふたりきりにしたことと、コーヒーがホットであることへのささやかな抗議であろう。
赤石さんと、その正面の征吾さん、征吾さんの隣に航大くん、航大くんと向かい合ってわたしが座る。四人がソファに揃ったところで、お金の探偵は依頼人たる男子高校生に説明を促した。それに応じた少年は、時折声を上ずらせながらも、詳細に「変なこと」が起きた放課後の出来事について語りだした。
「話を聞いた限り……」
平時はお喋りな赤石さんだが、説明を聞くときには最後まで黙っている。訊き終えて、その感想を述べるところから彼は思考を巡らせはじめる。このあたり、過去にお金絡みの事件専門の探偵として働いていたプロ意識を感じさせる。
「最初に思いつく疑問は、『カネを返す』と箕原ちゃんが言っているところだ」
関係者を「ちゃん」付けで呼ばなければもう少し体が良いのに。
「僕の見立てでは、この疑問を解決することが一番だと思う」
「その心は?」
「損害を自ら補うと申し出ているんだ、箕原ちゃんには罪の意識があったとみえる。つまり、罪の意識にも勝る必要に迫られていた、あるいは追い込まれていた、ということになる」
赤石さんはお金の探偵だから、お金によって人間がどのように動くのか――動かされてしまうのか――を出発点とする議論が得意らしいと、最近わかってきた。
そのため加害者が弱い立場にあった可能性にも目を向ける。乱暴に言ってしまえば、彼は「お金欲しさ」という強烈な動機付けを重要視しており、最初の論点として避けられないと考えているのだろう。
箕原さんには葛藤があったはずだ、という赤石さんの最初の仮定に間違いはないだろう。盗ってはいけないけれど、盗らなくてはならない、と。では、その強い動機がいかにして生み出されたのか?
「……でも、おれは知らないです」航大くんは首を横に振って、小声で口を挟む。「箕原が悩んでいたとか、そういうこと」
航大くんは箕原さんと特別に親しかったわけではない。解き明かすべき彼女の心理に辿りつくには、少々の遠回りを要すことになる。
と、征吾さんが手を挙げた。
「私からも気が付いたことを述べていいかな?」
どうぞ、とつい赤石さんを差し置いて続きを促してしまう。
「箕原という女の子は、かねてからインターネットで売買をする習慣があったのだろう? とすれば、なぜギフトカードに関心を示したのか、そして、なぜギフトカードを使えなかったのか、ということも疑問ではないかな」
いまひとつピンとこない。
「どういうことですか?」
「topSALEを利用するには口座を登録する必要がある。彼女が自分の口座を持っていて、それをtopSALEに登録しているとすれば、ほかの場面でもそれで済ませたほうが効率的なはず。ギフトカードで支払いをするサイトなら、たいてい口座を連携させて利用できるから」
頭の中で整理するのに時間を要したが、何となくわかった。
箕原さんは、インターネット上で支払いを済ませる手段として、topSALEを使うために口座を登録している。ということは、ギフトカードを利用しなくても、その口座から引き落とすよう手続きすればいいはずなのだ。
「口座引き落としならカネの管理が一元化できるし、記録も残る。カネを電子化することに躊躇いがないなら、わざわざ別の手段を盗んでまで利用することにメリットはなさそうなものだが」
と、征吾さんはどこかからかうような含みを持たせて弟を一瞥した。その弟は視線を合わせようともせず、わたしに向かって仏頂面で声を低くする。
「世の中には現金を持つことに嫌悪を持つ人間もいる」
「私のようにな。誰がべたべた触ったかもわからないものに触れるのは不衛生だ」
目を合わせない彼らだが、息ぴったりだ。
皮肉を言い合うほどには仲が良いみたいだし。
「征吾さんは一切現金を持ち歩いていないんですか?」
「その通り。汚いモノはリスクだし、電子化したほうがメリットが大きい」
「その、現金が嫌いって、クレジットカードやキャッシュカードを使うってことですよね? 何というか……大学生にはできない暮らし方という気がします」
お金持ちでないとできない、と口が滑りかけた。征吾さんの手前気を付けないと。
ただ、弟の赤石さんから「そういうものでもない」と訂正が入った。
「交通系ICカードは使ったことがあるんじゃないか? ああいう電子マネーは、使える場所が次第に増えて、携帯電話とも連携することで広がっている。スーパーやコンビニでも見たことがあるだろう?
そもそも、金銭と財やサービスとの交換のタイミングが異なる取引は、
経済的強者と弱者との区別はないにしても、情報強者と弱者との格差を感じてしまう。後期から何か経済系の教養科目を履修しようかしら。
「……カネなんて、目に見えているうちはかわいいものだ。そうでなくなったときに、本質がある」
「…………」
赤石さんの呟いた意味は、わたしにはよくわからなかった。しかし、その一瞬で兄弟の目の色が変わったというか、流れていた空気が張り詰めた気がする。
数秒の沈黙を破ったのは、「話を戻してもいいですか?」という航大くんの困惑しきった一言だった。
雨粒が窓を叩く音が聞こえてきた。屋根から水が滴っているのが見える。先刻からじわじわと肌寒くなってきていたので、また雨が降りだす予感がしていた。帰り道ではカッパを着なくてはならない。
「疑問はあるにせよ、視点を変えながら考えようじゃないか」
言いながら、赤石さんはカップに手を伸ばす。わたしたちが来る前から飲んでいたせいなのか、征吾さんがいて気分が乗らないのか、きょうはカフェインの摂取が控えめだ。
「箕原さんの目的を推理するんじゃなかったんですか?」
「そうだ、それが最終目標。しかしそう単純なことではない、行動の面からアプローチするのが一番だ」
別の視点とは? 赤石さんのくどい語り口に慣れない航大くんがすぱっと尋ねる。
「……コードが使われなかったのはなぜか、だ。コードが使われていなくても、彼女の目的が果たされていたのか、それとも果たされていなかったのか」
考えられる可能性を列挙する。
「コードの使い方を知らなかった」とわたし。
「入力したつもりになっていた」と航大くん。
「本来ではない方法で利用した」と征吾さん。
わたしと航大くんの可能性は却下だ。理由は赤石さんが最初に引っかかっていた通り。
「箕原ちゃんはコードを使った気になっている。『返す』なんて、そう思っていなければ言えないからね。知らなかったら諦めただろうし、入力を正しく終えられなかったならその旨画面に表示されて気が付いたはずだ」
そういうものに慣れていたと考えるほうが妥当だ、と赤石さんは征吾さんの説を付け足して、選択肢を狭めた。
さて。もうひとつの可能性、征吾さんの挙げた「本来ではない方法」とは一体どういうことか? ギフトカードはコードを入力して、購入金額をウェブ上で利用できるようにするのが本来の、正しい使い方。それ以外でどう使うというのか? カードを定規の代わりにするとか?
しかし、赤石さんは征吾さんの意見についてコメントしない。
それどころか「まだもうひとつ挙げられる」と語りはじめる。
「コードはただの一度しか使えないことは確かだ。だから、箕原ちゃんが使ったはずなのに、航大が利用できたことが疑問になる。まあ、難しく考えなくていい、状況だけ考えれば――箕原ちゃんより航大が先にコードを利用した、ということだ」
わたしと航大くんは、きょとん、とすることしかできない。赤石さんが当たり前のことを言っているようにしか思えなかったから。ただひとり、征吾さんだけが意図を理解したらしく澄まし顔でコーヒーを啜っている。
お金の探偵は身内以外にも伝わるよう、言葉を選んだ。
「箕原ちゃんは、つまり、航大がコードを利用できなくなることを見越していた。ただ、それは箕原ちゃんが盗みをはたらいたそのときのことではない。タイミングがずれていた。もっと、後のことだったんだ」
そのとき、だから、と征吾さんがため息交じりに言葉を発した。
「それなら私が言っただろう、『本来ではない方法で利用した』と」
知らんぷりを続ける弟に向けて呆れたような語調だ。
でも、征吾さんの言ったことと赤石さんの言ったこととで何が一致しているのかが解せない。タイミングがずれる、普通とは違った使い方?
はあ、と息を吐いた征吾さんが、改めて声を低くした。
「……犯罪の臭いがするな」
「盗みですからね」
「ああ、それはそうだが……もっと厄介なものの気配がある」
征吾さんの声の緊迫感に、身が竦む。ただ、頭ではまだ理解が追い付いていない。盗みとは別の犯罪が現在進行中なのか?
「どういう意味ですか?」とは航大くんの質問だ。「コードの使い方によって、犯罪になることがあるんですか?」
「犯罪になる使い方を『させた』んだ」答えを出したのは赤石さん。征吾さんと言葉を交わす気はなくても、兄の言っていることには賛同しているようだ。「これから最悪の可能性を伝える。聞き終えたらすぐ、箕原ちゃんと連絡を取るんだ」
航大くんが頷くのを待ってから、赤石さんは再び口を開いた。
「箕原ちゃんが何を目的に盗みをはたらいたか――これを考えるときに重要なのは、盗んでおいて返す気があったのはなぜか、だ。そして、その理由が最も明快に表れるのは、彼女の行動の不可解な結果、すなわちコードが使われていなかったという状況だ。
彼女は『使った』とか『返す』とか、コードを無事に入力し、航大がもはや使えなくなったと思っている。この認識と状況との矛盾は厄介だった。しかし、いまさっき僕が言ったように、航大が箕原ちゃんより先にコードを入力した、という最も単純な事実にのみ目を向ければ、矛盾を解消することができる。
つまり、コードが使われた――正確には、使われるはずだったのは、箕原ちゃんがギフトカードを盗んだそのときではなかったということだ。そう、もっと後のタイミングに使われるはずだった。彼女は、いまその瞬間ではないにせよ、コードが確実に使われてしまうことだけはわかっていた。結果、箕原ちゃんが想定していたタイミングよりも先に、航大がそれを打ち込んでしまったというわけだ」
つい「そういう機能があるんですか?」と尋ねてしまった。「そうではない」と征吾さんが訂正した。それに続けて、赤石さんの説明を引き継ぐ。
「カードやサイトの機能を用いて意図的にタイミングをずらそうとしたのではない、彼女の仕方では、どうしても遅れてしまうんだ。というのも、コードを入力するのが彼女本人ではなく、離れた場所にいる人間だから」
学校ではない場所にいる、箕原さんではない人がコードを利用する……
離れた場所。
遠くにいる人。
ああ、わたしはそういう話を知っている。
「関心の薄そうなギフトカードをわざわざ盗んだのも、そう考えれば当然だ。欲しいのは自分ではなかった。要らなくてもそうするほかに思いつかなかったから。……別の誰かに寄越せと強要されたんだ」
コードを利用しなければ、ギフトカードは高価な紙切れであって、交換されたお金と同じだけの価値を持つ
紙切れにはさほどの価値はない。当たり前だ。
カード本体ではなく、コードに価値があるのだ。
本体を盗まなくても、コードさえ盗めば、価値を奪うことができる。
幸か不幸か、そのコードは人間の目で文字として認識可能な羅列である。
つまり、遠隔地にギフトカードの「価値だけ」を一瞬で届けることが可能だ。特に、インターネットの発達した現代では。
――箕原さんは、コードの写真を撮って別の誰かに送ったのだ。
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