あなたに帰りたい

美瞳まゆみ

第1話  まさかの再会 


「待って!!」

自分で発した大きな声に、神田かんだ朱音あかねは飛び起きた。

しっかりと締められたカーテンのわずかな隙間から差し込む光と、窓の外から微かに聞こえてくる鳥たちのさえずりが、朝を告げる。

なかなか焦点の合わない目をパチパチとしばたき、一瞬自分がどこにいるのかさえわからない感覚に、軽く頭を振ってみる。

「目覚め悪っ……」

朱音は呻くように呟くと、もそもそとベットから抜け出し、洗面所に向かった。

憂鬱さに包まれながら、また代り映えのない忙しい一日が始まるのだ。


会社へ向かうバスに揺られながら、窓の枠に肘をつき、ぼんやりと外を眺める。

今朝の夢を、いや、今朝だけではない、最近頻繁に見る夢について考えた。

毎回、誰かと何かを言い争っていた。ただ、なぜかその“誰か”の顔が思い出せない。なんとか思い出そうと、毎回夢をたどってみるのだが……成功したためしがない。

夢の終わりはいつも同じで、その“誰か”を追いかける様な自分の声で目覚める。毎回言いようのない憂鬱さだけが、残る夢なのだ。


朱音は、名古屋市内の最大手ではないがそこそこ名の知れた旅行会社に勤めるツアーコンダクターである。

ただし派遣の添乗員とは違い、営業も、企画も、添乗もこなさなければならない。

とはいえ、ようやく三年目に入ったところの朱音の実績といえば、二つ程の小さな団体の旅行を企画補助、営業、そして通常業務としての添乗をするくらいのものだった。

ところが、今回の朱音の担当する仕事は、今までとは様子が大きく違っていた。

市内の大手製薬会社の支店から社員旅行の依頼を受けた自社が、社内プレゼンを行い、なんと、朱音の企画に白羽の矢が立ったのだ。

普段からの積極的な営業姿勢と、数は少ないが過去の企画提案したプランが、思いのほか顧客からの評判が良かった事が決め手となった。


朱音は、午前中を先方に渡す資料確認と、企画の説明の復習に費やした。

午後からは、営業部の上司と共に相手方の担当者との初顔合わせだ。

朱音が資料片手に社員食堂で昼食をとっていると、同僚の花田はなだ薫子かおるこがトレイを手に隣に座って、朱音の顔を覗き込んだ。


「ねぇ!顔が怖いわよ、まさか緊張してるの?」

朱音は、資料から顔を外すと、面白がっている薫子をじろりと見た。

「緊張はしていないわ。顔が怖く見えたのは、神経質になっているからよ、たぶん」

「そうよねぇ。なんたって初めての大口契約が取れるかどうかだもんねぇ!戦略は立てたの?課長も一緒に行くんでしょ?」

「そう、その戦略をたった今復習していたところよ」

“あなたが邪魔しなければね”というニュアンスを含めたつもりだったが、薫子は我関せずで喋り続ける。

「にしても、羨ましいなぁ!だって、R製薬っていったら結構な大手よねぇ?どんなエリートと出会えるかもしれないし」

「べつに、婚活しに行くわけじゃないわよ。そんなに行きたいならなぜ企画提出しなかったの?」

薫子は、冗談でしょ?とでも言いたげに、笑った。

「やめてよ!私に企画なんて無理無理!営業も向いてないしね。添乗のサブで充分よ」

同期ではあったが、全く考え方の違う薫子とは表面上の付き合いしかしていない。

朱音は次に来る彼女の言葉を予想して、ニッコリと笑ってみせる。

「先に言っておくけど、R製薬との合コンなんて有り得ないから期待しないでね。企画するつもりもないし」

「あら、でも契約がうちに決まったら、接待としてはあるかもしれないでしょう?」

薫子は、期待を込めて綺麗に描かれた眉を上げた。朱音は苦笑しながらも、きっぱりと首を振る。

「ないわ。私の営業活動には、そういう類の接待は入らないから、残念だけど」

朱音は薫子が付け入るすきのないように、続けざまに微笑みかける。

「花田さん、ごめん、もう時間が無いの。あと十五分で課長のところへ行かないといけないから」

薫子は、鼻の頭にしわを寄せて笑って肩をすくめた。

「頑張ってね、朱音は期待の星よ!皆、あなたがいずれは課長に出世するんじゃないかって、言ってるわ。仕事の虫だものね」

それが、けっして良い意味の言葉でない事は、薫子の表情から察しがついたが、朱音はあえてニッコリ笑う。

「ありがとう、頑張るわ」


すべての資料と小型のノートPCを鞄に収めて、朱音は化粧室で最後のチェックをした。

こういう仕事は、第一印象が大切だ。派手過ぎても、地味過ぎても、よくない。

朱音は緩やかなウェーブのかかった肩までの髪を形よく整え、化粧直しをする。

顔立ちに派手さはないが、日本人的な目元口元は、外国人の受けはいい。

かつて海外の添乗で現地のガイドにしつこく迫られて、とんでもなく苦労したことがある。

朱音は、自分がけっして美人だとは思っていなかったが、今までの経験上、ブスだとも思っていない。それなりなのだ。

説得力と誠実さを感じるように、目もとのメイクを直し、淡いおとなしめのルージュを引く。

こういうことも、独学で勉強していた。

直属の上司で、今回の責任者でもある川上と共に、社用車に乗り込む。


「抜かりはないな?今回の契約が取れれば、神田君にとってもいい経験になる。大切なのは、柔軟性だよ。相手先の希望や要求に、どれだけ対処できるかが鍵だ。かといって、相手の言いなりになっては、うちが損をするしね」

朱音は、川上の一言一言に慎重に頷いた。

「そうですね。他社が考えるだろうサービスや特典的な物は、大体のリサーチは出来ていますが、勿論全てではありません。あとは、その場での対処と課長の判断が頼りですから、お願いします」

朱音に、過剰な緊張感はなかった。営業の数はそこそここなしていたし、大手との交渉に同席させてもらったこともある。

何よりも、朱音には特別な出世欲や成功欲が無かった。

仕事はそれなりに楽しかったし、やりだせば手を抜くことが嫌いだったからきちんとやり抜く。だが、さっきの薫子が言っていたようなキャリア志向でもなかった。

どちらかといえば、流れに身を任せて生きているような感じだった。

だが、朱音は自分のそういう生き方が嫌いだった。臨機応変さもそこそこ、バランスの良さもそこそこ、全てがそこそこというのが嫌だった。

だが、バランスを崩すような劇的な出来事も今の生活には全く無い。

朱音は、大切な商談を前にして、つまらない事を考えている自分をたしなめて、神経を仕事に集中させた。


朱音の旅行会社のある町から、市内中心部にあるR製薬までは車でなら交通事情を考慮しても、30分程だった。

今回は、課長同伴なので営業車だが、朱音が一人で交渉に通うとなると、地下鉄になるだろう。

相手方ビルの地下駐車場に車を止めると、エレベーターで一階ロビーの受付でアポイントの確認を取りつける。


「はい、御伺いしておりました。総務部の榎本と田島より、三階の第一会議室にご案内するように申し付かっておりますので、御案内いたします」

製薬会社に相応しい、清潔感と知的さを携えた笑顔で、受付嬢は丁寧にお辞儀をした。

クリーム色を基調とする二十畳程の広さの部屋には、円形の大きなテーブルがあり、すでに何度か他所で顔を合わせたこともあるライバル会社が二社陣取っていた。

川上が、他社の面々と挨拶を交わす後ろで、朱音も控えめに挨拶をする。

どちらもお互いの情報を探ろうとしているのが見え見えで、朱音は内心笑いをかみ殺した。いつまでたっても、こういう場面に慣れることはなく、可笑しくてたまらない。いつも狸とキツネの騙しあいの絵が頭に浮かんでしまう。

一通りの挨拶と情報交換が終わり、指定された席に着くと、朱音はノートPCをセットし資料を順番に並べ、川上に手渡す。

その時、ドアが開き今回の依頼主達が姿を現した。


「皆様、今回はわが社の社内旅行の為に、御足労いただき誠にありがとうございます。私が、総務部課長の榎本です。隣にいますのが、今回の総責任者の田島です」

円形テーブルの中央に立った二人は、順々に挨拶をする。

「皆様、はじめまして、総務部の田島です。よろしくお願いいたします」

田島、と紹介された人物は総責任者にしてはかなり若く、辛うじて二十代後半に見える印象だった。

濃いめの栗色の髪は、オールバックできちっと固めてあり、襟足までで揃えられている。青味がかった真っ白なワイシャツも、仕立ての良い上品なスーツも、彼の印象にわずかな隙も与えない程、完璧だった。

なんの予告もなく(当然だが)……突然目の前に現れ、流暢な言葉で説明を始めた田島に、朱音の全身は一気に硬直して動きが止まった。

そう、朱音は、この完璧な身なりの男性を誰よりも知っていたのだ。


(な、なんで、なんで、なんで、この人がここにいるの!?)

もう少しで、口から飛び出しそうになった言葉を、微かに漏れた声と共に、辛うじて呑み込んだ。

「神田君?どうしたんだね?何か不都合でも起こったのかね?」

川上が、突然横で顔を歪めるようにして俯いてしまった朱音を怪訝そうに見た。

「……あ、い、いえ、何でもありません。大丈夫です」

朱音は、なんとか笑らしいものを浮かべて、小さく答えた。

まさかこんな大事な場面で取り乱すわけにはいかない。

鼻でゆっくりと息を吸い込み、そっと吐き出すが、微妙に吐息が震える。

極力、目の前で説明している人物を見ないようにして、耳だけを傾ける。

視線は手元のノートPCから一ミリも外さずに、必要事項を打ち込むかのような振りをした。

だが、その頭の中は真っ白、混乱を極め、心臓は異常に早く動いている。手の平には、暑くもないのに汗が滲む。

おそらくは、街中ですれ違っていたのなら、気づかないであろう。

昔の面影はほとんど残っていないと思えるほど、すっかり見違えるような男性になってはいたが……間違いなく田島は、四年前まで朱音の恋人だった人間だ。



「それでは、K.Kトラベルさんの今回の企画案を先程の説明に沿って、お聞かせ下さい」

会議室での説明の後、隣の応接室で各会社ごとの個別面談が始まった。

川上の前には榎本が座り、朱音の前には、当然田島が座った。

ここまでは、なんとか目を合わせないように必死に努力を重ねたが、いよいよそれは不可能になった。


「神田君、君から説明を頼むよ」

川上に促され、朱音はとうとう意を決した。もう、どこにも逃げられない。

手元の資料を手に取り、榎本、田島の順に手渡し、必死の営業スマイルでなんとか微笑みかける。

声が裏返ったり震えたりしませんようにと心底祈りながら口を開いた。

「今回の、企画担当の神田でございます、よろしくお願い致します」

「こちらこそお願いします、神田さん」

そう答えたのは、田島だった。

彼は朱音を見てニッコリと笑ったが、不自然に感じるほど何の感情も感じさせない物だった。そう、まるで初めて会う人間をみるような目差しだ。

「では、さっそく説明させていただきます。今回のご依頼の旅行ですが……」

朱音が資料を手に、この企画のコンセプトや特色、特典などを簡潔に説明するあいだも、田島の朱音を見る目は、なんら変わりなかった。

それは、彼が自分の元恋人であったことが、実は自分の勘違い、いや、人違いなのかもしれないと、錯覚してしまうほどだった。

彼は、本当に忘れてしまっているだろうか?それほど彼に負けないくらい自分の容姿も昔とはすっかり変わってしまったのか?

いや、それはあり得ない。彼が記憶喪失にでもなっていない限り、一年間付き合った相手の顔を忘れるほど、彼はオメデタイ人間ではなかったはずだ。

だとしたら、これほどまでに冷静で、動揺の微塵も見せない彼を前にして、自分の取り乱しようが悔しかった。

大きな契約を目の前にしているというのに、普段の半分も集中出来ていない自分が心底情けなかった。

朱音がその僅かなプライドを搔き集めながら、なんとか冷静に説明を終え、田島からの幾つかの質問にも簡潔に返答すると、それまで黙っていた榎本が初めて口を開いた。


「いいんじゃないか?田島君、どう思うかね?」

「そうですね、まだあと一社企画説明が残っていますから今の段階ではっきりした事は申し上げれませんが……」

田島は資料から目を上げずにそう答えた。

「やはり、女性の企画案というのは、我々では想像つかないような細かさがありますなぁ。いや、感心しました」

榎本は満足そうにそう言って、朱音に微笑みかけた。

朱音は、微笑み過ぎないように気を付けながら、軽く会釈した。

その際、まつ毛の影からそっと田島を盗み見たが、彼は顎先に親指を当てたまま、資料を見つめていた。

(榎本さん程は、いいと思っていない、というリアクションかしら?)

朱音は内心、皮肉っぽく呟いた。


そのわずか五分後、川上と朱音は自由の身となった。

応接室をあとにする時、お辞儀をしながら朱音はもう一度田島を盗み見たが、やはり彼の顔には何の感情も伺えず、その目も朱音に留まる事はなかった。


川上の運転する車で会社へ帰る時も、朱音はショックから立ち直れないままの胸の内を持て余しながら、早く一人になることを心の底から望んだ。

川上はなかなかの手応えがあったと、上機嫌で話を続けていたが、もはや朱音にはどうでもいい話になってしまった。

それどころか、まさか口が裂けても言えない事ではあったが、むしろ今回の話は他のライバル社が契約をしてくれればいいとさえ思った。

もし、うちと契約することになれば……

自分が企画、添乗を担当する以上、むこうの担当で総責任者の彼とは、嫌というほど顔を突き合わす事になるのだ。

どう考えても、それだけは避けたかった。いくら初めての大口契約だといえども、受け入れがたい事だと、朱音は内心全力で首を振る。

かつての恋人とはいえ、それは四年も昔の学生時代の話だったが、朱音にはそれを避けたい理由があったのだった。

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